私の目がそういうものばかりを拾うからそう感じているのかもしれない。
今、私がとても憧れていたり、素敵だなと思ったり、嫉妬してしまう人はたぶんだけれども、
沢山の人に認められなくてもが迷惑かけようとも、自分のやりたいことを一本筋を通して貫いてやってきた人
なんぢゃないかと気づいた。
何が好きで、何が嫌いで、どうしたいのか
を生きていく中ではっきりさせてきた。
そういう人なんだと思う。
だから、私は私に迷惑をかける人がとっても嫌いだ。
そういう人に限って、迷惑をかけても他人から沢山愛されているような人が多かったからだと思う。
みんな、最初から分かっている人ばかりではない。
だから、好きや嫌いや得意を人生で試して、失敗しては修正していくというのを続けていくのだ。
そうやって人生をデザインする。
振り返ってみたら、
私は何をやるのも下手だし、
コミュニケーションも下手だ。
必要以上に繊細だ。
扱いにくい。
だけれども、人に対して本当に繊細に対応しているかは今では定かではない。
わがままだし。
でも、わがままなのをずっと隠してきた。
わがままなのを隠していたのは、わがままはいけない、わがままは愛されない、という風に思い込んでいたからだ。
わがままを出して、人の意に添わねば愛されないんだ、と思い込んでいたことだ。
なんで、そんな風になったのかは兄弟が多かったことは一理あるけれども、私みたいにならない人だって沢山いる。
だから、これも人のせいではない。
自分の責任だ。
いよいよもって、年を重ねてきて、誰かと結婚したり、付き合ったりということもほぼ私の人生に関係なくなってきて、相手の気を引くために自分を折り曲げて、畳み込んで、しまい込む必要がなくなって、隠していた私が息をすることができるようになった。
介護生活に入って、今だ「迷惑kかけるな不義理をするな」という呪縛の中に入るけれども、その呪縛があっても、やるべきことや必要なことをできることだけにやるしかないんだという立場になってとても気が楽になったのかもしれない。
例えば、もう誰かと恋人や人生をともにする旦那様という存在と出会うことも、人として愛されることも最低限わかってくれる人がわずかばかりいればいいんだと腑に落ちたときに、きれいに着飾ることも、ダイエットもやめてしまった。
もともときれいぢゃないから、他人が不快に思わないように清潔さを保つことはあるけれども、もうそれ以外はそのままでいいぢゃないか。
食べたいものを気を付けてダイエットしてみても、ダンスを続けていた時も他人(師匠)からしてみれば、
いつまでたっても、〇〇さんは痩せないし、踊りに艶もない。
習った通りに表現してはいるけれども、遊びもないし、余裕も人が心を動かすようななにかもない
という評価だった。
たぶん、先生が言う通りだったと思う。
まぢめに踊るだけだもの。
私は踊りを好きなら続ければよかったのに、ある日、自分の外反母趾を見つめて、踊るのが苦痛になった。
自分を磨くということさえやめてしまっている今の状況を考えると、あまりいいとは思えない。
今の状況で愛されている自分で私はまあまあ満足して、誰かに愛されたいという気持ちが薄れたので、自分のままでいるしかなくなった状況がおクルミとなり、私を温め、楽ちんになったのだ。
今愛してくれている人が私をずっと愛するとは限らないけれども、それでもいいかもと思っている自分がいる。
今私を愛してくれている人は家族と一握りのお友達たちだけれども、とても居心地がいい。
数が増えれば今より幸せかもしれないけれど、それだけの摩擦が起きると、私はどんどんすり減っていく感じがする。
私がやることはあまりうまくないから人の迷惑になるし、
(事実としては役に立っていることもあったのにね)
だから、私より上手な人がやればいいから
私は好きとか嫌いとかは後回しにして、残ったものをやればいい。
誰もやる人がいないのだから、
多少のまずさや失敗だって、
みんなだって仕方ないと思ってくれる。
それでも人の願いにかなわないならば、
私がやめればいい。
でも、こういうやり方だと内容は身につかないし、
誰かのために役に立つすべも身につかない。
今の私は求められることもなく、介護の生活だけが人の求めがある場所だからいるだけで、そういう役目の人間もいるのだと誰かが言っていたことを助けに生きているのだと思う。
あれ?何書こうと思ったのかわからなくなった。
また、思い出したら書こう。
書こうと思った時に、書けないつらさ。(笑)