聖書を読みながら、聖書に記されていない数々の教えを、信じた最初から、聖書に書かれている真実の如くに教師、牧師、信仰の先輩から
教えられてしまいます。
これは、塾や学校、その他の教師を自分が調べて、相応しい教師を選ぶように、聖書を教える教師を選べませんでした。
何を教えられてしまうのか、それさえも全く分からないまま、
ずっと来ました。
誰に聞いたら分かるのか、信仰が長い人に聞けば、正しい聖書解説を
教えられると思いきや、事実は全く違いました。
聖書に書いてないことを、書いてあると教える、又は聖書に書いて
あることを、別の教えや曜日に変化させて読み違えているのです。
こんな基本的な間違いなど、一般の世界では起こりません。
いや、起きる場合があります。それは偽情報を意図的に流されて、
それが真実の如く受け入れられ、浸透してしまうことによります。
その場合には、誤解、騙しは起きますが、記載されている事実を、
書いてある通りに読まず、曲げて読み替えるようなことを教えるのは、世間、普通の人の中では決してしないでしょう。
それを、聖書を教える世界では、堂々とされてしまっているのです。
聖書を曲げて読む、人の思想で歪めて読み解く、このような違反は
あってはならないことなのに、それが浸透した理由があるのです。
325年のニカイア会議以降から、ずっと今に至るまで、異邦人だけにより開催された宗教会議です。
人間が神の教えを変える、付け足す、再定義する行為をし続ける。
ローマ帝国の最初の勅令は、神のトラー=モーセの五書に記された
ユダヤ的要素の全てを、教える、生きる、実践することを禁じる!
これに違反する人は、実際に処刑されたのです。
分かりますか?死刑です。神の教えを生きたら、死刑!
これは、ギリシャ帝国でも、全く同じでした。
独裁政治家の勅令の前には、人権はありません。
だから、ユダヤ人は70年に神殿崩壊され、そして110万も処刑
されたのです。
宗教階級制度を作ったのはカトリックです。教皇、司教と一般人は別。
そのシステムはプロテスタントにも同様に浸透しています。
中世まで、意図的にラテン語だけで聖書を読み上げ、一般の人は
ラテン語など知らないので、聖書に何が書いてあるのかも、
知らなかったのです。
親鳥が雛に餌を与えるように、司教や教皇が伝える聖書解説、
イコール、神の言葉、教えと思わされた。それ以外、確かめる手掛かりはゼロだったからです。聖霊が導けば分かるというのは、間違いです。神の言葉=聖霊という正しい手掛かりを根拠に、聖霊が書いた
神の言葉が、真実かどうか、それを読む読者が読み取らないとならないのです。神の言葉を捨てて、神の真実が分かるという人は、
教科書なしに、どんな教科も、言語も正しく習得できますという意味不明な
思想を語っているのと同じことを言っているのです。
これは、プロテスタントでも変わりません。
聖書ではない、聖書解説を、人の思想で読み解いているのに、
それが聖書解説だと思い込んでいるのです。
でも、聖書とは違う思想を語ることが、聖書ではないことを、
聖書から普通の人も発見できる時代になったのです。
プロテスタントは結婚を禁じませんが、カトリックは「悪霊の教え」
とパウロが警告したことを、実際に、直にやってしまいました。
神の創造のデザインに反するシステムを強制的に人に強要し、
組織の教えに導入しました。
こんな思想を混ぜた宗教を真剣に信奉し、その組織に支える、
これが人間の作った宗教なのです。
人が神の教えを、再定義し直して良い!と、人間が決めている時点で
それは、神の教えではなく、別の声=別の教え、宗教の周波数の中に
すっぽり入り込んでいる状態なのです。ある部分は、聖書の事実でも
他は人の思想で、神の言葉、教えを歪めた宗教。
人の思想こそが、人を縛り、神の言葉=教え=真理こそが、人を
神の性質通りの生き方、自由を与える!そのものです。
以下全員、ユダヤ人ではない異教徒上りの異邦人です。
<ローマ・カトリック教会における聖職者の結婚禁止は、
一連の教令や公会議を通じて確立され、特に11世紀から12世紀にかけて決定的な形をとりました。
これらの教令に関与した主な人物や公会議は以下のとおりです。
教皇グレゴリウス7世(1074年)
グレゴリウス改革運動の最中に重要な教令を発し、既婚の司祭が典礼行為を行うことを禁じ、叙階を受けるすべての男性に対して、事前に独身制を誓うことを義務づけました。この基準を徹底するため、既婚司祭を事実上破門しました。
教皇ベネディクトゥス8世(1018年/1022年)
司祭の結婚を正式に禁止し、司祭の子どもが教会財産を相続することを禁じる規則を定めました。
第1ラテラノ公会議(1123年)
聖職者の結婚は無効であると宣言し、司祭・助祭・修道士がすでに結んでいた結婚はすべて解消されなければならないと定めました。
第2ラテラノ公会議(1139年)
教皇インノケンティウス2世の下で開催され、叙階(聖職)が結婚に対する「解消的障害(ディリメンス障害)」であるとする最終的な教会法を確立しました。これにより、司祭が結婚を試みても、それは単に違法なだけでなく、最初から無効とされました。
