1コリント10:13 あなたがたの会った試錬で、世の常でないものはない。神は真実である。あなたがたを耐えられないような試錬に会わせることはないばかりか、試錬と同時に、それに耐えられるように、
のがれる道も備えて下さるのである。
10:14 それだから、愛する者たちよ。偶像礼拝を避けなさい。
この試練とは、πειρασμός ピラスモスです。
この言葉は、「誘惑、テスト、試練」と訳される言葉です。
パウロが解説している文脈、内容から、ここの解説は、偶像礼拝、
性的不品行などの「誘惑」を解説しているのです。
神は、人が抵抗出来ない誘惑にさらさない、逃げ道、出口を与える!と解説しているのです。
罪を犯すような誘惑に閉じ込めない、罪を避けられる逃げ道、出口を
与えると書いているのです。
これが、1コリント10章でパウロが書いている誘惑に関する意味なのです。
この箇所は、苦しみ、試練の度合いに関して、書かれてもいません。
しかし、クリスチャンの間で一般的に語られるのは、自分が耐えられない試練を、神は与えないと教えるでしょう。
そして、大事な子供、家族を亡くした人、病気や地震、災害で家や
財産、仕事、商売の馬を一瞬にして失った時、喪失の重圧に押し潰されそ苦しい。
又は精神的に耐えられない!と、自分に取っては、そのような状況の時に誰かにこう言われます。
「大丈夫です!耐えられない試練を、神は与えません」などと
励ましのつもりが、善意のつもりでそう言いますが、励ましどころか、それはきついカウンターパンチの言葉なのです。
自分自身、手に負えない苦しみで、湖の底に沈んでもがいているような状態の時、その言葉を言われたら、それはこんなことを意味するでしょう。
1)あなたの試練は、本当はさほど大したことなどではないさ!
という、侮辱的な決めつけになります。
2)又は、他の人は耐えられるのに、あなたは弱すぎて、ダメすぎて、それを負えないからだ大変と思っているだけさ。
さらに酷い侮辱的な結論に、到達することになるのです。
この言葉は、聖書の神の言葉だと思っているのですが、1コリント
10章を読めば、その文脈は、偶像礼拝、不品行、神の教えを捨てることに関しての誘惑について、パウロが言及しているのです。
パウロが引用している内容は、全て、モーセの五書に記された、
イスラエルが偶像礼に染まった内容であることは、読めば分かるからです。
苦しみ、悲しみ、試練に関して話しているのではありません。
パウロは、人間に取って、耐えられないような誘惑は1つも無い!
ということを、話している箇所、文脈、内容なのです。
聖書の中に登場する人で、もう死んだ方がマシ!!!と言った人たちが、何人もいるでしょう。
パウロ自身も、もうダメだ!と思うような患難に遭ったことを
記しています。生きる希望も失せたと。
2コリント1:8 兄弟たちよ。わたしたちがアジヤで会った患難を、
知らずにいてもらいたくない。わたしたちは極度に、耐えられない
ほど圧迫されて、生きる望みをさえ失ってしまい、
1:9 心のうちで死を覚悟し、自分自身を頼みとしないで、
死人をよみがえらせて下さる神を頼みとするに至った。
1:10 神はこのような死の危険から、わたしたちを救い出して下さった、また救い出して下さるであろう。わたしたちは、神が今後も
救い出して下さることを望んでいる。
ここで分かる通り、その他、モーセの五書、預言書、イスラエルが
通った歴史の事実でも分かる通り、神が自分に耐えられない状況の時
神の方法で、救い出して下さるとあるのです。
自分が耐えられない!それは、当然です。苦しみは、嬉しいものではないし、その度合いが酷ければ、もうこれまで!と思うのが
当然だからです。
耐えられない程の酷い患難があるから、そこから救出して下さる。
助けて下さる。自分ではもうどうにもならない時に、神だけが介入し
助けて下さることの出来るお方だからです。
その方に信頼することを、患難を通して、それを学ばされているのです。
自分が何もなす術が無くなってしまった。
その時に、何も出来ない状態になった時に、神は助けて下さる。
この事実をパウロが書いているのです。
神が患難を許可するのは、自分自身を頼みにしないで、神のを頼みとするため!とあります。神に頼るため。
度合いは違えど、人生の中で、特に神のものとされた人に、試練
患難、難題を与えられます。
自分の力だけで人生を生きるということではなく、どれ程神に依存
頼って生きるか?目に見えないものを、見るが如く神の言葉、約束を
信じて生きるか、それを学ばされているのが、試練なのです。
エリヤはどう言いましたか。
列王記18章を読んでください。
1 アハブ王とエリヤの再会 長引く飢饉の中、神の命令を受けた
預言者エリヤは北イスラエルの悪王アハブの前に姿を現します。
アハブはエリヤを「イスラエルを苦しめる者」と非難しますが、
エリヤは「真に国を惑わしているのは、神の戒めを捨ててバアル神に従っているアハブ自身だ」と反論します。
