仮庵の祭りが終わり新しい一年が始まる | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

仮庵の祭りが終わると、この前後からイスラエルでは長い乾季が

終わり、雨が降る季節になります。

 

「後の雨運動」というムーブメントを、1948年

カナダの大学で始めましたが、西洋宗教という思想を土台に

した運動、ムーブメントは、人が考えて作った運動です。

ファッション業界みたいに、今年の流行りはこの服装とすると

決めるのと同じであり、神から出たものではありません。

聖書に記されているイスラエルの「後の雨」とは、春に降る

ちょろちょろ、パラパラの雨であり、秋に降る雨とは違うもの

ですが、イスラエルの地形、天候を知らない人が編み出した

ムーブメントです。

 

新しい農業サイクルが、始まる季節になります。

イスラエルという国、土地、大地、地形、植物、動物、全部を

通して創造主が人に伝えるメッセージがその中にあります。

 

詩篇 42:1 神よ、しかが谷川を慕いあえぐように、

わが魂もあなたを慕いあえぐ。

42:2 わが魂はかわいているように神を慕い、いける神を慕う。

いつ、わたしは行って神のみ顔を見ることができるだろうか。

42:2 わが魂はかわいているように神を慕い、いける神を慕う。

いつ、わたしは行って神のみ顔を見ることができるだろうか。

 

動物も、植物も、人も水がないと乾いて、水を求めます。

神が全てを創造されたことを、忘れてはならないのです。

あの乾いた喉を潤す冷たい一杯の水とありますが、

それで生き返るのです。

植物など、しおれて居る所へ、水をかけたとたん、シャキンと

元通りになるのを、見たことがありますか?

 

サムエル記下 23章15–17節に記されている

「ダビデの勇士たちがベツレヘムの井戸から水を汲んできた記述」には、最初からイエシュアが記されて、教えられているのです。原子福音などという思想は、真実では有りません!

最初から、神の教えの完全版が聖書に記されているのです。

 

このストーリーはイエス・キリストの品格、犠牲、そして

未来の御国を直接指し示す歴史的な影としての役割を

果たしています。実態と影は同じであり、同一、同じ実質です。

影、イコール、劣るものという思想をクリスチャンは教えられていますが、それは神が語る解説とは、逸脱している思想です。

聖書に記されている事は、実態と影です。

影は目に見えない実態を表すもので」あり、同一の性質、同じなのです。

「わたしを見た者は、父を見た。父とわたしは一体=エハッド

である。」と言われたのです。

肉体を取って来られたトラーであるイエシュアは、モーセの五書に記された神が創造された人の性質、その人達が何をどう生きるのかを、神の性質通りを実際に生きて見せて下さったのです。

 

誰一人、歴史の中で、神が創造された人の生き方を生きた人は

いません。

第一のアダムは、神の言葉からそれて、神の性質ではないことを

頭脳に、肉体に、そして、行動に取り入れてのです。

イエシュアを通して、トラー、モーセの五書、神の教え、婚姻契約を生きるとは、このようなことである!とイエシュアの生き様で証明、教えに来て下さったのです!

食べ物、人の体に取り入れるもの、そして何を取り入れて、

何を取り入れて生きないように造られて居るのか教えているのが、神の言葉なのです。

 

人は、神の言葉で造られており、神の口から出る1つ1つの言葉により生きるように造られているのに、人間の作った宗教の

教えは、その命の源である聖霊=イエシュア=生ける水=言葉を

捨てて、人間の考えを人間の判断で生きるように教えています。

 

聖書を読みながら、聖書から逸脱した独自の解釈を施して、

それぞれが自由自在に勝手きままに、神の教えを解説し、伝えることとは違うことを生きている、今の状態は、バラバラな家族になっているのです。

未来は、それが元に修復されます。

2000年前、悩めるしもべ、子羊として来られたイエシュアは

獅子、王の王として、全世界の権威、支配者、統治者として

来られることを、タナックを読んで、メシアをメシアと知らない

ユダヤ人も、誰もイエシュアがメシアと否定出来ない、メシアと

認識する日が来るのです。

同時に、イエシュア=神の言葉、トラーである、肉体を取って来られたメシアが語る、教える教えは、クリスチャンが否定して来た律法そのものであったことを、神の教えを廃れた!という

偽情報を信じる人も、同じように偽の教えを信じたことに

嘆き悲しむとあるのです。

 

全世界の国々の代表、大統領、首相、首脳全員が、エルサレムに

神の祭りで上る様になるというすごい預言が書かれています。

世界首脳会議で集まるのではない。

神の創造されたモアデイムを祝う為に、各国、全世界の首脳が

都上りの祭りにやってくる日が訪れるのです。

 

メシア的解釈は、主に3つのテーマに焦点を当てています。

1. 命の水を与える源としてのベツレヘム

ベイト=家、レヘム=パン、命のパンとイエシュアが言われた

源、そして生ける水でも表される、創造主=源に繋がることが

ずっと記されてます。

一年の最後の祭り、再臨、イエシュアが永遠に統治される未来

の世界、その未来預言を表す祭り、水を汲み出すことを

ずっと繋がっています。

 

