主の創造された、聖別された、神が人と特別な会見をする
アポイントメントの日=モアデイムは、イエシュアを教える、
神に創造された人が生きる生き方が全て網羅して繋がっています。神が創造されたアポイントメントの日の暦は、レビ記23章に記されています。
これは、永遠に祝われる「わたしの記念日」と主が言われた通り
暦は変わりません!オリンピアローマ、第四の獣が変えても、
神は今日も、今もこの仮庵の祭りに特別な出会いを人としているのです。
神がいつ、神の子ら全員を呼び出しているのか知らないのは、
聖書を正しく教えられていないからです。
神が神の子ら全員を呼び出している日は、人が考えついて作った日とは異なる、神ご自身だけが、指定出来る日なのです。
人間は、神のアポイントメントの日を創作し、それを聖別など
出来ません。
オリンピアローマ、人間が作り変えた記念日に、神は人を呼び
出していません。
それは、人が無から有を生み出す、時を生み出せるのだと主張するのと同じことであり、真実にはなりません。
いつ何の目的で集まろうと、自由であり、飲み会でも楽しい宴会はあるでしょう。楽しい時間を過ごせます。
しかし、神が創造されたモアデイムには、神が意図する特別な
出会いが設けられているのです。
モエッドとは、神が定められた特別な日のことです。
それらを通して、実際に全人類の生き方、人生の旅路に関わる
そして、神がされた壮大な修復のプランを表しているものでも
あるのです。
イスラエルが通った歴史の事実を通して、全世界の民族へ
同じ事を教えるためです。
秋の祭りは、未来、王の王が地上で神の国を実現する新しい時代
新世界秩序が到来することを表す預言的祭りです。
悩める、苦悩を受けた子羊イエシュアではなく、王の王、獅子であるイエシュアが到来するのが、再臨の出来事なのです。
ヨムテルアは、角笛を吹く日でしたが、王の到来を告げる神の声なのです。
春の祭りは、永遠の中に完了している子羊の血の贖いにより、
初穂=イエシュアに連なり、新しい命が成長して行く過程。
そして、新しくされた人は、神の花嫁、イスラエルの神の大家族の一員となったので、神の家の家訓、法的効力のある文字で記された永遠に効力のある、証明される婚姻契約を与えられたのです。
イスラエルという世界の中で神が選びだした民族が正式に誕生したのがシャヴオートの出来事です。
ペンテコステという祭りをクリスチャンは、話題にし、聖霊降臨祭と言う別の名を付けて居ますが、その日は、聖霊が始めて人の内側に住まう事が始まった日ではありません!!!
聖霊は、エデンの園の最初から、神の前に、神の目から見る通り罪を認識し、告白し、神に許された人は義とされ、義の衣
イエシュア、聖霊を内側に与えられて来たのです。
時系列上に、神の業が時空に制限されない!という事実を
聖書に記された事実から、読み取らないとなりません。
なぜなら、子羊は、永遠の中、この世の礎が物理的に創造される
以前に既に屠られ、そして、人もこの世の礎が造られる前に
神の中に既に選び取られ、聖別されていた!という摩訶不思議、
理解不能なことが、聖書には書いてあるからです。
時系列上に考えて、2000年前にイエシュアが来られるまで
贖い、救い、許し、助け、聖霊は内側に住まわないなどと
考えているのは、神が伝える事実に目が開かれて居ない状態
だからです。
聖書を記した人、聖書に書かれている名もない人々、異邦人も
同じように神に許され、神のものとされ、神と対話し、祈り
この世の旅路をあるいた事が書いてあるのです。
預言者も使徒も、その他の人も、もし聖霊が内側に与えられていないなら、イスラエルの神を神とも分からないのです。
イエシュアは、最初から教えられていたのです。
それを、理解する人、していない人が、過去も、現在もいるだけであり、神がされた業は永遠の中に完了しているのです。
個人個人が、神と繋がる、神が伝える事実を理解して、神の言われたことを生きるのか、生きないのか、その違いだけ、
