"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう? -71ページ目

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

モーセの五書、諸書、預言書、ダニエル書を読めば分かる、

いや他の書を読んでも、残りの民は、イエシュアを受け取り、

新しくされ、聖霊を内側に与えられ、神との関係に戻って生きていた事実が、書かれています。

 

ダニエルと3人の若者は、聖霊に満たされ、神の知恵に溢れ、

神の義、勇気を頂いて、自分の命をとりあげることができる

異教徒ネブカデネザル王に対して、何も恐れず、勇敢に対峙したで

しょう。

「たとえそうではなくても」、神の教え、トラーに根付いた生き方は捨てない!神に対する冒涜など生きません!という宣言をネブカデネザル王に放ったでしょう。

たとえそうではなくても〜という、フレーズはたくさん出てきます。

 

クリスチャンは、マタイ以降しかほぼ読まないから見えないと思いますが、イエシュアの贖いの代価、血できよめられることは、

創造の最初、エデンの園からずっと教えられていることなのです。

神のミシュカンを通して、目に見えない天の神の家を地上に作らせて、そこに神の臨在が実際に住まい、神が共におられること、

イエシュアが内側に住まわれている事実を、体験を通して、

五感を通して、日々学習し、教えられていたのです。

 

イエシュアが来られて初めて木の上で処刑され、昇天され、許し、

贖い、救い、聖霊が内側に住まうことが実現したのではないのです。

最初から、永遠の中から同じ!永遠の中にイエシュアの贖いの事実が

既に完結した状態で、この世界が造られたからです。

 

歴史の中で起きたことのない重大事件が起きると、その前後で神の

教えや神の性質や、神の業、贖い、救いの方法が変化すると考えているのは、西洋人、コンスタンチヌスやその他西洋教父、教皇やダービーなどの異教徒上がりの人の思想を教えられているからです。

聖書は、最初から変わらない神、変わらない神の言葉、変わらない神の救い、贖いの方法しか伝えていないのです。

聖書を読む前提が最初からズレているのです。

 

神のミシュカン、神の家がどうして地上に作られたのか、その意味を

知る必要があります。

神の家は天に現実に存在するものです。目に見えない神の家を、

そっくりそのまま、天の領域の中で、神がモーセに見せた通りに作りなさいと言われました。

この意味は、そっくりそのままでなければ、地上に映し出される

影、レプリカは正確に天にある神の家を反映させられないからです。

これ、人間が神の教えや記念日に手を加え、別物に変えてはならないことを、教えているものでもあります。

人造宗教は、神が伝えたこととは、違うことを編み出し、実践し

イエシュアの影を地上で正しく映し出さず、勝手な影の動きを

映し出しているのです。イエシュアに属さない、イエシュアではないものを人に表しているのです。

設計図通りに作らない違反をするから、別物が地上に現れ出て

イエシュアではない、コンスタンチヌスが現れ出ているのです。

聖書に登場する人々、残りの民は、現代の異邦人が語る人造宗教の

教えなど生きていません。

聖書に登場する神を裏切った人々は、今と同じ、人造宗教、異教の神々の教えシンボル、慣わし、儀式、記念日を、高き所=異教の神々の礼拝場高い丘の上で、彼らに交わり、イスラエルの神を礼拝したのです。

イスラエルの中には、どの時代にも、必ず残りの民がいます。

実は、異邦人の中にも、残りの民がいるのです。

神が彼らを保存し、確保しておられるからです。

彼らは、異教神の教えに混じる礼拝などに加わりませんでした。

黙示録14:4異教の神々の教えに交わらない人のことが、ここに

書かれているのです。

でも、契約を破る生き方をした、他の大家族、同胞イスラエルと共に

捕囚の民として、連れて行かれてしまったのです。

エレミヤ、エゼキエル、イザヤもそうですし、ダニエルも同じです。

 

異教の神々の教えを取り入れて、それらを通して、イスラエルの神に

近づく、礼拝すること、それを、姦淫の罪と言っているのです。

最初から書いてあるではないですか。

契約を受け取った時のイスラエル、その時にすでにやらかしたこと。

 

シナイ山の麓で、モーセが山頂=天の中に入り、神から契約の板を

受け取る時に、上からラインやSNSで連絡ないから、様子が分からない。もしかして、このリーダーはもう消えたかもしれない。

当てにならない。だから、自分たちがエジプトで培った太陽神の儀式

金の子牛を自分たちが持ち出した一番高価なもの、金で作り、それを

通して、イスラエルの神を拝もう!イスラエルの神の祭りをしよう!

