イスラエルの神の唯一の家族は同じ神の教えを生きて同じ記念日を祝う人たち | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

創造主は、イスラエルの神お一人であり、神の大家族も1つしかありません。

異邦人は、全民族の父アブラハムを筆頭にするその大家族、

1つしかないイスラエルの神の家族に、加えられただけです。

 

昇天以降、異邦人が、契約を受け取る代表にはなりませんし、

なってもいません。

イスラエルが神から退けられて、神から見限られ、異邦人が

イスラエルの座にすげ替えられ、神から契約を受け取る大家族の代表となると、置換神学が主張するようなこともないのです。

 

「霊的イスラエル」という言葉が使われていますが、

異邦人は、神の大家族の代表者、契約を受け取る代表者にはなりません。

 

誰でもイエシュアを通して、父の元に戻った人は、イスラエルの神の大家族に加えられます。

神を信じる者は誰でもイスラエルになるとは、血筋に関係なく、イエシュアを通して、神の家族に加えられるからです。

養子も、同じ苗字、イスラエルという大家族の名字を名乗るのです。大家族の父は、イスラエルの神だからです。

 

オリンピアローマ、第四の獣が作った宗教は、聖書とは違うことを語り続けて来ました。

クリスチャンの間では、神の言葉、教えではなく、人間の編み出した宗教の教えが浸透し、信じた後は、自由に生きる!という

聖書ではないことを教えられています。

 

同じ神の1つの大家族に加えられた人は、同じイスラエルの神が

提示する同じ家訓を生きる!ということが、全く正しく教えられていない、語られてもいないのです。

 

神の大家族は、ユダヤ人と、そして異邦人教会などという

2つ別物の群れにはならないのです。

教会という言葉も、実際には聖書には無い言葉、概念です。

神の大家族は、カハール、ケヒラ、エクレシア、「神に呼び出されて応答した人の群れ」エデンの園から同じ1つの神の大家族に、神を信じた人が全て加えられ続けられるだけです。

同じ1つのイスラエルの神の大家族に加え続けられるだけです。

 

イスラエルは、Aチーム、その他異邦人はBチームに分かれるなど

聖書には書いてもない概念です。

1つ!!!エハッドと書いてあるからです。

イエシュアを信じて神のもの、聖なる民とされた異邦人、

その異邦人も、もし神の仰せを愛し、神のシャバット、

アポイントメントの日を大事にしてガードして生きるなら、

神の家の一番親しい場所に、未来招かれるとあるのです。

 

神の特別な祝宴に招かれて、重荷だ、律法だなどと言っている

人は、神が何を伝えているのかさえ理解していないのです。

王の王宮の宴会に招かれて、面倒くさい縛りの律法だ!

などと反応しますか?特別な宴会に招かれているなら、その日の

ことを常に頭の中で思い巡らし、その日を中心に、日々生活し

準備するのです。

神が創造されたモアでイムは、全てイエシュアの業を網羅する

生きて、実体験する福音の中核を教える預言的祭りなのです。

 

神の契約を生きるという理解、実践が全くされていないのに、

霊的イスラエル?

イスラエルという神の大家族は、神の家の家訓を皆が生きることをする家族なのです。

 

エペソ 2:18 というのは、彼によって、わたしたち両方の者が

一つ御霊の中にあって、父のみもとに近づくことができるから

である。

ユダヤ人と異邦人は、同じ1つの御霊=神=イエシュアにあり

父の元に近づくことが出来るのです。
近づくとは、礼拝とは、神の、どの教えを根拠に考えて
パウロが語っているか分かりますか?
 
神の大家族が住まうことを教える、神の家、神のミシュカン、
祈りの家であり、その家の中で神と人と一番親しく交われるのは、リビングルーム、お茶の間、祭壇、テーブルが置かれて居る場所です。
コルバンは、新しくされた事実、神が永遠の中に既に支払った
代価で、神の目には、完全、シミ、傷、欠陥、欠けがない
完全なあなたになっている、その事実だけを通して、神と対話、関わることを神が教えている、神の家、大家族が住まう場所なのです。
神の大家族には、共に住まう場所、家があるのです。
 
コルバンのバーベキューで、最後は、皆で喜びのうちに、
大祝宴をするからです。
大抵の人はバーベキューをした事があると思います。
皆でワイワイ、ガヤガヤ、炭火で焼ける美味しそうな匂いが、
辺り一面に立ち込めて、皆ワクワク、笑顔で楽しい時を
共有し、そして、美味しごちそうを一緒に食べて、
話に花が咲く。
コルバンは、最後祭司だけが食するものがありますが、
皆で分かち合って食べる宴会をするものがあるのです。
 
