
最近、グーグルマップの画像を保存するテクニックを知り、レイラインゴッコに憂き身をやつしている私です。ただ単に、軽トラが壊れて、仕事ができないので、呆然として、妄想の世界に逃避しているだけであります。ご勘弁の上、お付き合いを。
さて、上の画像、岡谷市の神社、東堀八幡社と西堀八幡社、若宮八幡社が、結構見事に、偶然に一直線になっていましたので、紹介しました。グーグルマップで例えば[岡谷市 神社]と検索すると、こんな具合に、主だった神社がマークされて出てくる。位置関係が一目瞭然でして、不思議とそこには、レイラインめいた関係が現れるのです。問題は、この赤いマークの正確性なのですが、どうもこのマークの一番下は、その神社の本殿等を指している。だから、何万分の1の地図の神社の鳥居マークを結んでレイラインを見つけるという方法よりも、こちらの方が、はるかに正確であるはずです。
レイラインというのは、歴史や神社、古墳等の由来などの知識がなくても、地図を眺めていれば、時に発見できるもの。だから、古代史素人にも、入って来やすい、トンデモ系の世界ではありましょう。私などにはピッタリ、しかし、今回、八幡社という同じ系列の神社が、レイラインを作っているやもしれない、ときては、ちょっと興奮していたりするわけです。
それはさて置き、もりや神社の続きです。なぜ信州の真ん中の守屋山に、物部守屋を祀る神社があるのか?蘇我、聖徳太子連合軍に敗れた物部守屋は、その戦いの時に、迹見赤檮という人に、矢で射抜かれて絶命したとされています。この場面、聖徳太子をサイキックとして描いた、山岸凉子さんのマンガ「日出処の天子」なんかに迫真の描写シーンがあります、NHKで聖徳太子をドラマ化した時も、ここはクライマックスの一つでした。が、ここで物部守屋は死んではいなかった!どこをどうやってか落ちのびて、諏訪の守屋山にたどり着いたのだ、という伝説があるのですね。こういう伝説はよくあります。義経は衣川で死んではいない、落ちのびて、ジンギスカンになっただとか、明智光秀は実は生きていて、天海僧正として、家康に仕えていたとか。
物部守屋本人ではなく、その子供が落ちのびて来て、その地に物部守屋を祀って住み着いたという説もあるそうで、しかも、この物部守屋の息子が、諏訪で古くから覇を唱えていた守矢氏に入った、婿入りしたのでしょうかね、そういう伝説もあって、神長官守矢家のこれは、半ば公式見解であるらしいです。事の真偽はともかく、先祖が朝廷のトップの一人であるというのであれば、それはさまざまなところで有利でありましょう。事実、武田信玄に攻められて、トップの大祝、諏訪頼重が切腹させられて大混乱の折、この時の神長官は、チャンス到来とばかりに、うちは先祖が物部守屋という、素晴らしい血統だから官位を上げてくれ、みたいなこと、つまり、昇官運動なんかを朝廷にしていたらしいです。
ともあれ、そのような伝説を踏まえて、守屋神社というのは存在するわけですが、どうもこの神社、祀られ方が、可怪しいような気がするのです。
続く