11月末、諏訪市 中洲の藤島社。すぐ近くに従兄の家があって、久しぶりに訪ねた時、丁度、建御柱が終わったらしく、撮影させていただきました。ここも、入訪した建御名方とモリヤ神が戦ったという伝説に深く関連しております。  
 天竜川をはさんで建御名方と洩矢神が対峙したという話と、別に、建御名方-諏訪明神は守屋山に天から降臨してきたという伝説があります。この時、迎え撃ったのはやはり地元神なのですが名前が守屋大臣になっている、洩矢神と守矢氏と、物部守屋の名前がここら辺で混乱してきます。どうも、洩矢神というのが伝説の原型で、それを元に物部守屋との関係を匂わせたくて、名前を変えたんじゃないかと、そんな気がしちゃうわけです。それにしても、多くの人が指摘していることですが、物部守屋は大連(おおむらじ)であって、大臣(おおおみ)ではない、そこに疑問点が生まれる……。
 ここから私の妄想が始まります。物部守屋神社のニセモノ疑惑と、モリヤ神の名前が、守屋大臣である点。大連のはずがなぜ、大臣となっているのか?軽薄な私は、大臣の臣の一字から、「中臣氏」を連想しちゃったわけです。中臣氏は物部氏に次ぐ、その頃の神道派豪族の№2です。丁未の変の時にも当然、物部守屋側で、敗走しなければならない立ち場であったのではないか?実際、群馬県の羊神社というところは、丁未の変で落ちのびた中臣氏が開いた神社だという由来があります。
 落ちのびた中臣氏の誰かが、守屋山にたどり着き、どうせ誰にもわからんだろう、どうせ名乗るなら、トップの物部守屋を名乗っちゃえ、ということで、物部守屋もしくは、その息子になりすました。勢いのあまり、物部守屋神社まで作って、村人たちの尊敬の的になったのですが、所詮、その身分は、詐称のごまかし、どうもあの都から落ちていらした物部様は怪しい、そんなイメージが物部守屋神社につきまとう。
それが代々続いているうちに、奥宮の祠なんか粗末に扱え!なんてことになった、ナンチャッテ。
 洩矢神を守屋大臣と表現したのは、ある神長官守矢氏の古文書ですが、これは後年に書き換えられているらしい、そこで、誰かがうっかりと、か、意図的にか、守屋さんはホントは中臣さんなんですよ、ヒントに一文字「臣」入れときます。なんてことがあったりして。
 あくまで妄想です。しかし、わずかながら、この妄想にも、もう少し、傍証のようなものも、ないわけではなく……。

 続く