仮庵の祭りも終盤を迎えました。
イスラエルのグループからは、お互いの家でのパーテイの連絡
などが入り、とても楽しい1週間を過ごして居る様子が
分かります。
明日金曜日の日没が7日目の終わりであり、同時に、第七日目の
仮庵の祭りから、次の日の「第8日」という単独の祝日で、
秋の祭りの一連が閉じて、新しい年のサイクルが始まります。
新しい年とは、秋の仮庵の時に全ての収穫物が揃い、又新しい
農作業のサイクルが始まるからです。
9月新学期を取るのは、市民の暦だからです。
そして、秋の祭りは、再臨と、イエシュアがエルサレムから
世界を王の王として統治される新しい時代、新世界秩序が訪れる預言的祭りだからです。
イスラエルは、春からこの仮庵の祭りまで一滴も雨が降らない
不思議な場所です。
秋の仮庵の祭りの時期から、雨が降り出します。
大雨が大地を叩いて、農業が出来る地を準備するのです。
神の契約に忠実に生きたら、雨を与え多くの収穫物を得ると
あります。
夫の伝える事、教える事、詰まり神の言葉に忠実に生きること
これが、一番安全、本来の生き方であり、夫に忠実に生きる時、
約束して下さった通り、恵み、祝福で報いて下さるのです。
人間の考えから編み出した実在しない神々、神話の神々は、
空想の神々であり、それら人間の空想が宗教の神々、思想に
なり、人が人間が編み出した空想を信奉しているのです。
それらを、悪霊が利用しているのです。
だから、神の教えではない、人間が編み出した思想や、宗教
混ぜものの教え、実践、その他を信奉することは、偶像礼拝
と同じなのです。
そして、偶像の神々に、懇願、お願い、執拗に祈り、巡礼して
アピールし、必要なもの、自分の願いを手に入れるという、
この思考回路、行動が、偶像礼拝、偶像の神々に関わる関わり方だと書いてあるのです。
そのように、神の言われた事を一瞬でも捨てる、忘れる、
いや、一瞬どころか、人が勝手に神の言葉を捨てて、別物に
作り替えた宗教を通して、神と関われない事が、聖書にはずっと
書かれているのです。
それは、黙示録の最後に至る迄、神の教え、警告は全く変わらず同じです。なぜなら、黙示録はトラー、預言書にある教え、警告を、暗号、シンボルで話しているからです。
マタイ以降、使徒たちは、預言書が記した、トラー、預言書、
諸書に書かれた内容、事実だけを、解説していることを、はっきり知らないと、事実は見えません。
マタイ以降には、聞いたことのない新しい教え、又は、トラーを
否定する別の教えなど書いて無い!これが、理解出来ない場合には聖書を正しく読んでいないのです。違う空想ストーリー、
神の言葉が変化したという思想を通して、神の言葉を歪めて読んでいるのです。
黙示録を読んで、黙示録の最大の目的、テーマが、神の契約に
戻れ!契約に根付いた生き方、神の言葉を生きることに戻れ!
偽物の教えに交わるな!という事が、最大の警告のテーマであることが見えないまま、この世の終わりの大惨事が書かれているという読み方を教えられてしまうのです。
しかも、神の言葉は神が十字架で処分されたという作り話の
シナリオを、イエシュアを信じた最初から教えられてしまっているのですから、それでは、聖書に書かれている神の言葉、考え、意図は見えないまま、ある部分は見えても、ぼやけたまま、
深い事が見えないままになってしまうのです。
神の言葉、考えを知る事は、神の言われた通りの実態、性質を
生きることを習得する、それが成長なのです。
神の教えは、分からない場合には、奇妙に聞こえる教えがたくさんあると感じます。
クリスチャンには、全く馴染みがない、聞いたこともないことだと思いますが、仮庵の祭りの時に、仮庵でルラヴを毎日振ることを神が教えています。大体、神が創造された記念日、祭り、呼び出し日を全く知らないのが、普通なのですが、それは日本人が
「正月って何?」と言う以上に奇妙、不思議な現象なのです。
神の教えを知らない場合、神の教えは意味不明に聞こえるでしょう。一体何?と思う。
神の教えは、人には意味不明に聞こえても、先ず、分からない
ままでも、神が言われるからやるという意思、行動に徹することをしないとならないのです。
神の伝える意図が分かると、神の伝える意味、神の教えが、
全部1つに繋がり続けて行く事が見えて来るものなのです。
人間の罪、ズレ、ミス、間違いは、常に同じ原因です。
神がこの世界を創造された事を、忘れる。
それを、一瞬でも忘れる、そしてずっと忘れる事をしている。
自分がこの世界の主権者、創造主ではないと言うを自覚が薄れている。
主権者が居る、創造主がこの世界の主であることを、忘れている。口では神が創造主と言うことは出来ますが、行動で神の
言われることを無視していること、それは神を主権者としていない事、無視していることは、人の行動、生き方により、証明されるのです。
それは、神が言われた言葉、教えではない声、蛇、龍の声に
聞き入って、別物を選択して行動、生きているからです。
人は神の言葉により創造され、同じ土=要素から造られました。
一人の人から、出て来た、同じ要素でした。
そして、土から造られたアダムは、神の性質通りに造られたと
有ります。そして、神の息吹を吹き入れられて、生きるものとなったとあります。
動物とは、違う。神の性質そっくりそのまま、神と一体で生きるように造られた人が、出現しました。
エデンの園を歩く時、神が命じたことが、目で見て確認出来ました。リマインダーです。
たった1つだけは駄目!それは、あなたが食するように造られてはいません。この木以外からは、全て食べて良い。
しかし、この知識の木からは食べてはならないと言われました。
それを、日々彼らは、神の言われた言葉を、自分の目で見て確認していたのです。
神はアダムとハヴァに、どういう事を教えていたのでしょう?
