神が伝えることを聞いていない 人間の意見で様々に判定をつけているだけ | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

一般的に聖書だと信じられている、数々の聖書解説、教理、教え、

実践は、実は聖書ではなく、初代西洋教父達が、神の言葉を勝手に

変えて、別物の教えに作り替えてしまったものなのです。

 

西洋教父、異邦人、グレコローマ哲学思想を学んで、パウロの様に

ヘブライ思索のヘブライ語のトラーを学んだことがない人達が

教師となったのが、異邦人の世界、宗教の世界なのです。

そして、ユダヤ人、イエシュアの様に先祖代々、幼い頃から周りの

皆が契約、トラーに根付いた生き方をして来た、その様な環境で

育っていな人達なのです。

信じた最初から、神の教えを全く知らない。ユダヤ人は、イエシュアをメシアと信じる前から、神の教えを知っている、その違いは

遥かにはるかに大きな差があるのです。

イエシュア=メシアと知った人が、神が言われた教えを深く、広く

実態を持って生きられる、周りにトラーを正しく教えられる。

パウロがその良い例です。弟子達は学者ではありませんでしたが、

ユダヤ人は、皆トラーを知って、生きていた人達なのです。

 

異教の神々、女神崇拝、儀式、記念日、祭り、皇帝崇拝カルト、

ソクラテス 、プラトン 、アリストテレス の様なヘブライとは

異なる異物の西洋哲学思想。

霊は優れている、肉体は汚れて悪いと言う思想は、この様な哲学思想から刷り込まれたものなのです。

神がこの世界を、物理的に造られた事実を、否定する、無視する

そして、霊だけがきよいと言う偏った、歪んだ思想を刷り込まれているのです。

ヨハナンが書いた黙示録の時代、90年代のローマ帝国下と同じ、

ありとあらゆる、文化、思想が混在した混ぜ物思想を生きた教師に

解説された、聖書ではない聖書の教え、解説。

110年、アンテオケのイグナチウスが、異邦人クリスチャン達に

手紙を書き送りました。

この西洋教父は、このように記しました。

 

「今や、クリスチャンは、安息日、シャバット=第七日目ではなく、主の日を守り生きているのです。」と。

この時点で、イグナチウスは、神の権威の座に、神の権威を横取りし、人なのに神の座に座り、神になり変わり口を開いたのです。

神の言葉と神のモエッド、シャバットを、自分の思想で言い換えて

いる事実を、はっきり捉えて下さい。

これをもし、ユダヤ人、それがイエシュア信者だろうが、そうではないユダヤ人だろうが、この西洋教父の宣言を聞いたら、どう考えると思いますか?

これこそが、反キリストの行為、神のトラーと、神のモアデイムを

変える、人間なのに神の如く宣言をし、神の言葉、モエッドを変え、その偽物の教えを教える偽教師と判定されます。

神の言葉を、教えを、記念日を、偽物とすり替える行為!罪です。

もし、ここにパウロが居たら、この様な偽教師を即座に、仲間の

中から、完全追放する様、厳重警告を発したでしょう。

この様な偽教師から離れろ!偽の教えに連なるな!聞くな!去れ!

この様に、使徒達が居なくなった後の時代、異邦人の勝手な振る舞い、

聖書とは異なる偽の教えをふんだんに編み出し、一般人に伝え続けたのです。

主の日?日曜日?そんなこと、聖書のどこにも、1つたりとも書いてありません。それは、この様な西洋教父の戯言だからです。

 

第一に、気が付かなくてはならないことは、創造主である神は、

西洋宗教、異邦人が語る様な神ではありません。

神が、変化する、変身する、性質を変える、購い救いの方法を時代

ごとに変える、又は神の言葉、教えを時代ごとに変える、又は

人間が自由に神の教え、シャバット、祭りを時代ごとに、変えて良いよ!などと言う神ではありません。

この様な思想は、聖書とは100000%逸脱した、この様な西洋

教父達が考えつく思想なのです。

19世紀に、ダービーにより編み出されたデイスペンセーション神学、

多くのクリスチャン、牧師、教師が、この紛い物の神学は偽物!と

今では認定する中、多くの教師、牧師が未だに、この聖書とは逸脱した異端思想に師事、信奉し、囚われているのです

その様に、クリスチャンが教えられているイエシュア像、

イスラエルの神像は聖書に記されたそれではない、人間の手により

歪められ、曲げられ、変えられた神像なのです。

誰かの思想、誰かの受け売り、それを信じている人が、拡散している。

翻訳聖書を読んで、ローマギリシャのジーザス、聖書に書いてない

別の神像を、想像しているのです。変化する神、変化する言葉、

教え。

神は神の言葉を、神のモアデイム、アポイントメントの日を永遠に

変えない。神は、人に時代ごとに神の言葉を解釈し直し、変えて良い

神の創造されたモアデイムを人間が作り替えて良い、その様な許可は

神は人には与えていないという真実、大前提だけから考えない人が、聖書ではない思想、自分教の教えを次から次へ編み出し、その人が

初めて聖書の真実を神から啓示されたのだなどという、自己主張をして、人を偽の教えで、神の言葉から引き離し、敵の片棒を担いでいるのです。

 