2 カルメル山での対決 エリヤは、真の神が誰であるかを決着させるため、カルメル山にバアルの預言者450人と民衆を集めるよう
提案します。エリヤとバアルの預言者たちがそれぞれ祭壇を築き、
生け贄を載せて「火をもって答える神こそが真の神である」
という勝負を行います。
バアルの預言者たちの失敗 バアルの預言者たちは朝から夕方まで踊り叫び、自らの体を傷つけて叫び祈りますが、バアルからは何の応答も火もありませんでした。エリヤは彼らを皮肉交じりにあざ笑います。
エリヤの祈りと神の火 エリヤは崩れていた主の祭壇を12の石で修復し、薪と生け贄を載せ、その周りに深い溝を掘って大量の水を3度も
注ぎかけます。エリヤが短い祈りを捧げると、天から主の火が降って生け贄も薪も水も焼き尽くしました。
これを見た民衆は「主こそ神です!」とひれ伏します。エリヤの命により、バアルの預言者たちはキション川でことごとく処刑されました。
恵みの雨と飢饉の終わり エリヤはカルメル山の頂で膝の間に顔を挟んで深く祈ります。やがて海の方から手のひらほどの小さな雲が現れ、空は黒雲に覆われて大雨が降りました。エリヤは神の手に支えられ、馬車に乗るアハブ王よりも速く走ってイズレエルへと入りました。
神を忘れてバアル信仰に流れていたイスラエルの民に対し、
奇跡を通じて「主のみが真の神である」ことを強烈に示した劇的
なことが記されている箇所です。
何百人ものバアルの預言者が大声で叫んでも何も起きなかったのに
対し、エリヤの静かで真摯な一回の祈りに神が圧倒的な力(火)で
応えた点が対照的に描かれています。
エリヤが勝利した後に、エリヤが言った言葉は何でしたか?
1列王記19:1 アハブはエリヤのしたすべての事、また彼がすべての
預言者を刀で殺したことをイゼベルに告げたので、
19:2 イゼベルは使者をエリヤにつかわして言った、
「もしわたしが、あすの今ごろ、あなたの命をあの人々のひとりの命のようにしていないならば、神々がどんなにでも、わたしを罰して
くださるように」。
19:3 そこでエリヤは恐れて、自分の命を救うために立って逃げ、
ユダに属するベエルシバへ行って、しもべをそこに残し、
19:4 自分は一日の道のりほど荒野にはいって行って、れだまの木の下に座し、自分の死を求めて言った、「主よ、もはや、じゅうぶんです。今わたしの命を取ってください。わたしは先祖にまさる者では
ありません」。
このように人生最大の勝利の後、力尽きて、疲れ、神に死を願いました。もう十分!命を取ってください!と。
自分の力の限界で、生きる望みが無くなった人はこのように考えるのです。
この言葉、祈りをエリヤが言った時、神は叱責しませんでした。
しっかりしろ!とも神は言いませんでした。
代わりに神が御使いを送って、食事を与え、エリヤを眠らせました。
静かなささやきで、神はエリヤと出会うのです。
このような敗北は、恥ではありません。壊れた世界に生きる人、
誰でも体験しているものです。
ヤコブが父イサクを騙して、長子の権利を奪い、その結果、生まれ
故郷を去り、兄から逃げる放浪生活になります。
その時に母リベカが言った言葉です。
創世記27:45 兄の憤りが解けて、あなたのした事を兄が忘れるようになったならば、わたしは人をやって、あなたをそこから迎えましょう。どうして、わたしは一日のうちにあなたがたふたりを失って
よいでしょうか」。
27:46 リベカはイサクに言った、「わたしはヘテびとの娘どものことで、生きているのがいやになりました。もしヤコブがこの地の、あの娘どものようなヘテびとの娘を妻にめとるなら、わたしは生きていて、何になりましょう」。
イエシュアでさえ、処刑される前の晩、このように言いました。
ルカ22:42 「父よ、みこころならば、どうぞ、この杯をわたしから
取りのけてください。しかし、わたしの思いではなく、みこころが
成るようにしてください」。
22:43 そのとき、御使が天からあらわれてイエスを力づけた。
22:44 イエスは苦しみもだえて、ますます切に祈られた。
そして、その汗が血のしたたりのように地に落ちた。
22:45 祈を終えて立ちあがり、弟子たちのところへ行かれると、
彼らが悲しみのはて寝入っているのをごらんになって
人が耐えれない試練とは、イエシュアが直面したものと同じ度合いであるから、誰かに、自分の状況、困難を勝手に批評されたり、
軽々しい慰めを受けても意味がないのです。
詰まり、嘘とは、自分が試練に耐えられる程の力があるという嘘です。
真実とは、神が試練の時に支え、脱出させてくださるということ、
これが真実です。
神が語る真実、真理は、重荷、試練を主が負ってくださるということ
それなので、それを通過出来るという事実があるということです。
自分の力ではない、自分能力、特技、経済力でもない。
全ては、神だけ!それを知ることが、試練を通る意味だからです。
神に頼ること!これを、できることを知る!自分を頼みにしないこと!