誰が、この世界の創造主であるか!誰が主権者、権限を持つ存在なのか?これを、最初から明確に教えているのです。
そして、この園には、創造主が造られ、創造主、主人が存在すること。人間が主人ではない!それはアダムとハヴァ、人間が主ではないという、コンスタントなリマインダーなのです。
自分の思い通りに出来ない。自分の考えを主張することは、
死をもたらすという、絶え間ない神が与えた鎧兜、要塞なのに、
それをハヴァが無視した時、要塞は崩れ去ったのです。
そして、死が肉体に入り込み、神との間に死、隔たり、繋がれない、命が
絶たれ亀裂が入り、同時に、人との間、人で一番親しい間柄の
夫婦の間に、超えられない溝、隔たり、誤解、批判、責任転嫁
という今迄になかった亀裂の要素が入り込んだのです。
今のように、4世紀に人間ローマ帝国が作った西洋宗教は、
最初から平気で神の言葉を捨てる、廃れた、破棄されたという
神の言葉を退けた思想を土台とし、人に神の教えを否定することを、堂々と教え続けてきました。
キリストが来られて、新しい教え、神の厳しい掟から解放されたと、神が人から罪の定義、聖別の定義、恵みの定義が
消えたら、イエシュアの贖い、救いが不必要になるという、
聖書から逸脱した意味不明な教えを施し、それが正義、恵みだ!
と教えています。
聖書ではない偽情報を信じて居る人達により、オリンピアローマが作った宗教の思想を教えられ、刷り込まれて、異口同音に、
神の教えが廃れた、自由の時代、聖霊時代、恵みの時代と、何を言っているのか理解しないまま、主張している。
そして、ローマ帝国が作った宗教の教えとその実践、記念日を
継承してやっているのです。宗教文化の伝統です。
律法時代は去ったのだ!と人は主張しますが、その行為は、
「誰が創造主、主権者」であるのか?ということを忘れる、
意識を反らせる思想を刷り込まれてしまっているのです。
エデンの園と同じ事を、繰り返しているのです。
だから、人間が主体なのです。人の考えで、神の言葉を捨て、
仕分け、選り分け、つまみ食い、自由自在。
神が呼び出している日を、人が変え、今はいつでも記念日!と
主張している、それらの行動は、全て、神が創造主であること、
神に聞いて生きるという、基本をズラされた思考回路、生き方をして、人間が神になり変わる事をしていることに、気がついて
いないのです。
主を愛する人は、神の言葉、仰せを捨てて、破棄し、無視して
人間の教えを生きると、聖書のどこに書いてあるのでしょうか。
地を這うものに囁かれた時、何が起きましたか?
神が創造主、主権者、権威者、人にどう生きるのか?と教える事の出来る唯一のお方であることから、意識をそらされたのです。
それを、ずっとやっているのです。
神の言葉を捨てる、廃れたという思想は、エデンの園の地を這う
動物と同じことをしているのです。
神の言われた事から、意識を反らせ、別の教え、生き方、ズレ
罪に誘う事をしているのです。
そして、本来の性質通りの生き方、自分が誰か、神が何を言われているのか、神との関係に、亀裂、隔たりを作り続ける
それが神の言葉を捨てる行為の代償なのです。
神の言うことを、忘れる、いや意図的に捨てると言う行為は、
神の存在、権威を忘れる事なのです。
神がしてはならないという事を、境界線を乗り越えして、
神がしなさいという事を、捨てて、人間の考え、宗教の教えを
優先し、それを選択する。全て、神を無視する行為そのもので
あり、尊重、尊敬、敬意、愛などではないのに、それをしながら
神を愛していると思い込むのです。
神を愛する人は、神の仰せ、トラーを生きる!と神が言われて
いるその言葉は、聞こえない。なぜ?神の教えは、古くて悪くて
人を縛る律法だから廃れたのだ!という嘘、偽情報、龍の声を
聞いているから、神の声が聞こえないのです。
そして、宝を奪われていることにも、気が付けないのです。
罪が出てくる源は、神の言葉を捨てる事から来るのです。
その実が、どこから来たのか?忘れているのです。
命と死。あなたは命を選びなさいとは、神が言われる通りを
生きなさいという意味なのです。神の教え、言葉を捨てて、
人間の作った教え=人間の作った宗教を生きなさいと神は人に
教えていません!
