1世紀以降のローマ帝国 新しい人造宗教の出現に至る過程 | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

このような暴君皇帝のように3世紀以降も、暴君カエサルが

存在しました。

 

デシウス(ガイウス・メッシウス・クィントゥス・トラヤヌス・

デシウス)は、3世紀半ばの混乱期(軍人皇帝時代)に在位した

ローマ皇帝(在位:249年 - 251年)です。

世界史においては、主に「ローマ史上初の帝国全土に及ぶユダヤ人と、イエシュア信者(異邦人含む)、大迫害を行った皇帝」

そして「外敵との戦いで戦死した最初のローマ皇帝」

として知られています。

 

1. 帝位就任の経緯

元々彼は元老院議員で政治・軍事面で優秀な将軍でした。

249年、ドナウ川流域の軍隊で反乱が起きると、当時の皇帝フィリッピ・アラブスから反乱鎮圧の任務を命じられます。

デシウスは反乱を鎮圧したものの、部下の兵士たちから力づくで

皇帝に担ぎ上げられました。その後、皇帝フィリッピと戦って

これを破り、正式にローマ皇帝として即位しました。

 

2. 主な出来事と政策

① 伝統的ローマ宗教の強制(デシウスの迫害)

当時、ローマ帝国は疫病、財政難、異民族の侵入といった

「3世紀の危機」に直面していました。デシウスはこれを

「人々がローマの伝統的な神々を敬わなくなったため、

神々の怒りを買った」と考えました。

帝国を団結させ神々の加護を取り戻すため、250年に

「全市民に対し、ローマの神々に犠牲(生け贄)を捧げ、その証明書(リベルス)を受け取ることを義務付ける勅令」を出しました。

 

イエシュア信者との衝突: 唯一神を信じるユダヤ人、

又は異邦人、イエシュア信者は、他の神々への生け贄奉納を拒否したため、

全土で投獄、拷問、処刑の対象となりました。

この様なローマ帝国の迫害に耐えられない異邦人は、ローマ帝国の

勅令に同化、同調し、そしてこの様な迫害を通り、ユダヤ人とは

完全決裂して、今に至っている事実を知って下さい。

3世紀に起きたこの様な出来事は、黙示録の時代、90年代の

ローマ帝国となんら変わらない環境のままでした。

皇帝崇拝、皇帝が信奉するローマ帝国を安泰に守る神々、女神を信じない人達、イコール、処刑対象です。又は、5つの群れ、はじめの愛を捨てた人達同様、ローマ帝国の皇帝崇拝カルト、異教の神々崇拝に

交わる、ニコライ派の教えに染まるか、どちらかだったのです。

 

クリスチャンの間では、ユダヤ人は古い教え、律法を生きる人、

クリスチャンは、キリストにより与えられた新しい教え、

新しい別物の契約を生きると、聖書に書かれた新しいという意味も

知らないまま、空想で考え、その様な聖書解説をしていますが、事実は違います。

新しい別の契約、トラーとは別の教えを生きると考えているでしょう。

新しい契約は、中身がモーセの五書とは違うのではなく、人間の中身が変えられている!この重大点を正しく理解しないとならないのです。

キリストが来て、1−4世紀の間にも今の様なカトリックや、

キリスト教の教え、神の教えを廃れたと教え、神のモアデイム、

シャバット祭りを全て捨てる様なその様な生き方は、ユダヤ人は

しませんでした。ローマの迫害で迎合した人以外は。

異邦人もそうでしたが、ローマ帝国の迫害に負けて、ニコライ派

ローマの皇帝崇拝、異教の神々、女神の教えや祭りに混じった人が

いただけです。徐々に徐々に、ヌルヌルヌルヌル偽物の教えが

人の手により、浸透させ行ったのです。

神は、はじめの愛=モーセの五書=婚姻契約に記された以外の

別の教えや、神の教えを好き勝手に削除することを人に教えなど

しません!