民数記 21:16 彼らはそこからベエルへ進んで行った。これは主がモーセにむかって、「民を集めよ。わたしはかれらに水を与えるであろう」と言われた井戸である。

21:17 その時イスラエルはこの歌をうたった。「井戸の水よ、

わきあがれ、人々よ、この井戸のために歌え、

影と本体は同じです。

目に見えるか、見えないかだけの違いです。

今目に見えなくても、神が居られ、見えなくても、感じなくても

信じる人は、神の中に住まい、天の現実の中に住まい、

神の御座の前に引き寄せられていて、神も人の中に住んでいる

事実があるでしょう。

見えない、感じない、イコール、それらが実在していないのでは

ないのです。

神の言葉、教えは永遠の中から、最初から完全であり、最初から同じ真理を教えています。

キリスト教が語るような、不完全な教えが廃れて、完全な教えになり、真理が徐々に神により教えられる!そんな事は、聖書に書いてありません。書いてある神の言葉、教えの内容は、最初から最後までずっと一貫して同じだからです。

神の教えを理解しない人の頭脳が、神の教えに目が開かれる事が

起きるだけなのです。

神の教えが廃れた!と言い続けた人が、それが嘘、偽情報だと

気がつく!それです。進化論信じていた、しかしある日、それが

嘘である!と気がつくことなのです。

神の言葉、神の教えの進化論が嘘であると、聖書に照らし合わせれば分かるからです。分からないのは、偽の教えを教えられ

聖書に書いてあることを、書いて無い意味に還元、変換、意味を変えて読むことを教えられてしまっている、それをやめれば良いのです。

神の言葉に対する個人個人の理解が違うだけです。神の言葉は

変わらないからです。神がそう言われたからです。

神の言葉教えを聞いて、生きて、理解する人の理解の度合い、

深さが違うだけです。

神がちょっとずつ、真理をつまびらかに、明らかにするというのは、聖書で語られている事実とは異なります。

 

未来に起きる出来事は、もちろん、一人ひとりの人生の予定も

何時なになにが起きて、いつこの世を去るなどと、神は人に

細かい詳細など、伝えないのと同じことです。

人の人生のプランを、神は予定表、暦のように、教えません!

その時になったら分かる事であり、全部を知らなくても良いのです。全部知っていたら、神を信頼して歩まなくなります。

 

ダビデは、敵であるペリシテ人に占領されていたベツレヘムの門の傍らにある井戸から、水を飲みたいと切望して叫びます。

 

 ベツレヘムはダビデ王の生誕地であり、後メシアである

イエシュアが誕生した場所でもあります。

メシア的註解者たちは、ダビデがベツレヘムの水を渇望した姿を人類の深い霊的渇きに関連付けています。

エデン=よろこび=神の中から飛び出した人は、乾いて生きているのです。

もちろん、衣食住は満たされても、本当の意味、深い所、井戸は

乾いているのです。

 

その渇きは最終的に、敵の陣地(罪と死)を突き破って人類を

救うためにベツレヘムから現れた「命の水(ヨハネ 4:10–14)」であるイエスによってのみ満たされるのです。

 3人の勇士たちはダビデを深く愛していたため、

正式な命令を必要としませんでした。

ダビデの切実なつぶやきを聞くだけで、命を危険にさらし、

敵の陣を突破して水を確保するのに十分だったのです。

 

 これらの戦士たちは、真の弟子道の姿を象徴しています。

メシア的見解において、イエシュアが、究極のメシアです。

イシュアに対する態度、姿勢を求められているのです。

 

荒野には、ワデイという湧き水があります。

本当にカラカラな大地の中に、ひょっこりさわら、湧き水が

あるのです。

乾いた大地、この世です。その中で、湧き水、生ける水、

イエシュアが居られて、神の元に戻る、命の水を提供するのです。

命の水とは、神の言葉そのものです。命のパン、生ける水。

神の言葉なのです。それが聖書に書いてあるのに、その事実から

離れて、神の言葉から人の意識を反らせる思想は、全て、神に

敵対するものが仕向けている教えである!裏にいる悪者、サタンは、巧妙に人を騙し、イエシュアを信じる人の口から、聖霊である神の言葉を堂々と否定する思想を、第四の獣に賛同する人々を

通して、今も今日もずっと拡散し続けていることに、気がつけば

良いのです。驚愕ものです!

死海に隣接する荒野、エンボゲック、エンゲデイなど、このように湧き水があります。

動物もたくさん生息しています。

 

仮庵の祭りに2014年に行った時、荒野に生えて来る植物を

見つけて感動しました。

去年の12月は、雨がたくさん降り、緑の大地になっていました。春には花が一面に咲くのですが、仮庵までの時期は、

このようにカラカラな大地なのです。

image

 

 

image

 

クリスマスの歌、荒野の果てにとありますが、荒野の果に

太陽が沈む様子が見えます。

仮庵の時期は、夜月が大きく見えて、夜空が明るいのです。

 

 

image