異邦人の世界では、4世紀以降にコンスタンチヌス皇帝が、
ローマ帝国拡大、統治、思想の統一で全市民を支配する目的で作った
人造宗教伝えられてしまいました。
太陽神信仰の土着信仰宗教の信者と、メシアを信じる異邦人の融合的で、混ざった思想。
それが、ヘブライ聖書に書いてある、イスラエルの神の教え、
ユダヤ人であるイエシュア、メシアの教えだと教えられました。
そして、神の教えが変わった理由は、1)十字架で古い教えを処分して、古い教えから人を解放されたから 2)古い教えは仮の一時的な教えであり、今は聖霊時代、恵みの時代だから、神の教えなど
生きる必要がなくなった 3)神の言葉を生きる人は律法主義者だ
4)今はより優れた新しい教えが与えられたからだ
他にももっと異端的思想は語られ続けていますが、これら全部人間が
解説している、神の言葉の方を曲げた歪んだ無理な解釈であり、
イエシュアが教えられた教え=トラー=聖書とは、全く関係のない
思想です。
神の言葉を、人間が勝手に捨てたり、破棄せよと教えたり、変えたりそのようなことをする場合、そのようなことをする人は、神の言葉を捨てているので、神の考えは、その人に正しく伝わらないままになるのです。
神の考えていることが書いてある言葉を捨てているので、神の考えではなく、人間、自分の考えを投影させて、勝手に思い込みを続けます。
相手の考えていることは、何で理解していますか?
相手が語る言葉、伝えて来る情報、内容で、相手の中にある様々な
考え、感情、心情が理解出来るのでしょう。
普通に考えても分かりませんか?相手が伝えていることを、聞く側が
勝手に無視、捨て、適当に内容、文脈逸脱して勝手に解釈していたら
その相手が自分に伝えることは、正しくなど伝わらないままになります。
この日が特別の日だから、この日に皆で集まろうと言った後、
その日が、いつでも良いなどと言いますか?
そんな、意味不明なこと、訳の分からない事を人に伝えますか?
いついつ、どこどこで、どの場所で、どの時間に、何の目的で
宴会、パーテイがありますから、いらして下さいと伝えますよね。
指定したその日、場所を、勝手に変えたら、予告しておいたパーテイ
には参加出来ません。
イスラエルの神は、異邦人が考えているような、ローマ化けした
西洋化けした、コロコロ約束や、教え、言葉や、契約や、記念日を
変えるような、いい加減な当てにならない神ではないのです。
コンスタンチヌス皇帝、人間が神が禁じているのにも関わらず、
神の教えを捨て、勝手に変えて、いや捨てよ!生きるな!と勅令で
強要し、自分教太陽神、ミトラ教、戦争勝利の神、ローマ帝国拡大、統一、支配目的で人を統治する目的のために作った、所詮人間由来
発想の人造宗教なのです。
コンスタンチヌスなど、神のトラーをパウロのように理解して、
知ってもいない人なのです。
何も正しく知らない人を、教師と選びますか?
人間が作った宗教の教え、宗教活動、宗教の伝統文化の慣わし、
シンボル、記念日をやらされている、それらは、イエシュア、
イスラエルの神に属するものではない、完全に異物が混じった混ぜ物、まがいもの、偽物、混合物なのです。
この洗脳、誤解、神の言葉、実態の進化論信仰と同じ思想が嘘!と
いう事にはっきり気がつければ、偽物の教えの大元=白蟻の巣に中には、聖書、神の言葉、教えなどではない、たくさんの偽物の教えが詰まっていることを、発見出来ます。
人間が神になり代わり、勝手に神の教えを作り出して、作り替えて、今や同性婚の結婚式、同性婚を祝福するカトリック、プロテスタントの牧師が、神の言葉を信じる人は愚かである、神の言葉の方を疑え!LGBT賛成などと一般の人に教える、このような教え、これこそが、聖書で警告している偽の教え、偽教師の正体なのです。危険。
神の教えを否定し、神が禁じている罪を人に実践するように教える人には、何も言い訳の余地など、全くないのです。
教師は、人の人生を誤りに導けるのです。人の人生を狂わせます。
騙されてはならないのです。雀の学校の先生が何を言おうとも、
それが神の言葉、教えではないものは、全て偽物、サタンが出どころの教えなのです。
日本人は、何も言わない、それが美徳。特に教師や目上の人に向かっては、何も意見しない。このような不健全な構図が存在しています。
偽物の教え、イエシュアに属さない、イスラエルの神の出どころでは
ないまがいもの、聖書ではない異邦人由来の教えは、未来には全て消えると預言されているのです。
その宗教、西洋人による西洋人の目的の為の宗教、その教えは
ヨーロッパを通り、アメリカに伝えられた、それはコンスタンチヌス製造教であり、イエシュアが教えたトラーではありません!
神の教えに、人間の思想を混ぜて、そして神の教え、トラーを生きるな!という勅令を土台として作られた人が作った宗教であり、
その教えは、聖書には記されてもいません!