今は、聖書に書いてある事実と、人間が作った思想が入れ替わり、

逆転して、人造宗教をする異邦人が大多数であり、本物、

オリジナル、イエシュアが教えられた教えや、シャバット、

祭りを異物と認識する様な逆転が起きてしまっているのです。

異物が本物で、本物が異物とクリスチャンが考えている!

 

今の様なキリスト教、カトリックをクリスチャンが信奉している理由は、1世紀以降、ローマ帝国、第四の獣による、この様な残忍な迫害に耐えられず、偽物の教えに混ざり合い、ローマ帝国のカルト宗教に

迎合して行ったからである!という事実から、目を逸らさないで

下さい。

異邦人の中には、それでも忠実に神の教えに生きた残りの民がいたでしょう。しかし、それは本当にごく少数です。

そして、皆、トラーを生きて、ローマ帝国に処刑されたのです。

 

そして、ローマ帝国支配下の国々ではない場所に住んでいた異邦人はユダヤ人同様、1世紀の人と同じ様に、トラーを生きて、シャバット、祭りを祝っていたのです。神の教えを強制的に捨てさせられることが

なかったからです。

しかし、異邦人はこの様な迫害から、ローマ帝国に迎合、同調、

シンクロ、同化してしまったのです。

 

歴史的影響: それまでの迫害は局所的・限定的なものでしたが、

デシウスの勅令によって「歴史上初めての帝国規模の系統的な

ユダヤ人と、そしてイエシュア信者、異邦人を含む迫害」

が行われました。

当時のローマ教皇ファビアヌスもこの迫害で処刑されています。

 

ゴート人との戦いと悲劇的な最期

即位直後から、バルカン半島に侵入してきたゲルマン系のゴート人との激しい戦いに追われました。

 アブリットゥスの戦いと現職皇帝の戦死(251年)

251年、ドナウ川を越えて侵入してきたゲルマン系のゴート人に

対し、時の皇帝デキウスとその息子が率いるローマ軍が激突しました(アブリットゥスの戦い)。

この戦いで、デキウス帝は戦死しました。

ローマ帝国の歴史上、現職の皇帝が対外戦争で敵に倒されたのは

これが初めてのことであり、帝国の威信と防衛網に壊滅的な打撃を

与えました。

 

「軍人皇帝時代」の激化と政治的混乱

皇帝の戦死以降、軍隊が次々と自身の指揮官を皇帝として擁立する

軍人皇帝時代の混乱がピークへ向かいました。

各地の軍団が独自の皇帝を立てて争ったため、わずか数ヶ月で皇帝が殺害・交代することも珍しくなく、政治的な統治能力が完全に失われました。

 
 外敵の侵入と皇帝ウァレリアヌスの捕虜事件(260年)

北からはゴート人やフランク人などのゲルマン系諸部族が大量に侵入し、東方からは猛威を振るうササン朝ペルシアが攻め込んできました。

260年の「エデッサの戦い」では、ペルシアの王シャープール1世に

よってローマ皇帝ウァレリアヌスが捕虜にされるという、前代未聞の惨事まで発生しました。

 

 ローマ帝国の三分(260年代)

中央政権の衰退を受け、自前で地域を守るために帝国が3つに分裂する事態に陥りました。

ガリア帝国(西方:ガリア、ブリタニア、ヒスパニアが独立)

パルミラ帝国(東方:シリアやエジプトを中心に女王ゼノビアらが独立)

 

中央のローマ帝国

 

アウレリアヌス帝による再統一(270年代)

崩壊寸前だった帝国を救ったのが「軍人皇帝」の一人である

アウレリアヌス帝(在位270年〜275年)です。

彼は東西の分裂国家(パルミラ・ガリア)を破って帝国を再統一し、元老院から「世界の修復者」の称号を贈られました。

又、首都防衛のために今も残る「アウレリアヌス城壁」を

建設させました。

 

ディオクレティアヌス帝による収息と体制刷新(284年〜)

284年に即位したディオクレティアヌス帝によって、

約50年続いた大混乱期にようやく終止符が打たれました。

彼は広大な帝国を4人で分担して治める四頭政(テトラルキア)