教皇シリキウス(385年/386年)
現存する最も初期の教皇立法の一つ(『ディレクタ書簡』)を発し、すべての高位聖職者(司教・司祭・助祭)に対し、たとえすでに結婚していても独身を守り、夫婦関係を断つことを命じました。
エルヴィラ公会議(約305年/306年)
普遍公会議ではなくスペイン地方の地域公会議でしたが、聖職者に対して妻との完全な禁欲を義務づけ、違反した場合は職位から解任するとする、最初に知られている成文の規定(第33条)を定めました。
| 権威/公会議 | 年代 | 主な内容 |
|---|---|---|
| エルヴィラ公会議 | 約305年 | 聖職者の禁欲を求める最初の文書化された地域規定 |
| 教皇シリキウス | 385年 | 永続的禁欲を求める最初の教皇教令 |
| 教皇グレゴリウス7世 | 1074年 | 叙階の条件として独身制を強制 |
| 第1ラテラノ公会議 | 1123年 | 聖職者の結婚は「解消されるべき」と宣言 |
| 第2ラテラノ公会議 |
これら全て、神の教えに反する、人間の教えであり、神の創造の
デザイン、聖書、神の教えに反する思想そのものです。
カトリックはこのように言います。
プロテスタントは、聖書を信じると言いながら、実際の信仰は矛盾して、一貫していないでしょう!と。
どういう意味だと思いますか?カトリックは、神の教えを人が変えて良いと主張し、そう実践しています。
時代に合うように、神の教えを解釈し直して良いのだと主張して、
実際にそうしています。
ペテロは、カトリック教の初代教皇であるという偽りも、記憶の中から全部削除してください。ペテロはユダヤ人であり、100%モーセの五書、トラーに忠実に生きて、教えて、神の教えを塗り替える宗教など作り出した人などではないからです。
ローマ教を作ったのは、ローマ帝国です。
偽情報が真実の如く、伝えられ続けて、そう語りますが、主に属する人は、偽りを人に伝えてはならないと、教えられています。
教皇が神の名、聖なる父を名乗り、聖書ではない教えを、聖書だと
認定しているでしょう。
カトリック教皇が、LGBT、同性婚祝福しています。
カトリックが神の教えを変えたのです。そして、人が神の代行者となったと、主張、言っているのです。
そして、神のトラーに記された教えを捨て、人が神の教えを塗り変えて、神のシャバットや祭りをカトリックは変えましたと、
彼らの経典には、はっきり記されています。
そのように、プロテスタントも、人間が変えた教えを実践しているのです。
だから、聖書を読んでも、イエシュアが神の教えを変えよとか、
安息日が日曜日になったとか、今はいつでも人間の意見で、神の記念日を変えて良くなったと、ローマ14章のパウロが語る内容を
100%誤解し、勝手な聖書解説をし続けて、それが聖書と信じ込んで実践しているのです。
これらの行為は、神の前には大冒涜以外の何ものでもないのに、
そのことにさえ、聖書を読んでも気がつけないのです。
姦淫の罪と、聖書に書いてある意味を、理解していないままなのです。
「姦淫の罪、高きところの礼拝」とは、イスラエルが辿った、同調、同化、迎合、迎合、同期、別ものの教えと交わりながら、イスラエルの神に近づく行為を禁じているのに、最初の部分を知らないならば、姦淫の罪の実態が何か分からないのです。
生ぬるいとは、熱くない、冷たくない、混ざり物が一番分りにくい
くせもの!と、黙示録に書いてあるのがそれです。
プロテスタントも「聖書だけを根拠にしています!聖書を誤りなき神の言葉と信じます!」と口では言いながら、実際の行動は、
神のトラーを捨てて、カトリックが変えた教えや、記念日を実際に
祝い続けているなら、それは、真実な信仰、行動ではなく、一貫性のない矛盾を実践していることだから、中途半端なことを言わず、
カトリックに戻って来たら?と彼らカトリックが言っているのです。
分りますか?信仰の主張と、実際の実践が矛盾しているよ!という
ことを、カトリックがプロテスタントに物申しているのです。
これは、本当にそうです。なぜなら、聖書は誤りなき神の言葉、
聖書だけに戻る!と口では言いながら、実際の行動、事実は全くそうではなく、信仰の土台そのものが、ローマが編み出した神のトラーを否定する思想と、そして、人間が編み出した思想を通した聖書解説、
実践そのものだからです。
ある部分は聖書ですが、実際の生き方は、人が編み出したローマ宗教の実践そのものをやっているからです。
イエシュアが教えられた教えや、生き方、そして記念日の全部を捨てている、この矛盾にはっきり気がついていないのです。
人間の思想が信仰の土台となっているという、大きな誤りに気がついていない。
駅に行って時刻表を見て、朝7時台には10分おきに電車が来ることが書かれていれば、日本では正確にその時間に来るので、その通りの
時刻に来ると読み、理解するでしょう。
もし、そこに書かれている数字が、書いてあることとは違う意味に
読み取らなくてはならないなら、なんでそんな面倒なことをするの?と普通に分かりませんか?暗号読み取りしなくてはならない?
