聖書ではどの様な人のことを、預言者とは言っているのでしょうか?
「預言の賜物」とパウロが言う言葉を、完全に誤解しています。
預言と聞くと、未来預言、霊媒師、占い師、口寄せと同じように、未来に、いつ、なになにが、どこで起きるという啓示を
神からもらい、人に伝える人を預言者だと考えていませんか?
それらは、全く違います。
聖書に登場した、聖書を記した預言者は、神の言葉、教え、
トラーに戻ることを促した人、その役割を与えられました。
神の教えに反して生き続けるなら、刈り取るべき結末が
待っていると言われたのです。
モーセは、神の言葉、教えの完全版を書いた預言者です。
その他の聖書記者は、モーセの書いたトラーを解説、
神の教え、トラー、契約から外れた生き方をした人達へ、
神から遣わされ、神の契約書に記された生き方に戻るよう
警告、促した人達が預言書を記した預言者です。
そして、神から直接語られた神の考え、言葉を記したのが預言書
諸書です。
それら聖書、モーセの五書、預言書、諸書は既に閉じられていて
後から別の教え、啓示は新しく付け足されないのです。
未来に、いついつ、なになにが起きるという詳しい詳細を、
神は人に教えていません。その時になれば、分かる。
そして、詳細が全て分かれば、神を信頼して生きることをしなくなるから細かい事まで伝えません。
自分の人生、生まれた時から、この世での息が取られる時のことまで、神は教えないでしょう。それと、同じです。
しかも、歴史では、同じ事が、繰り返し起きているのです。
トラー、神の言葉の完全版に、付け足し、差し引き、変更
するような教えは、偽教師、偽の教え、偽預言者がすることで
あると、神は大警告されています。
神の言葉は、PDFであり、変更無し、永遠に変わりません。
又は、人間の考えで、仕分け、分別、処分出来る性質のものではない。人間にそのような許可も、権限も与えてもいません。
神の教えと、神のシャバットやモアデイムを人間が変えて良いと
ローマ14やコロサイを勘違いしている時点で、創造主である
お方を完全に誤解していることに、気がついて下さい。
神は、人ではないからです。
神が自分に伝えた、神から人に伝えるように言われたと
軽々しく発言をする人達がいますが、それらは責任が伴う事で
あることを、知らないとならないのです。
神の名を使い、他者に神から言われたなどと伝える人、
それが神が伝える事ではないことを言うならば、それは、
死に匹敵する重い罪であることを、知らないのだと思います。
しかも、神は人に、神の教えを捨てよとか、破棄された、
異邦人、ある人には今の時代はもう既に関係のない教えなどと
言いません。
それらは、黙示録でも警告されているように、神の名を使い
見かけは子羊でも、語る内容が別物、「龍の物言い」とヨハナンが暗号で言っている意味を正しく読み取らないとならないのです。
預言者は、100%モーセの五書を土台として話しています。
神の言葉、教えの完全版は、モーセの五書以外にないのです。
神の教え、トラー、契約から外れて生きている人達への警告。
預言者はイスラエルの国の政治家ではありませんが、世の中で
起きている事、政治を司る王、リーダー、イスラエルの国会議員それらは、トラー学者なのですが、神の教え=トラーに反した
事を考え、やっているのか?
トラーから、神が見る通り神のトラー、言葉に立って、正しく
見極める事が出来る人、正せる人、それが預言者なのです。
国全体だけではなく、小さい群れ、信じる群れの中、
コミュニテイの中で、神の教えに反した生き方をしているのか、それとも、神の教え、言葉にぴったり沿った生き方なのか神の
言葉、聖書から正しく理解し、判定出来る人が、預言者なのです。
もし、預言者や、教師が、神の教えを捨てよ!と言うならば、
聖書では、それらは偽預言者、偽教師と定義されているのです。
イスラエルが、神の契約=はじめの愛=モーセの五書に記された生き方に反した生き方をしたから、イスラエルに預言者が
遣わされ、彼らに「神の教えにもどれ!」と警告、促した事が
記されているのです。
異邦人の世界のニネベに遣わされたヨナも同じです。
パウロが語った「預言の賜物」とは、未来を預言する、霊媒師や
口寄せのような能力、霊と交信出来る賜物だなどと、そんなことではありません。
神の言葉自体が、聖霊=イエシュア=神の考えを人に伝えている実態なのです。
神の教え、言葉、トラーを正しく理解している、学んでいる
成人であり、それらの人が、神の目から見る通りを理解し、
神の教え通りを生きて、人に教えるコミュニテイを、神の教えに基づき正しく導き、諭し、間違った事を正すことが出来る事、
それが預言の賜物なのです。
偽預言者、偽教師とは、神の教えではないことを、あたかも
神が伝えているが如くに伝え、教える人達のことです。
「羊の服をまとうおおかみ」とは、どんな意味なのでしょうか?