以下の箇所、エジプト軍から逃げていたのに、引き返して、
エジプト軍に迫る場所で、宿営させられたのです。
これ不思議ですよね。
そして、その場所は、バアルゼボン〜隠された神バアルという名、
そして、ピハヒロテ、自由への口という意味の場所に挟まれた所です。
詰まり、エジプト、以前の奴隷のままの生き方に戻るのか?
それとも、神を信頼して神が与える本物の自由〜神の中で、神の性質通り、神に繋がり生きるのか?ということが、この地の名を通しても
教えられているのです。
出エジプト14:9 エジプトびとは彼らのあとを追い、パロのすべての
馬と戦車およびその騎兵と軍勢とは、バアルゼポンの前にある
ピハヒロテのあたりで、海のかたわらに宿営している彼らに追いついた。
14:10 パロが近寄った時、イスラエルの人々は目を上げてエジプト
びとが彼らのあとに進んできているのを見て、非常に恐れた。
そしてイスラエルの人々は主にむかって叫び、
14:11 かつモーセに言った、「エジプトに墓がないので、
荒野で死なせるために、わたしたちを携え出したのですか。
なぜわたしたちをエジプトから導き出して、こんなにするのですか。
14:12 わたしたちがエジプトであなたに告げて、『わたしたちを捨てておいて、エジプトびとに仕えさせてください』と言ったのは
このことではありませんか。荒野で死ぬよりもエジプトびとに仕える方が、わたしたちにはよかったのです」。
14:13 モーセは民に言った、「あなたがたは恐れてはならない
かたく立って、主がきょう、あなたがたのためになされる
救=イエシュアを見なさい。きょう、あなたがたはエジプトびとを
見るが、もはや永久に、二度と彼らを見ないであろう。
14:14 主があなたがたのために戦われるから、あなたがたは
黙していなさい」。
<人間は何も出来ない。語ることもできない!黙っているだけ!
という状況です。詰まり、神だけがされる業を信頼する。>
14:15 主はモーセに言われた、「あなたは、なぜわたしにむかって
叫ぶのか。イスラエルの人々に語って彼らを進み行かせなさい。
14:16 あなたはつえを上げ、手を海の上にさし伸べてそれを分け、
イスラエルの人々に海の中のかわいた地を行かせなさい。
14:17 わたしがエジプトびとの心をかたくなにするから、
彼らはそのあとを追ってはいるであろう。こうしてわたしはパロと
そのすべての軍勢および戦車と騎兵とを打ち破って誉を得よう。
14:18 わたしがパロとその戦車とその騎兵とを打ち破って誉を得るとき、エジプトびとはわたしが主であることを知るであろう」。
14:19 このとき、イスラエルの部隊の前に行く神の使は移って
彼らのうしろに行った。雲の柱も彼らの前から移って彼らのうしろに立ち、
14:20 エジプトびとの部隊とイスラエルびとの部隊との間にきたので、そこに雲とやみがあり夜もすがら、かれとこれと近づくことなく、夜がすぎた。
14:21 モーセが手を海の上にさし伸べたので、主は夜もすがら
強い東風をもって海を退かせ、海を陸地とされ、水は分かれた。
14:22 イスラエルの人々は海の中のかわいた地を行ったが、
水は彼らの右と左に、かきとなった。
14:23 エジプトびとは追ってきて、パロのすべての馬と戦車と騎兵とは、彼らのあとについて海の中にはいった。
14:24 暁の更に、主は火と雲の柱のうちからエジプトびとの軍勢を
見おろして、エジプトびとの軍勢を乱し、
14:25 その戦車の輪をきしらせて、進むのに重くされたので
エジプトびとは言った、「われわれはイスラエルを離れて逃げよう。主が彼らのためにエジプトびとと戦う」。
14:26 そのとき主はモーセに言われた、「あなたの手を海の上に
さし伸べて、水をエジプトびとと、その戦車と騎兵との上に流れ返らせなさい」。
14:27 モーセが手を海の上にさし伸べると、夜明けになって海は
いつもの流れに返り、エジプトびとはこれにむかって逃げたが、
主はエジプトびとを海の中に投げ込まれた。
14:28 水は流れ返り、イスラエルのあとを追って海にはいった
戦車と騎兵およびパロのすべての軍勢をおおい、
ひとりも残らなかった。
14:29 しかし、イスラエルの人々は海の中のかわいた地を行ったが、水は彼らの右と左に、かきとなった。
14:30 このように、主はこの日イスラエルをエジプトびとの手から
救われた。イスラエルはエジプトびとが海べに死んでいるのを見た。 14:31 イスラエルはまた、主がエジプトびとに行われた大いなるみわざを見た。それで民は主を恐れ、主とそのしもべモーセとを信じた。