主の日、イコール、それはシャバットであり、神が創造されたモアデイムであり、それは神が創造主である世界へ向けての宣言でもあるのです。

そして、神の民に与えられた印、神のもの、神が購い、神がきよめ、聖別し、神の者とされた人へ与えた婚姻指輪なのです。

神と共にその日を生きて、それを世界の中で表す「印」。

 

そして、黙示録にある主の日は同様に、「7」契約の中にいる民の

印の日、そして、神が裁きをされる一定の期間を指して使われている

言葉なのです。

主の日、日曜日と、聖書に根拠がゼロ、人の作り話を元に、勝手に

日曜日が、主の日、聖日と人間が言い換えている冒涜、罪に気が付かないとなりません。

詰まり、このような西洋教父達の、聖書から逸脱した無数の主張は、聖書によれば、神の教えとは違うことを教える偽教師の偽の教えそのものであり、反キリスト=神の教えを別の教えにすり替えることをしている、そのようなことをする偽教師が、既に2世紀にも出ていたのです。神の言葉を塗り替える冒涜行為、違反、敵対する行為、

そんなことばかりを、やり続けたのが、西洋教父なのです。

 

よく考えて、記憶しておいてください。

今世界に浸透して、拡散されている定番の教えや、記念日は聖書ではないものです。

神が創造、発信元ではない。人間由来、人間の作り物です。

そして、神はそれを許可、受け取ってなどいないのです。

人が神の言葉と、神のモアデイム、シャバットや祭りを変えることを、10000%NO  と禁じて警告しています。

黙示録の最後にも、それが書いてあるのです。

なぜなら、ヨハナンは、トラー、預言書に記された警告を、暗号化で記しているからです。

 

ネットには、この様なことを主張する人がいます。

1)365日、どの日も聖日であり、神が造られた日です、

2)今はいつでも安息日、礼拝日ですなどと、語る人がいますが、

聖書と何がずれているか、説明出来ますか?

 

先ず、神の言葉を無視、捨てる人には、神が定義する聖別という

言葉の意味さえ、理解しないまま、聖日、聖別とは、神がきよめた日のことなどと考えるでしょう。

 

聖書に書かれている言葉、意味、当時の人達が聞いていた通りに

教えられていない教育欠如が問題の大元、根元、中心なのです。

 

先ず1)の問題ですが、どの日も聖日だという主張、スローガン

よく聞きますよね。又は、今はいつでも記念日、安息日で良いなどと言う聖書解説、これ間違った聖書解説の代表例です。ローマ14

聖なる、聖別という言葉ですが、きよいという言葉とは、違う言葉

です。

きよい=タホー、きよくない=タメーです。

これは、翻訳では、表せない言葉であり、説明が必要です。

 

先ず、聖なる、神が聖別されたという言葉ですが、ヘブライ語では

どの様な意味で記されているのでしょうか?

 

創世記 2:3 神はその第七日を祝福して、これを聖別された。

神がこの日に、そのすべての創造のわざを終って休まれたからである。

 

一週間、7日で創造された、唯一祝福され、聖別された日は第七日目

だけです。

聖別されたという言葉は、聖別=コデシュと書かれた言葉です。

ここは、ヨム=日、ハシャビィ=第七日目 ヴォヤカデシュ=彼が

聖別された オト=それ という直訳になります。

赤字が、ヴァヤカデシュと言う言葉です。接続詞と一緒になっている言葉であり、神を表す、彼と言うことを表す言葉も凝縮されてるので、発音が変わるのです。

י֣וֹם הַשְּׁבִיעִ֔י וַיְקַדֵּ֖שׁ אֹת֑וֹ

 