ユダヤ人、異邦人、両者、新しくされた人、芳しい香りがする
バーベキューは、新しくされた人、芳しい香りのする煙が天上り
神に完全に受け取られ、喜ばれていることを目で見て、
匂いをかいで、実際に味わって体験する。
しかも、ユダヤ人、異邦人、両者、大家族の兄弟姉妹皆が祝宴をするという親しい関係でこの事実を神の前で喜び、楽しめる!
それをパウロが短く解説しているのです。
 
エペソ 2:19 そこであなたがたは、もはや異国人でも宿り人でもなく、聖徒たちと同じ国籍の者であり、神の家族なのである。

 

ここに神が伝える私達の現実、ユダヤ人異邦人が1つの神の家族である事実が書かれています。

「異国人でも宿り人でもなく、聖徒たちと同じ国籍の者であり、

神の家族」とパウロが説明している根拠は、モーセの五書に

記されている事実を解説しているものです。

そして、ユダヤ人も、異邦人も以前は遠く隔たり、離れていたけれど、イエシュアにより1つの家族にされ、同じ天の共同相続人になったと書いてあるのです。

 

これを読みながら、異邦人とユダヤ人を分裂させる、無理な

解釈を施して、破滅を招いている!とペテロが警告されたことをダービー、その他、神の言葉を正しく解説しない、聖書解説を

する人たちが、やり続けて来たのです。

 

キリストが2000年前に来られたから、今のようなキリスト教

西洋宗教、カトリック、その他、今迄聞かされなかった新しい

教え、新しい契約が、神により教えられ、出現したのでは

ありません。

聖書には、第四の獣が作ると予言されている人間の教えを土台とし、人間の教えが混ざった宗教の教えや実践、記念日など記されてなどいません。

神の教えは、昇天以降変わっていないのに、神の教えが廃れたということにされたのは、西洋教父、ローマ帝国の作った宗教が

主張しているだけであり、神の言葉ではありません。

 

イエシュアが言われました。これを言われたのは、冬のハヌカの

祭りの時、エルサレムで言われた言葉です。

 

ヨハネ 10:14 わたしはよい羊飼であって、わたしの羊を知り、

わたしの羊はまた、わたしを知っている。

 

良いとは、神が創造された通りの人の性質を知っている羊飼いであり、その人たちをどう教え、導いたら良いのか、知っている羊飼いです。

そして、イエシュアに属する人は、イエシュア=羊飼いを知っているのです。それは、どのように知っているかで、中身が違って来ます。

異邦人とユダヤ人を分裂させる思想のデイスペンセーション神学が真実ではないことは、イエシュアの言葉からも証明されます。

同じ羊の囲いに加えられる。野生の木=異邦人も、自然、

オリジナルのオリーブの木=イスラエルに接ぎ木される。

 

 10:16 わたしにはまた、この囲いにいない他の羊がある。

わたしは彼らをも導かねばならない。

彼ら=異邦人も、わたしの声に聞き従うであろう。

そして、ついに一つの群れ、ひとりの羊飼となるであろう。

 
ユダヤ人と、異邦人を2つに分けるのは、人間の思想であり、
人を創造された神が、このように語っているのです。
1つの群れ=カハール=神の1つしかない大家族になる。
その羊飼いは、イエシュアであると言っているのです。
 
10:27 わたしの羊はわたしの声に聞き従う。
わたしは彼らを知っており、彼らはわたしについて来る。
 
声とは、神の言葉です。イエシュアに属する人は、神の言、
教えを正しく理解しているとあります。
イエシュアの声ではなく、第四の獣の声も巷に拡散され続けて
いるのです
人が神の言葉のどの箇所、一点一画でも否定、削除、変えて
神が神の教えは終了、破棄、関係ないと教えてた!!と言うならば、その声の出処こそ、イエシュアではなく、第四の獣、
ローマ帝国、人間が作った宗教=龍の物言いを主張し続けている偽の教えなのです。
 
黙示録13:11 わたしはまた、ほかの獣が地から上って来るのを見た。それには小羊のような角が二つあって、龍のように物を言った。

イエシュアが来られる前と、後とでは、神の性質、贖いの方法、救いの手段は、何も変わっていません。

そして、神の教え=トラーは永遠普遍で変わらないのです。

キリストが来られたので、祭壇の上に生贄捧げて許される事が

終了した!という、このような解説をキリスト教ではしますが、

それは聖書の解説、事実とはズレています。

生贄と訳されるコルバンは、一時的な罪の許しの為に捧げられるものではないからです。

 

動物の血は罪を消さないと、書いてあるとおりだからです。

罪の一時的、仮の許しのため、そのような目的の為に、

神の家の祭壇でコルバンを捧げるよう教えられていたのではありません。

実体験型、神の家で、イエシュアを教えられていたのです!