問題、課題は人の側にあるのです。
神の家に住まう、神の中に住まう、神も人の中に住まう、
そのような人達は、神が創造された通りの性質を生きる。
詰まり、人となって来られた生けるトラーであるイエシュアの
性質通りを生きると教えているのです。
それは、モーセの五書に記された、神の性質通りの人が生きる
生き方が書かれている事、それが神の家の家訓です。
それは、血筋に関係なく、神の家に娶られた人、詰まり
神が提供した贖いの代価により、神の者とされた人、もれなく
全て、神が教える通りの生き方、ふるまい、記念日を神の家族と
生きると教えているのです。
そんなに複雑なことなど、何もないのですが、神の教えは
古くて悪い律法だ!という龍の声が、神の言葉の性質を完全に
偽証し続けているのです。
神の者とされた人、それは血筋、人種に関わらず、子羊の血の
贖いの代価を通して、父の元に戻った人全ては、神に「娶られた」という言葉で表現されています。
出エジプトした異邦人は、240万の中、子供、女性、異邦人が
240万もいたのです。60万人が、成人のユダヤ人の数です。
クリスチャンが聖書は神からのラブレターというのは、法的効力がある神が与えた契約書は、婚姻契約書だからです。
神に娶られた人、花嫁、世界の中でダントツに貴重、大事、
最も高価な宝で、王の胸の中、肌身離さずに持ち運ぶ宝であり
戸棚に飾る宝とは違うのです。
戦利品の中で、一番価値ある宝、セグラと書いてあるのです。
神が創造された「時」と「場所」があるのです。
シャバットは、神の花嫁とされた人、イスラエルとそして異邦人両方に与えられた「婚姻指輪」印であると神が伝えました。
エジプトから脱出したのは、ユダヤ人、ヤコブの子孫、12人の
息子の末裔だけではありません。
その中にエジプトに住んでいた異邦人も、イスラエルの神の声に
応答し、子羊の血の代価で死を免れる事を、神が伝える事実を
ユダヤ人と同じように信じて、エジプトを出たのです。
イスラエル、ユダヤ人、ユダ族イエシュアが筆頭の大家族。
長男が、イスラエルで、異邦人は、同じイスラエルの神の家族に
正式に加えられているのです。
荒野の40年、12部族の中に、異邦人は数えられていたのです。
デイスペンセーション神学、人間の肉の目から見る思想を通して
聖書を読んでいると、神が伝える事実が見えないままになり、
偽情報を頭脳にインプットし続けて行きます。
嘘、偽の教えは、永遠にどこまで行っても、神が伝える永遠普遍の事実を人に知らせない妨害、つまづきの岩、神の教えから
人の意識を遠ざける以外にの、なにものでもない、邪魔な物なのです。
エデンを出て、さまよう事になり、そして、その家族は、
約束の地から、エジプトへ下り、そして約束の地へ戻るという
人生の旅路を歩みました。
イサクだけは、ずっと約束の地に留まりました。
イエシュアも生まれてすぐ、エジプトへ下り、そして約束の地
ご自分の国へ戻ったのです。
エデンから出た。神の中から外に飛び出したのは、人類もれなく
全員です。
これらを、古代のあの「エジプト」という国で表しているのです。
人は、もれなく「エジプト」で表される偽の王、偽の主人、偽の神々、偽の自己像、偽の人生目標を、神ではない、人間に教えられて刷り込まれてしまいました。
全部が全部ではないのですが、神の繋がらない人、神の教え
言葉を理解して生きない、神の元に戻らない人には、本当の人
神に創造された自分は誰か?とは、知り得ないのです。
奴隷だった、エジプトに閉じ込められていた。
神の中から飛び出して、神に繋がれない、神に仕えられない
場所に居た。
そこから、引き出されて、荒野に連れて行かれたのです。
それが、仮庵で表されているのです。
本当の家は、神の家です。パレス、宮殿です。
しかし、仮庵に住んだのです。
そして、未来は、天の国が地に到来する。