預言者は、人々の中に、神の教えとは違う教えを伝えて、
神の教えではないことをやらされているのか、識別出来る人の
ことです。
コミュニテイの中にいるのは、おおかみか、羊なのか?
羊の群れの中に、羊を食う狼が多数混じっているのです。
同じ畑に植えられた、麦と毒麦のたとえばなしと同じです。
その数が多いから、それで良いというものではないのです。
詰まり、その数が多ければ多いほど、皆が神の言葉、教えでは
ないことに聞き入っている危ない状態に対する警戒、軌道修正をしなくてはならないと、気が付かないとならないのです。
大勢が信じるから、19世紀近く、大衆が信じる教え、実践
記念日だから、それらがイコール聖書の真実と考えているなら、
それは人の考え、人の判断が、真理を識別する基準になれる
とでも言うのでしょうか?
神の言葉、教えに反する事を主張し、神の言葉を人間が捨てて、
人間が編み出した教えを生きること、それは神が警告している
偽物の教えそのものです。
神はイスラエルに対しても、偽物の教え、異教の神々、女神の
教え、儀式、祭りに交わり、高き所で彼らの慣わしを習い
それらを通して、イスラエルの神を礼拝していたことを、
1000年近くも忍耐してきました。
裁きとは、神が下す天罰ではありません。
間違った生き方をしている人達へ、元の姿、生き方に戻る事への、神の人への介入そのものです。
裁きは、正義と、解放をもたらします。
正しい元の姿に戻ることを神がしてくださいます。
今の世の中見ても、不正だらけで、権力を握る一部の人が
やりたい放題、搾取、人に圧力をかけています。
悪者が、のうのうとはびこることが出来る世界。
犯罪をしても、捕まらない。罪のない人を不正勾留する。
司法は、悪者の為にあるようにしか、見えない歪んだ社会。
力のない弱い者がいくら怒っても、どうにもらならない不正が
はびこっています。これは、人類の歴史の最初から同じです。
そして、神の創造を歪める生き方。
神は忍耐される神です。怒りとは鼻が赤くなる、鼻から
熱くなる、それは、怒ると顔の表情は、鼻先を見ると分かる
からです。忍耐とは、「長い鼻」というヘブライ語です。
怒りが鼻先に達する迄、時間があるからそういうのです。
神が何も裁きをしない、この長い2000年の間、人が神の言葉を潰し、塗り替え、挿げ替え、別物に変身させた宗教をやっても、それは神が認めているからではないのです。
待っている。忍耐の神は、人が嘘に気がついて、神の教える通りの生き方に気がつくのを待っている、その忍耐に甘んじていてはならないのです。
偽物の教えを生きることは、人を破壊するものです。
シャバットを無視することは、夫婦、家族、コミュニテイの関係を回復することを、捨てるものです。
日曜日?人と交わる、集まる事は大事ですが、なぜ、神が言われた時、言われた通りをしないという意識、態度、思考回路、行動で良いのだと考えているのでしょうか?
なぜ、自分の考えが第一で、神が言われる事が、人の考えの
次になるのかと考えないとならないのです。
ヨムテルアやヨムキプールでも、イスラエルは休日、シャバットで止まるのと同じ止まり方を、国全体でします。
その他の国は、神の教えなど意識も向けませんから、知らない、止まりません。
しかし、異国の地に生活していても、その中で出来ることをするのです。
イスラエルに行くと、シャバットやヨムキプールなど、環境全体で体験、体感します。国全体が神のシャバット、モアデイム、
祭りで止まるのは、イスラエル以外にありません。
なぜなら、神が選び出した唯一の国、天の現実を地上で反映する
場所、人を選びだしたからです。
日本は今大型連休だそうですね。
丁度、秋の祭りにピッタリ。ヨムキプールも日本は、休日でした。
しかし、どれ程のクリスチャンが、この日がどんなに特別な日で
あるのか、再臨を準備する一連のアポイントメントの日であると
理解しているのでしょうか?