 

神の家の中で教えられていた事は、イエシュアの業、イエシュアご自身、そして、私達が誰であるかを、様々な儀式、神殿の中に置かれている家具や、置物、その他全てを通して、教えているのです。

どの時代の、どの人種も、どんな人でも、誰一人として、

動物や穀物の捧げものをして罪許された人など一人も居ない!

と神が言っているからです。

そして、イエシュアが昇天された以降も、70年にローマ帝国により神殿が破壊されるまで、神殿が存在していたので、

変わらずにコルバンが捧げられ、神殿を中心に、シャバット、

祭りが行われていたのです。

 

未来、イエシュアが戻られたら、同じく神の家、祈りの家の

祭壇の上でコルバンが捧げられ、それを神が喜んで受け取ると

預言されているのです。

エルサレムの神殿で祭りが行われる。全世界の人々がエルサレムに祭りで来るようになる。

イコール、コルバンが捧げられると言う事なのです。

 

イザヤ 56:6 また主に連なり、主に仕え、主の名を愛し、そのしもべとなり、すべて安息日を守って、これを汚さず、わが契約を堅く守る異邦人は――

 56:7 わたしはこれをわが聖なる山にこさせ、わが祈の家のうちで楽しませる、彼らの燔祭と犠牲とは、わが祭壇の上に受けいれられる。わが家はすべての民の祈の家ととなえられるからである」。

 

エルサレム、聖なる山、モリヤ山、神の家に招かれる。

そして、燔祭と犠牲とは、עֹלָה 立ち上る全焼のコルバン。

王の王に、自分の差し出した大事な貴重な贈り物を受け取られる

という意味を、考えたら見えて来ます。

贈り物を受け取る、喜んで神がその人自身をそのまま、受け取っている行為なのです。

分かりませんか?自分が考えて考えて選んだ贈り物を、大事な

誰かに上げる、それを喜んで受け取られる。

それとも、こんなもん要らない!と拒絶される方が良いですか?

親しい関係の間にある表現、それを贈り物を通して、行動で

示しているのでしょう。

生贄という言葉は、翻訳です。

神の家の祭壇の上に捧げられるものは、コルバンという言葉で

あり、近づく、引き寄せるという意味の言葉なのです。

これは、礼拝の中心です。礼拝という翻訳も不適切です。

 

詰まり、神に近づく、神との関係を育むという実態は、

神の方で一方的に与えた「子羊の代価」による!

そして、神が義とし、新しい人を与えているというその事実を

信仰により受け取る人は、神の前に新しい人の実態を与えられている。

神が一方的になして下さった事実からだけ、神に近づいて、

神と対話して、神の前に自分の中にあるものを、全てさらけ出して話して!ということを教えているのが、祭壇の上のコルバンを通して、神の前に出る近づくという行為なのです。

イエシュアが来られる以前の人は、生贄捧げて、罪許されたなどというものではないのです。

しかも未来、イエシュアが再臨されたら、エルサレムの神の

宮殿=神殿で、再びコルバンが捧げられるのです。

シャバット、新月、祭りが神の宮で行われるようになる!

 

以下も未来預言です。

ゼカリヤ14:16 エルサレムに攻めて来たもろもろの国びとの
残った者は、皆年々上って来て、王なる万軍の主を拝み、
仮庵の祭を守るようになる。

14:20 その日には、馬の鈴の上に「主に聖なる者」と、

しるすのである。

また主の宮のなべは、祭壇の前の鉢のように聖なる物となる。

14:21 エルサレムおよびユダのすべてのなべは、万軍の主に対して聖なる物となり、すべて犠牲をささげる者は来てこれを取り、その中で犠牲の肉を煮ることができる。

その日には、万軍の主の宮に、もはや商人はいない。

 

続く