とやったでしょう。

そう言う思考回路は、異教徒、異教神の地に住む異邦人の中には

どっぷり、今も根付いているものなのです。

だから、神の言葉を人間が変えること、神のモアデイム、シャバットや祭りが、今は人間が考える日で良いとか、神の教えは廃れた、

変わったと主張することに、100%全く何の違和感もないでしょう。それらが、神の前には、罪であるとも認識していない。

違和感がない理由は、神の言葉を正しく理解していないからです。

それが、今も今日も、神の前に神を汚す大冒涜、違反、敵対する

発言、行動だと分からないから、やっているのです。神の言葉を、

正しく理解していないからです。

神の教えや、警告は、異邦人に対しても、同じ警告です。

イスラエルの神のものではない別物を混ぜてはならない!と言う意味が、全然通じていないのは、昇天以降、ローマ教、カトリックの教えに変わったとまやかしを信じているからです。

 

太陽神?ミトラ神のシンボル!至る所に、異教神のシンボル、儀式

慣わし、記念日がふんだんに盛り込まれているのに、全く気がつかないのです。太陽の輪が頭にあるでしょう。西洋画は全て、太陽神の

シンボルです。イスラエルの神とは、何の関係もないシンボル。

それらは、異物であり、神が拒絶される事実を、神の口から直接語られた言葉を通して、理解すれば良いのです。

神は、人に神のモアデイム、記念日を勝手に変えて良いとか、

神の教えは、律法なので、十字架で破棄されたなどと教えてもいません。

全て、異邦人が解説する、聖書ではない、聖書解説が浸透しているからです。ローマ14章、コロサイ2章など、殆どのデイスペンセーション神学や、ローマ教を信奉する教師、牧師が、神の記念日は

その人が考える日で良いという根拠として解説しています。

とんでもない、誤解です。間違った聖書の読み込みであり、このように、粗雑で、聖書に根拠、信頼性ゼロの学説、神学を取り入れた結果聖書を正しく学ばないことに陥って、偽物の思想に甘んじているのです。

この箇所、パウロは、神のモアデイムに対して、人の意見で尊重する日にして良い!などと言ってもいません。ローマ14章は、神のモアデイムのことなど、一切話してもいません!当時の人が実践していた断食の日、それは神の仰せではないのです。野菜しか食べない、偶像に捧げた肉は汚染されていると考える弱い人に対して、神の教えではない

ことに関しての実践は、その人の意見、その人が考える日にやれば

良いでしょうという、パウロのアドバイスなのです。

コロサイ2章は、神のシャバット、新月、祭りを喜び楽しみ祝うことに対して、禁欲主義の人々が、その日には断食せよ!と、ズレたことを主張していたことに対して、そんな偽教師の教えで批判されるな!とパウロが言ったのです。

そのようなことが書かれているのに、ローマ14章は、人間の

意見で神のシャバットや祭りを変えて良いという、間違った解説に

変えられていて、コロサイ2章は、神のシャバットや祭りを祝わないことに対して、批判されるな!我々は律法から解放され、古い祭り、シャバットを祝うことから解放されたからである!と主張する。

こんな、いい加減な聖書解説が、異邦人の中で堂々と横行し、

それが聖書=パウロの伝えていることだ!などと、10000%

パウロの書いた内容を、完全に誤解しているのです。

偽物の聖書解説から、神が伝える真理など汲み取れません!

嘘は嘘でしかない。偽情報は、偽情報でしかなく、そこには、人間の教えしかなく、神の教えは書いてありません!

このような偽物の教えが、全部破棄されない限り、結局、人間が神の教えを塗り替えた、偽物、まがいものインチキな粗雑でいい加減な

聖書解説しか、聞かされない状態に留まるのです。

しかも、シャバットを汚すこと、聖別を汚すこと、神がどれほど教えて、厳重に警告しているのか、クリスチャンには全く通じていないのです。

神のモアデイムや、神の言葉に、人が手をつけて良いと主張、教え、

考えている時点で、神の教えから、ズレていると気が付かないとならないのです。人が、神になり変わる冒涜をしている!と気がついて。

そのような考えができるのは、元が異教徒であり、神の教えを知らないからです。間違った聖書解説、人間の思想で聖書を読み込むという

間違った教育を受けているからです。

使徒15章の異邦人イエシュア信者と全く同じ思考回路です。

神の教えを知らないから、神が何を教えているのかも知らないまま

メシアを信じているだけで、生き方は汚れた異教徒と同じ生き方をしていたことが、書かれているでしょう。

 

イエシュアが来られる前から、屠られた子羊、永遠の中に屠られた

子羊の贖いの代価、救い、許し、恵、祝福、信仰により義、聖霊が

住まう事実、昇天以降と同様に与えられていたことが、モーセの五書預言書、諸書には書かれているのです。

学ばないから、見えないだけなのです。異邦人もパウロのような教師に、信じた最初から正しく教えられたら、いや、テモテのように

幼い頃から聖書を、書いてある通りに、親や周りの人から正しく教えられていたら、

今のように偽情報の反乱する宗教の教えなど、嘘!と簡単に見抜けるのです。

神の教えが廃れて、新しい教えが初めて昇天以降与えられたと言うまやかし、偽情報を信じているから、神の教えが廃れて、新しい教えを生きることに神が招いているなどという、大いにズレた思想を信じているのです。