聖書を読んで、そこに書かれていることは、今の異邦人の世界で
実践されているような宗教の教えなど、1つも書かれていないことに気がつかないとならないのです。
だから、コンスタンチヌス教の、不屈の太陽神、皇帝の日の日曜礼拝をし、クリスマス、ハロウイン、イースターを祝い、神の教えが廃れた!と言い続けているでしょう。
そんなまやかし、ご自分の教え=トラーを捨て、ご自分が創造されたモアデイムを人に捨てるようなことイエシュアは教えていません!
聖書に記されているのは、瞳を守るがごとく父の教えを正しくガードし
神の教えを変えず、神の言われた教えを生きている残りの民が生きた
記録が書かれているのです。
使徒以降にも、同様に神のトラーに熱心な人たちが、神の教えを生きて、シャバット、新月、過越、仮庵を祝い続けていたのです。
今の世界にある西洋宗教の教え、神の言葉が廃れたと教えて、
聖書にない宗教が編み出した、儀式や、活動、実践をやる、
それらは聖書とは、違うでしょう?
キリスト教は、イエシュアが教えた契約=トラーを生きないで、
イエシュアが祝った、シャバット、新月、過越、仮庵を祝わないのです。どうしてだろう!?と考え直した方が良いのです。
クリスチャンの間では、イエシュアが来られる以前はユダヤ教が教えられ、昇天以降は、キリスト教が教えられたと信じているでしょう。
それは、違います!
ユダヤ教というものは、モーセの五書、諸書、預言書には書かれていません。イエシュアはユダヤ教など教えていません。
では、どうして〜イズム、ユダヤ教と呼ぶのでしょうか?
紀元前538年、シラス王により、イスラエルは国に帰還し、
そして、神殿も再建築することが出来ました。
バビロン捕囚、アッシリアに捕囚された原因は、イスラエルが神の
契約を破り、異教の神々の慣わしを通して、イスラエルの神を拝み
そして、異教神の教えに染まった、姦淫の罪を犯した結果、
約束の地から追放されたのです。
汚れた生き方、神の聖別を破り、異教徒と同じ生き方をして、
聖なる地を汚し、聖なる民とされた自分自身を汚す行為は、
神ご自身の顔に泥を塗り、神ご自身を世界の中で汚す行為なのです。
神は、神の家、国、神の民、神の時=モアデイムを聖別しているのです。汚れた生き方のまま、神の家の中に土足では上がれないのです。
神は人間ではないのです。汚れと共に住まうことはできない。
神が選ばれた地、イスラエルを汚す生き方を、神は許していません。
そして、異邦人に対しても、神は、神を汚す生き方を許可などしてもいないのです。同じなのです。なぜなら、同じイスラエルの大家族、神の家、聖別された場所に住まう人は、神に聖別され、この世とは
分たれていることが、聖書の最初から最後まで記されているからです。
バビロン捕囚から戻ったイスラエルは、イスラエルの国から追放されたのは、汚れた生き方、神の教え=トラー、契約の生き方に反した
生き方をしたことが原因だと理解していました。
500年以上、1000年近くも、神の契約に反した汚れた生き方をし、
異教徒の慣わしに交わって、高きところの礼拝をしていたのです。
最終的に、その汚れは耐えられないものであり、聖別された神の国
から、汚れた生き方をする人たちが、吐き出された、それが捕囚です。
最初から、教えられています。神の教え、契約に根付く生き方に反したら呪われると。呪われるとは、自ら災難を招き入れる破壊であると
教えているのです。
敵が侵入し、雨が降らず、最後は約束の地から追放されたのです。
ユダヤ人の遺跡の中で、バアル神の代わりに、イスラエルの神の像として作り、そして、バアルの妻、アシェラ女神を、イスラエルの神の像とセットとして2つの像を並べるようなことをして、異教の神々の教え、慣わしに染まったのです。
このようなことを、イスラエルの神に属する人は、してはならないと
ずっと警告されているのです。
これは、異邦人に対しても同じ神の教え、警告なのです。
イスラエルに対して罪であると神が教えたことは、同様に、異邦人にも罪なのです。
バビロン捕囚帰還後、神の教えに反して生きることをして、再び追放されないために、神の教えに対して厳重な垣根をユダヤ人が作ったのです。
これらの教え、考えは、神の教えをどう生きるのか?という解釈に
関しての事なのです。
異邦人のように、罪そのもの、神の教え、言葉が廃れたなどという
大冒涜は、神の教えを理解するユダヤ人は言いません!