命の源である神を忘れている。だから、神が創造された人は、
神の口から出る1つ1つの言葉により生きると書いてあるのに聖書を読んでも
その意味を、正しく把握せず、1つ1つの言葉ではなく、
人間が考えるあれ、これ、それを自由に選んで生きる!という
人間の作った宗教の教えの世界を生きて、神の声、言われる事、考え、教えを聞いていないのです。
もちろん聖書に書いてある、ある事柄は、生きます。
それは、何も神を知らない人でも、人の内側に搭載された性質
トラーが刻まれていますから、世の中には、本当に神に沿った
生き方をする人もいます。
しかし、それらの人も神が伝える聖別された人、イエシュアの
性質通りを生きること、自分が誰かを知らないままなのです。
仮庵の祭りで、ルラブを振りますが、その植物にも意味があるのです。
1つの果実と、3つの植物、1)やしの葉、2)やなぎ 3)
ミルトス。
果実はエトログという実ですが、見かけはレモンに似ています。
これは、本当に長くもつ果実です。
友人が、2年前のエトログが今も健在である写真を送ってくれました。
エトログの実を手に取る時、葉、枝、その源である水を思い出す事をさせているのです。
果実を単独ではなく、それに繋がる源にずっと辿り繋げるのです。実、葉、枝、水。
詰まり、実は、葉、枝、そしてその大元の源、水、神が源、
そこに戻る事を教えているのです。
主の仰せは、神が創造されたモアデイムの時に、神の前で喜び
楽しみ、それにより神がどんなに良いお方であるか知るようにと
書いてあります。
詰まり、命の源、神であり、神=言葉により人は生きる。
それに戻る時、本当の修復があるからです。
神の言葉を人間が変え、捨て、破棄し、別物の教えに変える。
それは、自然、オーガニック、本物ではない、偽物、添加物を
食べていることと、同じなのです。
神に創造された人は、神だけが人に何を生きるように造られ、
何をするようには造られていないから、しないと教える事が
出来る唯一の存在なのです。
宗教は、そこに、人間が神になり変わり、入り込み、神の座に
座り、神の教えが2000年前に廃れた!と主張しているのです。
新しいという言葉を、中身が新しく別物の教え、契約だと考えるのは、言語原典、聖書、神の言葉の意味を知らない人の主張なのです。
神は、神が結んだ契約を永遠に破棄し、破り、終了しません!
受け取る代表者、イスラエルという家族の長男も変えません。
永遠に変わらないという言葉が、聖霊が内側に住む人にも通じないのは、聖霊が記された神の言葉を、正しく理解しないから、
神の言葉を人の思想で歪めて読んでいても、それに気がつけないのです。
神が言われることを拒絶、無視、横に追いやる行為は、エデンの
園、神のリマインダー、神の言われた事を、知識の木の実を
目で見て、分かるように置いたのです。
この木からだけは、食べてはだめ!今や、好き放題に神の言葉を捨て、変え、識別力無く、無差別に何でも取り入れている。
その代わりに人間の教えを代替えとし、人の考える事を
生きて、神が禁じたことを、今は関係ないとやっている、
やりたい放題の世界になっているのです。
神が創造された世界に、造られたという事実を忘れ、人間が神に成り代わり、主張し続け、神が伝える生き方に違反している。
それらが、罪と言うのです。神の教えを破る行為、それは一点
一画でも、罪です。
食べてはならない!簡単でしょう。神の教えは、そんなに難しいですか?厳しい?人が食べたら死ぬものを、親が食べよという
それは、愚かな知恵のない親です。
神が言われた事は、真実だから尊重して、それをガードして
あなたは命を選びなさいと言われたのに、神の言葉、言われたことを捨てるとは、神を忘れる行為なのです。
そこからの修復を教えている。それは、神が伝える神の永遠普遍の言葉に戻り生きる。それが神が創造された神の性質通りの
人の生き方だからです。
それが嫌な場合は、蚊帳の外。神との関係が遠く遠く遠く離れた親しい関係ではない場所で生きることを選択しているのです。
天国地獄という異教徒の概念で考えているから分からないのです。
人との関係でも同じでしょう。相手の言うことを聞かず、尊重せず、相手の言う事、特に夫の言うことを無視して勝手にやり続ける妻とは、親しい信頼関係など築けません。