を導入し、従来の元首政から皇帝主導の専制君主政(

ドミナートゥス)へと政治体制を大幅に刷新して帝国を

再建させました。

 

251年以降の約30〜40年間は、皇帝の戦死や捕囚、分裂といった

「国難の連続」でしたが、最終的には強い軍事力と強力な政治改革によってローマは壊滅を免れ、新しい体制へと生まれ変わることになりました。

 

251年から307年に至る期間は、ローマ帝国が壊滅寸前の大混乱期(3世紀の危機)を経験し、強力な改革によって立ち直ったものの、新たな内乱の時代へと突入していく波乱の半世紀です。

この時代の主な出来事を時系列に沿ってわかりやすく解説します。

 

「3世紀の危機」と帝国の分裂(251年〜269年)

軍人が次々と皇帝を称して倒れる「軍人皇帝時代」の最盛期であり、外敵の侵入と帝国の分裂によって崩壊の一歩手前に追い込まれました。

 

最高価格令(301年): 深刻なインフレを抑えるため、あらゆる商品や労働賃金の上限価格を法律で定めました。

ただし市場の実態に合わず、闇取引が横行して定着はしませんでした。

 
イエシュア信者に対する大迫害(303年〜)

皇帝を絶対視する国家体制を統一するため、皇帝崇拝を拒否する

イエシュアを信じる人達に対してローマ史上最大規模の弾圧

(ディオクレティアヌスの大迫害)を行いました。

聖書の焼却、会堂の破壊、信徒の処刑などが帝国全域で実施されました。

異例の「生前退位」

305年、ディオクレティアヌスは自ら作った後継者育成ルールに従い、**ローマ皇帝として極めて珍しい「生前退位」**を行いました。退位後は故郷(現在のクロアチア・スプリト)に建てた宮殿で趣味のキャベツ栽培をしながら余生を過ごしたことで知られています。

 

 テトラルキアの崩壊と新たな内乱の幕開け(306年〜307年)

ディオクレティアヌスが去ると、後継者争いと野望によってシステムは一気に崩壊へ向かいました。

 

306年(コンスタンティヌスの登場): 西の正帝コンスタンティウス・クロルス(ヨルシカの父)がブリタニアで病死。

軍隊は独断でその息子コンスタンティヌス(後の大帝)を皇帝として宣言しました。

マクセンティウスの反乱: 前正帝マクシミアンの息子

マクセンティウスもローマで挙兵し、皇帝を自称。

 

307年: 複数の正帝・副帝・僭称者が乱立し、テトラルキアは事実上崩壊。帝国はコンスタンティヌス1世を中心とする熾烈な内乱の時代後に彼が帝国を再一統し、ローマ教、ユニバーサル教を公認する流れへと突き進んでいきました。

 

 四頭政(テトラルキア)の導入

広大な帝国を1人で統治・防衛するのは限界があると判断し、

2人の正帝(アウグストゥス)と2人の副帝(カエサル)の計4人で

領域を分担統治する「テトラルキア」を創設しました。

これにより、各地で同時多発する異民族の侵入や反乱へ迅速に対応できるようになりました。

 

 専制君主政(ドミナートゥス)への移行

それまでのローマ皇帝は「市民の中の第一者(元首)」という建前(元首政/プリンキパトゥス)をとっていましたが、ディオクレティアヌスはこれを廃止しました。

皇帝を絶対的な権力者・神格化された存在として位置づけ、ペルシア流の礼節(皇帝の前にひざまずくなど)を導入して「絶対君主」として君臨しました。

 
 内政・経済の大改革

軍事と行政の混乱を抑え、税収を安定させるために組織改革を実施しました。

 

行政区画の細分化: 地方長官の権力を抑えてクーデターを防ぐため、属州を約100個に細分化し、軍事権と行政権を分離しました。

 

新課税制度(イウガティオ・カピタティオ): 人口と土地の面積・品質に応じて均一に増税・徴税する仕組みを整え、国家財政を安定させました。