それは、神の前に死に匹敵する罪であり、偽教師、偽預言者、
悪霊の教えをする人が語る教えだからです。
異邦人には、この聖書の事実、神の教えが全く通じていないのは、
コンスタンチヌスが神の前に死に匹敵する大冒涜、神のトラーを破棄し、それを生きてはならない!という勅令を堂々と作ったものが
神の教えだと勘違いしているからなのです。
こんなズレた異教徒思考回路の太陽神信仰の皇帝が作った宗教を
神の教えだと、信奉し続けているのです。
「ユダヤ教」と呼ばれる理由は、ユダヤ人が、神の教えをどう生きるかに関しての解説を加えたものが、イエシュアが居られた時代、
存在したからです。それ以前はありませんでした。
それは、口頭トラー、口伝律法と呼ばれるものです。
ユダヤ人は、文字で記された預言者モーセを通して書かれたトラー
以外に、神が口頭で、それらの教えをどう生きるのかを伝えたという
仮説を唱えていますが、それは事実ではありません。
なぜなら、神が伝えたことは、モーセの五書に記されている教えだけであり、
エデンの園から同じ教えであり、ラビたちのトラーの解説=口伝律法は、それぞれのラビにより異なる教え、解釈をしているからです。
そんな統一性、一貫性のないもの、しかも文字で記された証拠もないものを、神から与えられた聖書、トラーとは言えないものです。
ユダヤ教とは、一世紀、それらのユダヤ人独自のトラーの実践が
混じったものです。今は、それらタルムードや、ミシュナという書に
なり、閉じられている書です。
日本語訳があるのか、知りませんが、あれば読めると思います。
その中には、トラーに関する深い洞察もたくさんありますが、
トラーとは違う、人間の思想も混じっています。
だから、ユダヤ教というのです。
聖書の中に記されている、イエシュアが議論していた相手は、
当時のユダヤ人達の慣わし=口頭トラー、人間の言い伝えを実践しない弟子達に、非難轟々浴びせた箇所があるでしょう。
それが口伝律法であり、人の言い伝え、先祖の教え、言い伝え、伝統の教え、戒めの律法などと書かれているものなのです。
これら人間の口伝律法と、神の教え=トラー=モーセの五書を、
クリスチャンの間では、同一と考え、混同して教えられているのです。
教える人が、トラーと、オーラルトラー=口伝律法の違いを理解していない場合、そのような勘違いした聖書解説をして、イエシュアが
神の古い教えに対して、否定しているなどという勘違いをするのです。
マルコ7章にある、手洗いの儀式がその例の1つです。
その儀式は、神の教え=トラーにはない教えだからです。
この箇所に、「イエスは全ての食べ物はきよいとされた」とある
文章は、原典に記されていない、挿入された偽情報です。
神=イエシュアが、ご自分の言葉を、一点一画も、否定、終了することがない!という事実からだけ、聖書を読めば、インチキな翻訳や
間違った聖書解説は、聖書ではないと簡単に突き止められます。
神が神の教えを変えるという思想こそが、異端の教えなのです。
イスラエルの神の性質、神の言葉の性質を正しく人に教えていない
思想です。
今では、シャバットに電気のスイッチを入れてはならないとか、
車を走らせてはならない、ホテルのエレベーターも自動的に各階に
止まるようになっている、などなど色々あります。
元は、神の教えをガードする目的で作った教えが、そこから逸脱して
ドンドンと、聖書とは異なる思想を編み出すのです。
クリスチャンの中にもふんだんに、独自のキリスト教という口伝律法が編み出されているのに気がついてないだけです。
誰かが作ったルールや、教えや宗教活動や、宗教の教えの実践が、
イコール、神の教えとされて、それが神の教えだと勘違いしてしまう。それが口伝律法なのです。
その他には、聖書に書かれている、「割礼」という名をつけた、
改宗儀式も、口伝律法です。
神は、異邦人がユダヤ人になる、人間が編み出した儀式を通らないと
神の国の一員とは認めないなどと教えていません。
クリスチャンの世界で言えば、洗礼受けてないと正式な神の国の
メンバーになっていない、本物のクリスチャンではありませんと
みなして人が判定していることと、全く同じ性質です。
洗礼は簡単ですが、改宗儀式=割礼は、長い年月かかるものなのです。そんな面倒くさい、人が編み出した儀式をしなくてよい!
信仰により、義とされ、イエシュアを受け取り聖霊が内側に住まう
それだけで、神のもとに戻っているという事実があるからです。
人間が編み出した改宗儀式の一連は、神の教えではないからという、シンプルな理由なのです。
神の教えではないものが混じったものを、ユダヤ教というのです。
キリスト教というのも、神の教えに、コンスタンチヌス皇帝、
その他諸々、いや土台が神の教えが廃れた!という、聖書とは異物の
関係のない思想を土台として、別の教えが盛り込まれた、人間が
作った宗教なのです。
ユダヤ教は、神の教えが廃れた!捨てよ!などという、冒涜は
ありません。
そして、イエシュアはユダヤ教という古い教え、仮の教えを破棄して、キリスト教、聖霊により生きるという教えを教えに来たのではありません!
イエシュアが地上に来られる前後で、神の教えや、神の人に対する
対応、アプローチ、許し、贖い、救いの事実、聖霊が内側に住まう
事実は最初から、永遠の中から存在し、変わらないからです。