"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう? -68ページ目

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

創世記2:8 主なる神は東のかた、エデンに一つのを設けて、

その造った人をそこに置かれた。

 

 2:15 主なる神は人を連れて行ってエデンの園に置き、

これを耕させ、これを守らせられた。

 

8節に、「置かれた」とありますが、15節に翻訳で同じ「置く」

あります。

翻訳では、同じ「置く」ですが、ヘブライ語では別の言葉で書かれています。

8節は、神ご自身の中に、神ご自身がエデン=歓喜、喜びである

その中に、園を造られ、その中に人が置かれていることが表されています。

そして、東のかたとあるのは、ケダム〜永遠の中とあります。

エデンの中、喜び、歓喜の中、神ご自身の中にエデンの園が植えられたと書いてあるのが分かります。

人が、永遠の中に神に聖別されていた事実、永遠の中に、子羊イエシュアが屠られて完了している、その事実の上に、この物理的世界の

礎が造られたとあるのです。

これは、翻訳では、全く見えてこないものです。

だから、エペソ1:4や、黙示録13:8に、永遠の中に選び出されて

永遠の中に全てが用意されて、この世界が造られている事実を、

パウロやヨハナンは、ヘブライ語、ヘブライ思索で書かれたトラーに記された神の伝える事実を根拠に話しているのです。

 

西洋人、クリスチャン、キリスト教、カトリックが解説する聖書解説は、神の言葉に対して、旧約聖書、新約聖書と呼び、あたかも2つ

別物の教えが存在しているという前提から全てを話していますが、

その思考回路は全く聖書とはずれています。

よくよく考えてみれば、見えます。

聖書に登場する全ての人の教科書は、モーセの五書、預言書、諸書のみであり、マタイ〜黙示録の注解書など誰も知らないのです。

そして、マタイ以降には、モーセの五書、預言書とは違うことなど

書いてもない、以前よりより優れた新しい教えなどでもないのです。

同じ神の教え。

ダービー思想に洗脳、汚染された人に聖書を学ぶと、聖書ではなく

ダービーの思想に塗り替えられた、曲がった聖書解説を聖書と教えられてしまいます。

 

ヨハネ1:17 トラーはモーセをとおして与えられ、めぐみとまこととは、イエス・キリストをとおしてきたのである。

 

この箇所を読んで、トラー=律法はモーセを通して与えられ、

今は恵とまこと、本物がキリストを通して来たから、律法は廃れた

などと、解説しているでしょう。

恵と律法、聖霊と、律法などと対比して教えられるでしょう。

このようなジャンク、粗悪な学問、学びの粗悪な教えを聞いていたら、それは聖書ではないので、神の教えに対して、完全に誤解した

読み込みだけを続けます。

聖書に登場する人、聖書記者は、クリスチャンの教えられているように、神の教えが廃れたとか、終了、人間が仕分けて良いなどという

冒涜思想、行動をもつ人は、誰一人としていません!!!

それは、神の前には罪だからです。

この箇所に書かれているのは、神の契約〜神の家に住まう人の契約

家訓は、永遠の印、証拠、神との関係にある土台として、モーセを

通して、文字として永遠の証拠、約束を与えられたのです。

クリスチャンの意識はこうです。以前は神に厳しい縛り制限窮屈な

律法が、モーセを通して与えられたと考えているのです。

でも、神の教えの麗しさ、それは私達がどれほど神の性質通りの

高貴で、聖別されて造られたことを理解する人には、神の言葉は

蜜より甘く、この世の宝、宝石、真珠、金銀よりなにより慕わしいと

理解しているのです。

全然思考回路が違うでしょう?神の教えに対して、敵対心満タンな

思想と、神ご自身である神の教えを慕う人の思考回路は違うのです。

神を求めるとは、イコール神の言葉で記された実態を内側に得ること

求めることなのです。

空想で、アイドルのポスターを眺めて、神を愛します〜求めます〜

などと言うことではないのです。

そして、神の言葉は、フリーズドライではない。

これを、命の生ける水、イエシュアに根付いた人が、生きること

その命は、人間である預言者モーセは人に与えられないでしょう!