イエシュアも祝われ、未来も再臨された後、この祭りを祝い、
そして、自分自身も、神から直接呼び出されている日だと、
知らない人の方が大多数なのです。
それ程、聖書から遠く遠くかけ離れた、人間の作った宗教の
教えが浸透してしまったのです。
イエシュアが教えられた父の教え通りではない教え。
偽物の教え、人間が編み出した宗教の教え、混ぜものの教えを
聞き続けているとは、イコール、本物の羊飼いの声が分からなくなることなのです。
しかも、4世紀に人間、ローマ帝国、預言された通りに、神の
言葉と、神のモアデイムを変えて作った宗教であるということを
クリスチャンは認識さえしていない状態です。
慣れ親しんだ西洋宗教の教えと、その実践、記念日、それが
本物!聖書、神の教え、仰せだと思いこんでいる。
いやプロテスタントは、カトリックと違う!と考えているで
しょう。
宗教改革後は、本当の本物の神の教えだけに戻ったのだ!と
考えて居ると思いますが、聖書には、ローマカトリックやプロテスタントの教えは書かれていないのです。人間が作った宗教の教えと、純粋な神の言葉、教え、生き方とは違うものだからです。
宗教改革後も、イエシュアが教えられた父の教え、本物の大元に
迄は、戻らないまま、中途半端な軌道修正しかなされていないのです。
神の言葉が変化し、神の性質が変身するという作り話は聖書で
はなく、人が編み出し続けた思想なのです。
光は持っていても、油を持たない5人の乙女、神の教え、
トラー=神の教え=油を捨てた生き方をした人への警告を、
イエシュアの口から直接語っているのです。
再臨を待つ、花婿が迎えに来るのを待つ乙女が、花婿が言われた
通りを生きないで、違うこと=人の教え、宗教に熱心になりながら生きている。
その最初、偽の教え、偽教師とパウロが警告した通り、
西洋教父達は、使徒たちが地上から消えた後、堂々と偽の教え
自分達、ギリシャ思想、哲学を土台に、神の言葉の方を曲げる
勝手な思想と、神のシャバット、祭りを塗り替える別物の作り出したのです。それらは、神が禁じている行為なのです。
4世紀、人間が編み出した宗教の教えは、神に反逆、敵対する
思想を堂々と最初から土台にし、人の頭脳に刷り込み続けています!
偽物の教えは、人の中に巣食う寄生虫、又は人を破壊する
だめにする、神から遠ざけることを教える、させるものです。
イエシュアが戻れた時、顔と顔を合わせて直接相まみえる時
このように言うのでしょうか?
「古い悪いあなたの律法、人を2000年前迄縛リ続けた厳しい律法を、十字架で処分して下さり、自由に生きるように解放して下さり、ありがとうございます。
あなたの教えではなく、あなたが創造されたアポイントメントの日、全部捨てて、4世紀に人間ローマ帝国が新しく知恵を振り
絞って作ってくれた宗教の教えに邁進してまいりました!」
これと同じ事になります。
「わたしはダビデの家とエルサレムの住民に、恵みと祈りの霊を注ぐ。彼らは、自分たちが突き刺した者であるわたしを仰ぎ見、独り子を失ったように彼のために嘆き悲しみ、初子を失って激しく泣くように、彼のために激しく泣く。」ゼカリヤ12:10
「しかし、一人の兵士が槍でイエスの脇腹を突き刺した。すると、すぐ血と水とが出てきた。……また、聖書の別の場所には、『彼らは、自分たちが突き刺した者を見る』とも書かれている。」ヨハネ19:34−37
「見よ、彼が雲に乗って来られる。すべての人の目が彼を仰ぎ見る。彼を突き刺した者たちも仰ぎ見る。地上の諸族はみな、
彼のために嘆き悲しむ。然り、アメン。」ヨハネ1:7
神=聖霊=イエシュア=トラーなのです。ヨハネの冒頭にも
その事実が書いてあるのです。
神を愛する人が、神の教えを古い廃れた律法と呼び、イエシュアが教えられた父の教えを捨て去り、神の言葉を捨てるよう人にも教える?
変だと気が付かないのは、聖書を正しく学ぶ、何が書いてあるのか教えられて来なかった大きな代償、損失、誤りなのです。