クリスチャンも誇らしく、「私達は聖霊の宮です!」と言いませんか?聖霊の宮の定義は、モーセの五書に記されているのです。
それ以外に、神の宮の定義はないのです。
自分定義の神の宮は、自己解釈であり、神が伝える定義、実態ではありません。
イスラエルの神に属する、神のものとされた聖なる民は、神の教えを捨てるよう人に教えたり、神が禁じている生き方、LGBTを生きたり、神の創造された記念日を捨て、聖別を汚す、異教徒と同じように祭壇に捧げられないきよくない清掃動物を、神の言葉から識別なく、無差別になんでも食するような悪食をして、神の宮である体を汚す行為はしない!するようには、
造られていないことを、神の教えから知らないのです。
その自覚がないのは、神の教えを捨てるように、偽教師に教えられているからです。神の教えが、あたかも悪い教えのように、ずっと教えられ、そう
言い続けているでしょう。
自由を与えられたのに、古い律法に戻るのか〜!一体何を言って、
何を生きているのか、気がついていないだけなのです。
イエシュアの性質通りを、地に映し出す、それが、神の民の役割なのに、別物の影をそれぞれが思うところを、勝手に映し出している。
イエシュアではなく、宗教の教えの影そのものが、地上で反映されているのです。
そして、神が神の民全員を呼び出している記念日、モアデイムを神に聖別された人が捨てる、これは夫への裏切り行為なのです。
神が、神の民とし、聖別された人に、「印」としてシャバットを与えたことが、神の口から語られています。
契約には、儀式と、印が伴います。そして、その契約は、シナイ山で
文字として、永遠の証拠として、記されたものになったのです。
神の教えはエデンの園から同じです。それは、神の性質通りに造られた人は、進化、変化しないからです。
永遠の中に全てが完結しているからです。
そして、聖書の最初の1章だけを読んでも、全て書かれていません。
こんなことを、考える教師がいます。モーセの五書と、十戒が
別物である!と。
????の思想ですが、こういうことを言いたいのです。
デイスペンセーション神学で教えられるように、神の教えが変化したと、聖書に書いてない思想を信じているのです。
そして、ある部分の教えを、人が取り出して、選択して生きると考えているから、それらの教えを、どうやって仕分ける、基準は何なのですか?
という考え、思考回路なのです。
神の言葉を理解する思考回路が、最初から神の考え=神の言葉と
ずれているのです。言われた通りを、どうして信じないのか?
神の言葉、教えに、人間がつけたし、差し引きするなかれ!
変えるな!それなのに、それをずっとやり続けているのが、
宗教の教え、ローマ教発祥の人が作った宗教の教えなのです。
今や、45、000以上のプロテスタントの宗派があるのです。
思考が空中分解して、それぞれの編み出した教えを生きている。
神の言葉は、クリスチャンの世界で浸透した思想のように分解したり、変化、取り出し、付け足し差し引きできない性質である!という
ことが、聖書に書かれた神の言葉から理解してない人が、聖書とは
違う、神の性質、神の言葉の性質、変化する!と語り続けているのです。
人がある書を手に取って、その書の最初のページに書いてある、
書の内容である目次が、内容と違うと考えますか?
目次と内容、中身が違う!そんなこと、ありえないでしょう!