神だけが、それを可能にするからです。神の教えに記された人の生き方、本来の性質をその通りに生きるのを可能にするのは、イエシュア=聖霊である!と書いてあるだけなのです。

人は、自分も他人も変えられない、贖い出せない、救えないでしょう

そのことが、書いてあるのに、以前は律法をモーセにより与えられ、

今は恵とまことがキリストにより与えられて、モーセの律法は廃れたのだ〜という、粗悪な教え=神の伝える意味を100%曲げた聖書

解説だけが、今まで横行していたから、皆がそう勘違いしているだけなのです。

神=言葉=聖霊である!という、根底、前提の理解がない異邦人は

神の教えを、しかも翻訳聖書だけ読んで、勘違いしたままいるのです。元から正さないとならないのです。

クリスチャンが神との関係にある根拠、土台が何かはっきり理解していないのです。神は神の提示した婚姻契約に基づいて、人との関係を結んでいることを、神の言葉を捨てる人には全く理解できていないのです。

クリスチャンは、真珠や、金、ダイアモンドをドブに捨てるように

コンスタンチヌスに教えられているのです。

信仰の土台が、偽物=コンスタンチヌスの教え、砂の土台が敷かれて

ガタガタ、自由自在に神の教えを変えて良いという、思想を土台にしたことを、信仰しているから、建物自体が歪んでるのです。

あの階の、あの窓ガラスが割れている、この部分が、歪んでるから

直しましょうとやっても、意味がないのです。

ダービーの編み出した思想も、出鱈目だらけだから、ずっと手直ししているでしょう。そんなもの最初から存在してはならない、神の教えを塗り替える、曲がった思想なのです。

そんな思想を、根拠に聖書を読めば、神が伝える真実など覆い隠されて見えないままになるのです。

根本の問題、神の言葉に対する否定、終了、破棄、そのような思想からは、間違った聖書解説、歪んで曲がった偽情報が満載の聖書解説がされてしまうのです。ある部分は真実でも、土台が嘘だからです。

 

マタイ以降には、モーセの五書とは別の教えが書いてあるようにも

思わされているのは、人間の思想で聖書を解説してしまっているからです。

20世紀まで、聖書に登場する誰一人として、又他の人達も、ダービーや、ミラーが唱えたような秘密裏の再臨や、クリスチャンだけ

空中軽挙で天に全員消える、永遠に消えるなどということを、考える人、語る人、聖書に書いてもないことを言う人などいませんでした。

 

いや、聖書に書いてない他の思想を語るのは、既に1世紀から始まっているのです。それは、神の教えが廃れたという聖書を正しく知らない、異邦人異教徒ローマ皇帝コンスタンチヌスが作った宗教の信仰の土台が、「神の教えは廃れた」ということに、勝手にしてしまっているからです。

それは、聖書に書かれている意味を、理解していないまま、空想の

聖書解説をしているからです。

神が神の言葉が永遠に廃れない!変わらない!と言っているのにも

かかわらず、人間が、神の言葉が廃れたという、これ考えれば分かる

大矛盾を唱えているのに、違和感ゼロ。

それは偽物の教え、人間が作った宗教を信じているからなのです。

聖書に書いてもないことを、本当、真理、真実だなどと、思える、

信じ込める、これは、騙しの世界、洗脳そのものなのです。

聖書は、創世記から黙示録まで一貫して同じ神の教え、トラーしか

解説していない事実を知らないならば、今のように、旧約のフィルターで語るとか、旧約=古い教えだなどと勘違いしたままになります。

私達は、律法ではなく、神の言葉を生きるのですと解説している

人がいましたが、律法とは、トラー=神の教え、インストラクションであり、神の言葉イコール、モーセの五書に記された教えしかないということさえ、知らない人が、意味不明な聖書解説をして、それなりに

そうかなと思う。なぜなら、新旧別の教えが存在しているという、

空気椅子思想、裸の王様の衣装思想を教えられているからです。

モーセの五書とは違う新しい教えなど1つも聖書の中には記されてなどない!ということを理解しない教師が教えているから、偽情報が

拡散されるのです。

又は、人間が神の教えを変えて解釈して良い、時代ごとに合った教えにして良いなどという、大冒涜、罪を平気で教えている、

それが問題なのです。

そんなことを、イエシュアは教えないし、パウロも教えていません。

大体、人間が神になり変わり、神の言葉を仕分けている行動、

それこそが、罪であり、神の座に座った傲慢、神に対する違反、神に対しての冒涜、敵対する行動です。神に敵対する思想をもちながら、神を愛しているという、大矛盾を考えているのです。