イエシュアが再臨され、エルサレムの神の家から、全世界を
神の義=トラーで統治される時代、新世界秩序が訪れるのです。
これは、黙示録の中にある、偽の王、当時のローマ皇帝と
ローマ帝国、その偽物、人間が統治する帝国と、神の国
王の王が統治する未来が来るという2つを対比させて、
書かれているのです。
詰まり、偽の王、皇帝に仕えてはならない。
異教の神々、女神の要素が交じる祭り、偶像崇拝、焼香、
儀式、不品行、異教の神々の祭壇に捧げられる神が食することを
禁じている動物、豚やイノシシ、その他を、異教徒と共に食して、聖別を汚す行為をしてはならない。
ローマ皇帝が神と主張し、皇帝が救い主と皇帝は、自分の宮殿
異教の神々、女神の神殿で宣言していたからです。
偽物です。しかも、コンスタンチヌスが、ローマ教を作り、
キリストを神と信じる、それは他の神々にもう1つ付け足されただけのものです。
なぜなら、まぜもの、偶像を思う存分取り込み続け、神の教えではない思想を編み出し続け、神のトラー、神の家の家訓を否定した思想を土台とした宗教を作ったからです。
自分の像をバシリカに設置し、異教の神々のシンボルが含まれる偶像をふんだんに、飾ったのです。
出エジプトし、奴隷から脱出し、神の最高の宝とされた人の
条件は、神が提示した婚姻契約に忠実に生きる事です。
これが、偶像礼拝、偽の神々に仕える事とは、全く違う生き方
なのです。
イスラエルが辿った歴史を見ると、神が伝える福音、教えが
その通りに見えて来ます。
人の辿る人生の旅路は、それぞれ違っても、皆奴隷、神の内側から外側に飛び出し、本当の神を知らない、繋がれないまま
生きている。
本当の自分を知らない。本当の相手の姿を見れない、理解出来ない盲目状態になっている。
そして、憶測、思い込み、相手はこう考えているだろうと
勝手に決めつけ、亀裂が入り込み、関係が壊れる、歪んでしまう。又は、完全断絶する。これが人の中に巣食っているのです。
そして、荒野の40年の旅路は、神と共に歩む、神から教えられる、神の口から出る1つ1つの言葉、命のパンにより生きると
教えられています。
神の教えを律法と読んでいるのは、完全に間違った思想です。
神の教え、神の家の家訓、人の生き方は、神の言葉全体で
完全であり、人が分解できる性質ではないという理解が、抜けているからです。
クリスチャンが読んでいる新約聖書、マタイ以降には、モーセの五書の抜粋しか書かれていません。
神の言葉の完全版はそこに書かれていないからです。
詰まり、数学の達人の教科書に、足し算、九九表など、全部書かないのと同じです。
神の教え、トラー、モーセの五書に記された教えを知っている
ユダヤ人を相手に前提に書かれているからです。
出エジプト、荒野の40年、仮庵、そして、未来、イエシュアが到来すること。
これらが、全て神が創造されたモアデイムで教えられ、実際に
生きて、リハーサルし続け、サリンを待つように教えられているのです。
油を捨てるとは、神の言葉を捨てて生きて居ることです。
光=イエシュアを信じた後、神の教えを捨てて生きない。
いや、神の教えは、昇天以降、異邦人には、無関係と教えられてしまっているからです。
これは、完全に異端思想であり、イエシュアが教えられた教え
父の教えとは何も関係のない、西洋人の思想、西洋人が作った
宗教の教えです。
異端思想とは、神の教え、言葉、聖書に書かれている事実とは
逸脱した思想、全てです。
神の教えが、途中で変わる、廃れた、破棄された、異邦人には
関係ない、今は無効になった教えだ!これら、全て聖書から
完全に逸脱したオリンピアローマが作り出した宗教の思想、
人間が編み出した置換神学や、デイスペンセーション神学思想であり、聖書、神の教え、言葉ではないという事実に、聖書の記述から発見しない場合には、偽情報に目、頭脳、耳が覆われて
何が聖書に書いてあるのか、読んでいても、区別もつけられない
状態から脱出できなくなります。