目次は、内容を短い言葉で表しているものです。
ニュースのヘッダー、見出しも同じです。見出しと、内容が異なる
記事などありません。
それなのに、聖書を教える教師が、10の言葉(十戒と訳されている)とモーセの五書が違うと考えている。
これは、異邦人の間に浸透した、人造宗教の教えと、その神学を
通してされてしまった、ズレた間違った聖書教育の産物なのです。
10の言葉は、十戒と訳されていますが、モーセの五書=父の教え=
神の言葉=契約書のタイトル、要約です。
10の言葉の詳細を、モーセの五書全体で解説しているのです。
しかも、カトリックもプロテスタントも、神の教えを人間が塗り替えて、それで良いと考えているでしょう。
そんなことをしてはならない!という神が伝える基本中の基本を理解しないまま、人の教えを土台として作られた人間の宗教を神の教えと信じられる方が不思議なのですが、肉には納得アピールします。
なぜなら、変化する方が、人には分りやすいからです。
人は変化します。変化しないものに、出会ったことがないからです。
そして、ある大きな出来事があると、それ以降神の教えや性質、対応が変わったと誤解するのです。教えと、神の業、神の人への
アプローチが変わると思うのは、肉の目から見ているからです。
神の目=神が伝える言葉から、神が言われたことを理解しようとも
していないからです。
何も変わらない!と神が言われることを、信じていないからです。
神の言葉が真実であると理解できない理由は、偽物=代替えを本物と思わされ、聖書に書いてもない神の教えでもないことを、言い続け、やり続けるから、神が言われることが、分からなくなったままいるのです。
長い年月、みんながやっていれば、それが本当と思う。
それが、肉の思考回路です。
神の教えを捨てる人は、当然の如く、神が伝える罪の定義を聖書に書いてあるのに知りません。罪が何か分からないから、罪、ずれていても、ずれていることにさえ、気がつかないということが起きているのです。
神の伝える罪は、神を知らない人でも分かる、道徳的な違反だけではありません。神のシャバットやモアデイムを汚し、破り、違反する
行為、これは、とてもとても重い罪であると、神を知らない人には理解できないことが書いてあるのです。
聖別を汚す行為も、イエシュアを反映しない、汚れた行為なのです。
このようなことをして、イスラエルは約束の地から吐き出されたのです。
罪の定義は、聖書では、神の教え=トラーに違反すること!
とはっきり福音書以降にも、トラーに記された罪の定義が短く抜粋で書かれているでしょう。
父の教えは、クリスチャンが教えられているように、2つ無い、
変化しない!神が伝える真実を、真っ向から否定したのがギリシャ
帝国やローマ帝国を支配した独裁者です。
これは、何度も書いていますが、世間一般主流に語られる教え、
神学校で教えられる思想は、聖書ではない人間=ローマが神の教えを
塗り替えて作った思想、それを教えられてしまっているのです。
クリスチャンは、主にマタイ以降だけ読むでしょう?
それは、最初の部分が、終了した、廃れたと教えられているからです。
そして、最初の部分を書いてある通りに教えられることが、ないから
①終了した無用な箇所など、深く学ぶ必要がない。
②マタイ以降だけ読んでいれば、それで十分。
これは、時の異端教師と言われたマルキオンの言葉そのものです。
クリスチャンは、ルカと、パウロの手紙、1、2程度読めばそれで
事足りると、彼は教え、そう言いました。
そう考える人は多いでしょう。なぜなら、こんなことを教えられているからです。律法時代、聖霊時代。
律法、父の教え=トラー、モーセの五書に対して使われている不適切な翻訳ですが、それは終了した!今は聖霊に導かれるから、神の言葉など学ぶ必要などありませんと、意味不明、矛盾した教えをしながら
同様に、聖書を読みましょうなどと言います。
矛盾した主張は、プロテスタントは聖書信仰です!神の言葉だけを
土台とします!と大看板を掲げながら、実はそれとは真逆な思想を
教えているのです。
最初の部分が廃れた、そしてイエシュアが来られて新しい教え、
モーセの五書とは違う教えが与えられた、又はモーセの五書を終了、又は、人間の
考えで神の教えを仕分ける時代になった!これ、全部神の教え、
聖書とは関係のない、神が警告する偽物の教えです。
人の体のどの臓器も自由自在に取り外して生きられない。
細胞1つ1つ全部繋がっているでしょう?
神の言葉も同じです。神が神が創造された人の生き方を、人に伝えており、そして神がどんなお方であるか伝えているのに、その事実を
人間が否定している行為を、堂々とずっとやっているのです。
文字になり、教科書になり、浸透している教え、説が真実だと一般的には、受け取られています。
それとは違うことを主張すれば、異端と言われます。
聖書=神も教えに照らし合わせて異端と言われるのではなく、
主流、流通して定着している非聖書的な思想と比べ、聞きなれない
聖書に書かれている事実に対して、異端と言われるのです。
マタイ以降が、神の教えの最新版、変化版、最初の部分とは違う教え、最初の部分を削除、破棄、終了し、より霊的な教え、霊により
生きることが教えられているとクリスチャンは信じているでしょう。
自分で聖書を今目の前に読んで見れば良いのです。
マタイ以降、イエシュアが教えられたのは、100%モーセの五書であり、イエシュアは神のトラーを軽々しく取り扱う、ないがしろにするように教える人は、天の家では一番遠くの末席、意味のない存在になる!と言われたのに、それを堂々とさせられているのです。
聖書のどこに、マタイ以降のどこに、人間が神の教えを人間が仕分けて良い、破棄せよ、古い、無効、
異邦人には関係のない教えだと書かれていますか?