 

8節の置かれたは、永遠の中に置かれたことが書かれています。

そして、15節は、エデンの中に、神が人をそおっと大事に置く様子が表されています。

 

創世記 2:15 主なる神は人を連れて行ってエデンの園に置き、

これを耕させ、これを守らせられた。

ここにある同じ言葉、「置く」とありますが、この言葉は、

8節の、サムという言葉とは違う、「ヤナフ」という言葉であり、

この言葉の語源は、ヌアフ(ノアの名)、安息、なぐさめという

言葉の語源と同じ、同じ意味で繋がる言葉です。

 

神は、ご自分の創造された人を、大事にそっとエデンに置いた。

母親が赤ちゃんを、ベビーベッドに大事にそおっと置く様子を想像

すれば分かります。

そして、この語源は、自分にピッタリの場所。枕や布団で言えば、

完全にぴったり、肉体的にも心地よい状態、そのような言葉なのです。

本来の性質通りに、本来生きる場所に置かれる人は、そのように

本来の居心地良い環境、状態で生きるように造られていることが

書かれています。

神の内側、エデン=喜びの内側の外側に飛び出して、神との隔たりの場所に閉じ込められている状態は、エデン=喜びでもなければ、

心地よいものではないのです。

それは、人がそのようには造られていないからです。

神の教えは、神がデザインした通りを生きる時、人には心地よい

の状態、ヌアフ状態になることを教えているのです。

人が、自分の性質に反することをするから、傷つく、痛む、悲しくなる、破壊される、関係が壊れる、疎遠になるという、元の性質とは

違う状態が、人に傷、痛み、破壊をもたらすことは、明らかです。

 

15節に、これを耕させ、これを守らせられた。

とありまます。守るとは、シャマルという言葉であり、これは治める

ガードする、神の言葉に対しても同じ言葉が使われています。

 

1つは、神の言葉、教えを曲げない、変えないでガードすること、

そして、神の言われたことを実際に生きること、それが守るという

言葉の意味なのです。

神が言われた通りではないことをした、アダムとハヴァ。

そして、今の世界に蔓延する西洋宗教の教えも、ある部分は神の教えでも、大部分は神の言葉を否定し、神が伝える契約の命に根付いた

生き方を捨てている宗教実践なのです。

伝統で浸透している、人が作った宗教の実践をする、イコールそれが、イエシュアが教えた、神を愛するということなどではないのです。

人間が作った宗教の儀式や習わし、記念日を祝う、イコールそれは

イエシュアを愛することではないのです。

神が言われた通りをしない、特に神の教え、言葉を捨てる冒涜行為は

それらを持って、神を愛してなどいない、人の教えを愛して生きていることを証明するものであると、聖書に書いてあるのです。

自分の夫に言われている事を無視して、隣の旦那の言うことを、

熱心に忠実に守り続ける。姦淫の罪、姦淫する妻の行動なのです。

聖書には、それが書いてあるのです。

預言書など読めば、それらはクリアーに書かれています。

しかも、イスラエルが陥った偶像礼拝、異教の女神、神々の礼拝を

通して、イスラエルの神を拝んだのです。

何も、イスラエルの神を捨てたのではない。

偽物と交わった、混ざったことが、罪なのです。

しかも、アシェラ、イシュタル、イースター女神、これはどの宗教も同じですが、多産の女神であり、この女神の前に、おぞましい行為をするのです。

これらの神殿祭司達は、半分女半分男の装いをして、去勢までする。そして、異教の神々を拝む場所、異教の神々とは、悪霊です。

人間が考えた神々は、実在、存在しません。

でも、それらを悪霊が利用しているのです。

そして、悪霊はいつも、人の中に巣食う、住まおうとしているでしょう。豚の中に、悪霊が入るように、イエシュアが命令した箇所があるでしょう。その豚は、人間が食べるものではなく、悪霊の住まう場所に相応しい場所だからなのです。

おぞましい儀式をするのです。こんなことをしていたことが、

エレミヤ書にも書いてあるのです。7章。

使徒15章にある神殿娼婦とあるのは、異教の神々の神殿で悍ましい儀式をする神殿娼婦達です。