何も変わらないのです。変わる必要があるのは、人の内側、神に繋がった一人一人の内側の変貌であり、神の言葉は完全であるから変わる必要などない。

人の内側の変化、成長は、個人によるものであり、皆一緒ではありません。

その個人個人の、変貌、成長によるだけなのです。

 

ダニエル書に出てくるあの四人の若者は、聖霊に満たされ、神の教えを正しく理解し、知恵に溢れた人だったこと、読んで理解してないのでしょうか?

アヴラハムも、イエシュアを知って喜んだ!神のトラーをアヴラハムは理解し、ガードして、生きていた!と書いてあるでしょう。

最初から同じです。エジプトに住んだヨセフの中に、イエシュアが

住まっていなかったと考えているのですか?

 

永遠の中に、贖いは既に完結して、この世が造られたのです。

そして全ては、神の方からアプローチです。

新しくされた事実を理解し、受け取る全ての人=残りの民は、聖霊を

受けて、イエシュアの贖いを受けて、神との関係の中に生きていたことが書いてあるのです。

イエシュアがされること、未来預言が、モーセの五書、預言書、

諸書に書いてあるのです。

それを理解していた人、いない人の違いがあるだけです。

弟子達でさえ、よく理解してなかったのです。

イエシュアが処刑され、人の罪を負って代りに死んだ、

それが、永遠の中に屠られている子羊の贖いの事実を、

地上で、真実であることを、証明するために来られたからです。

そして、最初の到来は、悩める、苦悩されるしもべとしてのイエシュアであり、再臨は、3度はありません!

しかも、秘密裏にメシア来て、クリスチャンだけが消えるという思想は、

ダービーの思想であり、20世紀まで、誰もそんなことを考える人、

教える人もいませんでした。ダービーは、ヘブライ聖書を正しく学んだことのない、結局コンスタンチヌス教から、聖書ではない教えを

様々に編み出した人なのです。

再び、来られる時には、全世界の王の王、主の主として、エルサレムのご自身の家、神殿からメルキゼデクの位に属する大祭司として

治めるお方として、来られると、トラー、預言書、諸書に記された

事実を、弟子たちに、教えたと書いてあります。ルカ24:25−27

パウロは違いました。パウロが一旦イエシュアが、タナックに記されている本当のメシアであると分かったら、トラー学者であるパウロは、弟子達がイエシュアから手ほどき解説を受けたような事がなくても、パウロの中には神のトラーが正しく植えられていたから、

深い理解が既にあった、できたのです。

 

最初から同じ福音、最初から、同じ神の教え。

贖い、救いの方法も同じ!シンプル!エデンの園でアダムとハヴァが神の前に罪を告白して、神から許され、そして神が屠って用意した

義の衣、動物の皮〜イエシュアの贖いで覆ったことが書いてあるでしょう。同じだからです。

今と変わらない。なぜなら、子羊イエシュアは永遠の中、この世の

物理的礎が創造される以前から屠られて完了、完結済みだからです。

最初から最後まで同じ。そして、どの時代の、どの人も、同じように

神を認め、神に許しを与えられた人、信仰により義とされた人は

イエシュア=聖霊が内側に住んでいたことが、トラー、預言書、

諸書に書いてあるのです。そこを学ばないままでは、その事実が見えないだけです。

イエシュアが地上に来られて、初めて罪許され、聖霊が使徒2章以降

初めて与えられた!という解説は、聖書とは異なる思想です。

なぜなら、エデンの園から、聖霊は信じる人、神に義とされたことを

受け取った人の中に住まわれていることが、書かれているからです。

しかも、残りの民は神と関係を持ち、対話しているでしょう。

ダニエル書に登場するあの若者4人。聖霊に満たされ、勇敢に生きていたでしょう。聖書に聖書と書かれているのは、モーセの五書

預言書、諸書のみなのです。

それで完全な聖書だからです。マタイ以降は、使徒が書いた外典、

最初の聖書の75%の部分の註解であり、短い後書きなのです。

古代の人の方が、よっぽど子羊イエシュアの血の贖いの意味を、

実体験を通して、学習し、骨身に染みて知っていたのです。

なぜなら、神の臨在が宿る神の家を通して、イエシュアご自身を

教えられたからです。そして、日々、二十四時間、全焼のコルバン

子羊、朝に夕に立ち上るその煙を見て、匂いを嗅いで体験した人、

シャバット、新月、祭り、イエシュアご自身の業を表す祭りを

体験的に生きた人たちの方が、イエシュアのされた業をもっと深く

理解し、知っていたからです。