そんなことは、一つとして書かれていません。
パウロが語っていることを、正しく理解しない、そして神の言葉は
廃れたという偽証を信じる人が、ズレた聖書解説を安易にしているのです。
これは、深掘りしなくてはならない問題なのですが、水に浸かる洗礼をクリスチャンはしますよね。
では、もしそれが割礼のように大変なことだったら、そう簡単には
できませんよね。
割礼は大人になれば、それは手術ですから。しかも、割礼は、8日目に
知らない間に、親の信仰により授けられているのです。
知らない間に、受けているものです。自分の意思に関わらず。
でも、アヴラハムは99歳でした。そしてモーセの子供達もモーセが
トラーを教えて知っているのに、割礼がありませんでした。
それは、神の目の前には、正しくないことでした。
パウロが手紙で語る「割礼」とは、当時のユダヤ人が編み出した改宗儀式であることを、はっきり
認識して下さい。神の教えではない、口伝律法、人の戒めです。
ユダヤ人の仲間、交わりに加わるのに、ユダヤ人となる改宗儀式をしていない人を入れない!と主張した人たちに対して、改宗儀式をしていなくても、交わりに入れる条件をちゃんと提示しているのです。
それは、最低限の神の教えを、先ず最初に理解することでした。
これ、クリスチャンの間では理解されていません。
なぜなら、神の教えが廃れたと教え、異教徒と同じように生きている。血を食べ、きよくない動物を食す。異教神神殿娼婦とは交わる
不品行はしていなくても、偶像の神に生贄を捧げなくても、きよくない
動物は平気で食する。この矛盾があるのです。
使徒15章の提案は、神の教え=トラーを全く理解しないままの
異邦人イエシュア信者は、最低限神の前にNO 御法度、罪である行為は何か、それらをしながら、つまりきよくないものに交わりながら
ユダヤ人と一緒に、交われない、食卓は囲めません!ということなのです。
皆で集まる時、誰かがポークビッツ、ポークロースト、エビフライなど持ってくる
そんなことをしては、一緒に交わりができないから、その最低限を先ず
理解して、それから、毎週シャバットで、神の教え=トラーを一緒に
会堂で聞いていたら、神の教えに生きることを知っていくだろうからと書いてあるのです。
もっと切実な問題は、イスラム教徒がイエシュアに出会った場合です。これ実際にある問題なのです。彼らは宗教文化で、一夫多妻制
妻が多くいるのです。でも、イエシュアに出会うとそのライフスタイルは、神の教え、創造のデザインとはずれていると分かるし、
ではどうすれば良いのか?という、現実問題があるのです。
これは、別のトピックなので今は省きます。
クリスチャンの間で教えられている聖書解説は、神の言葉を人間の
思想で塗り替えて聖書を読む、歪んだ聖書解説です。
欠目なく、書いてある通りに読まないとならないのです。
聖書は、クリスチャンが語るような変化する神、変化する神の言葉、変化する神の
教えなど1つも書いてないのが、事実だからです。
預言書には、未来預言が中心で書かれているのではありません。
神の警告は、神の教えからズレて生きることへの警告であり、
未来に起こると予測されていることの中で、神に信頼し、恐れないで
生きること!
この箇所で、イエシュアが言われたことは、ダニエル書に記された
近い未来、神殿崩壊=70年に実際にされた神殿崩壊が起きることを、話しているのです。
そして、その日が安息日=第7日目ではないようにとあるでしょう。
安息日、その日が日曜日ではないように、などと書いてないでしょう。
聖書に書いてある安息日は、100%第7日目であり、日曜日のこと
など1つも書いてありません!
間違った聖書の読み込みをやめない限り、人の教えが聖書ではない!
と気がつけないまま、聖書の記述をクリスチャン読者が曲げて読み込みし続けてしまいます。そういう違反をやめるのです。
書いてある意味通りに、普通に読む。学校の教科書で、第7日目と
あったら日曜日と読まないでしょう。それと同じことをするのです。