学校に行って、教科書に書かれていないこと、書かれている事とは
逆のことを教えたり、主張すれば、間違いだ!と即座に指摘されます。
偽科学、進化論は、真実であるが如くに教えられていますから、
教科書には、人間は猿から進化しましたと書かれています。
この世界は、46億年などと言いますが、真実などではありません。
それに対して、人は猿から進化していませんと、教科書とは違うことを言えば、それは宗教だと言われます。
進化論という仮説宗教を信じる人に、そう言われます。
神の言葉、教え、契約、トラー、もっと細かく言えば、
「さとし、あかし、教え、戒め、知恵、おきて、仰せ、み言葉」などという様々な同義語、類義語で神の言葉が語られていますが、
どれももれなく同じく、イエシュアが言われた「父の教え」のある
側面を語っているものです。
マタイ以降に、「み言葉」と書いてあったらそれは、トラー=モーセの五書に記された神の教えのことなのです。
イエシュアが教えられた父の言葉、み言葉と、モーセの五書が違うという、催眠術にかけられているのです。又は、イエシュアが十字架で
神の古い、悪い、不完全な言葉、厳しい掟を全て破棄されたのだ〜!
「ウルトラマンの息子、ウルトラの父に逆らう」シリーズを、ローマ教の教えは作っているのです。
聖書だけに基づき、よく考えれば良いのです。神が禁じている行為、
人間が神の言葉を、塗り替え、再定義する!これを、カトリックは、神の言葉を人が変える、再定義する、時代ごとにあった教えに言い換えて良い!と主張しているでしょう。プロテスタントも全く同じことをしています。
神の言われたこととは、完全にずれている!神の警告した、神の言葉に付け足し、差し引きするなかれ!という罪を平気でして、人にもそれをするように教えているのです。
マタイ以降に記された「み言葉」と、トラー、預言書、諸書の中に
記されている「み言葉」は違うのだ!とクリスチャンは教えられて
いますが、そのような思想こそが、聖書の真実の根底を揺るがす砂、
つまづきの岩であり、偽りの教えそのものです。
神の教えは最初から、口頭でエデンの園から教えれた同じ神の教え、言葉であり、正式に文字として記されたのが、シナイ山で与えられたモーセの五書として記された「婚姻契約書」です。
こう考えているでしょう。神の教えは、ユダヤ人、ユダヤ人だけのもの!であると。
神の教えはユダヤ人だけのものではありません!
神は、「イスラエル」という神の民を選び出しました。
それはもちろん肉的にアヴラハムの子孫が代表として選ばれましたが、異邦人も同じようにイエシュアを通して神の元に戻った人はもれなく、イスラエルであり、神の国=イスラエル、イエシュアの性質を反映する聖なる民、神の宮であると神は教えているのです。
天の共同相続人と、パウロもトラーに記された事実を説明しています。
エペソ2:19 そこであなたがたは、もはや異国人でも宿り人でもなく、聖徒たちと同じ国籍の者であり、神の家族なのである。
異邦人も、イスラエルという聖なる民の一員に加えらたのです。
イスラエルと、クリスチャン(異邦人)は関係ないと主張しますが
それならば、その人たち全て全員、イエシュアとも、何の関係もありません!ということになるのです。
神が教えている言葉を、注意深く、意味通りに学ばない、イコール、神の考え、意図が全く通じない状態になり、人の思想をスポンジの
ごとく、どんどん吸収し、神の教えではない、偽情報を平気で信じられる頭脳=悪い地になってしまっているのです。