ここで、使われている聖別とは、コデシュという言葉です。

その意味は、綺麗とか、汚いとか、その様な意味ではありません。

「その目的通りに分かたれている」という意味です。

レビ記11章にある神に聖別された人は、神が聖別された通り

動物の創造は、その目的に沿って造られていて、人が食する目的の為に聖別された動物だけを食する!と教えているのです。

それが、神が聖であられるから、あなたも聖なるものとなれと

1ペテロがこの箇所を引用しているのですが、この意味は、

新約聖書は、神の言葉だ!と信じるクリスチャンも、丸無視して

捨てて違反している、違う聖書解説を施されている代表例の箇所でもあります。

知らない間に、聖別を汚す生き方を、堂々とすること、これは人間が編み出した間違った聖書解説の産物なのです。

詰まり、偽の教えに導く教師、偽の教えにより、神の教えではなく

罪、違反、聖別を汚す行為が何か、聖書を読んでも分からない。

全て、廃れた教え!と言う大嘘に照らし合わせれば、神の言葉など

煙と同じ、吐息、アヘル、虚しく消え去り、人の思索に浸透しない

まま、代わりに偽物の教えが侵入し、偽物を生きているのです。

神が言われる意味を、正しく理解した人は、神の前に罪を犯し続けたい、神が禁じている生き方を無視して生きたい、聖別を汚し続けて

神に逆らい生きたいなどと、考えることは出来なくなります。

分からないから、知らないままやっているだけなのです。

異邦人は、聖書を、イエシュアが教えた通りに、正しく教えられていないからです。

レビ記 11:44 わたしはあなたがたの神、主であるから、あなたがたはおのれを聖別し、聖なる者とならなければならない。

わたしは聖なる者である。地にはう這うものによって、あなたがたの身を汚してはならない。

 11:45 わたしはあなたがたの神となるため、あなたがたをエジプトの国から導き上った主である。わたしは聖なる者であるから、あなたがたは聖なる者とならなければならない』」。

 

1ペテロ1:15 むしろ、あなたがたを召して下さった聖なるかたにならって、あなたがた自身も、あらゆる行いにおいて聖なる者となりなさい。

ペテロはレビ記に記された聖別された人の生き方、11−27章に

記された人の生き方を解説しているのです。

ペテロが使徒10章で、きよくない動物を神が食せ!食規定が

廃れた!などと、クリスチャンは教えられますが、それこそが

間違った聖書の読み込み、無学、無知、いや西洋教父の教えに染まった頭脳が解説する、聖書を逸脱した聖書仮説。

その様な冒涜、罪を神の前にすることを考える人は、聖書に書いてはない!という理解がない西洋教父達の様な人がする、聖書から逸脱した解説なのです。

ペテロが聖なる人の生き方が書いてある、その冒頭の章が食規定に

関して記されている11章であり、そこに書いてあるのは、

聖別された人は、何を食べて、何を食べてはならないのか、そ

こから、ペテロはレビ記のこの言葉を引用しているのに、同時に

神の言葉をペテロがキャンセルして、聖別された人は、きよくない

動物を食して良いのだ!という意味不明、一貫性がない聖書とは異なる聖書解説が堂々と横行しているのです。

 

聖別とは、「神の目的通りに分かたられている」という意味です。

この言葉は、何もイスラエルにだけ使われた言葉はありません。

古代中近東で使われた言葉です。

異教の神々、女神には、神々の神殿があるのです。

そして、そこには神殿祭司がいるのです。

彼らも、聖別された祭司なのです。

その意味は、イスラエルの神に聖別されているのではなく、

それらの人々は、彼らの異教の神々の神殿に仕える、その目的通りに

分かたれているという意味なのです。

その異教神の神殿祭司達も、聖別されているのです。異教の神々の

目的通りに分かたれて、仕えている人だからです。

 

そうすると、聖書の翻訳用語、漠然と使っている言葉を、聖書に

書いてあるヘブライ語で語る理解しないまま、聖なる日、

聖別されていると言っていることに、気がつくと思います。

 

全てのもの、全ての時は神に創造されたものです。神が創造されな

かったものは、私達の生きる世界には1つもありません。

全て、最初に神が創造され、それを人が、神が創造し、意図した通りに管理し、保存し、永続させる役割が与えられたのです。

しかし、それを破壊しているのが人間なのです。

神の意図した通り、ガードして、生きてないからです。

神の言葉、教えを無視した生き方を堂々としているからです。

 

クリスチャンが、全ての日は聖別された日ですと言いますが、

言いたい意味は、神が創造された日、どの日でも神に祈れる、

賛美できる、礼拝できると言いたいのだと思いますが、

その言い方は聖書とはズレています。

なぜなら、神は神の目的通りに週の7日を創造されたからです。

その他の時も同じです。神が特別な目的の為に造られた日と、

そうではないコモン、普通の日とは、区別、クリアーな境界線があるのです。これを、理解していないのです。

 

続く