神が創造された神との会見の場所 時と空間 場所 シャバット | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

私達人間は、神が創造された世界の中に造られ、そこに生きるように

神が招き入れて下さいました。

全世界の創造物は、人のために神が造られました。

神が意図した通り、世界を管理し、神が意図した通りを生きる。

人は、神が創造されたような創造は出来ません。

神が創造された「原材料」から、何かを編み出す、神の模倣が

出来るだけです。

忘れているのは、神が創造主であり、神だけが神が造られ世界の

構造、成り立ち、それらをどう治めるのかを伝えられる唯一のお方です。

人が、どのように生きるように、神が造られたのかを伝えられるのも

神以外ありません。

それを、人間の教えで塗り替える無理をしているから、神が創造されたこととは、別のことを生きてしまうのです。

ずれ、罪の基本は、ずっと同じです。

人間は、神の言うことなど聞きたくない!

それが、エデンの園で神の言葉、教えとは違う教えを聞いて、

騙されて、別もの教え、行動、生き方を選択したこと。

バベルの塔、その後も、ずっと偽の神々の教えに混じり、偽物を

通して、イスラエルの神に関わって来た罪。

その行動の結果、預言者がイスラエルに送られて、神の契約=

トラーに根付いた生き方に戻れ!という預言者が伝える神の託宣を

イスラエルはことごとく嫌い、無視し、預言者を殺したのです。

これが、黙示録の警告なのです。今も同じことをしているのです。

神の教えは、律法と毛嫌いする思考回路と全く同じなのです。

神の警告が、耳に頭脳に届かない状態なのです。

神の伝えた言葉を、人間が変えて、別物に変化させた教えが、

本当と信じて、騙されている。

それは、黙示録にあるように、ニコライ派の教え〜皇帝を神と崇拝させ、異教の神々、女神の祭り、記念日、儀式に参加する妥協、

混ぜ物の宗教、教えをやった人たちへの、警告です。

神の教え=トラー!はじめの愛を捨てた!忘れた!

預言者が伝えた警告を、暗号でヨハナンが書いているのです。

 

西洋宗教は、ヨハナンが警告した通り、当時のローマ帝国下で

強要された、皇帝崇拝と、異教の神々、女神の教え、祭り、記念日を

を混ぜて4世紀に作られた宗教です。

その宗教、思想に、巻かれた異邦人が、黙示録で警告されている

神の教えから離れた5つの群れ、カハールなのす。

そのローマ帝国教の教えに混ざる生き方が、今に至るまでずっと続いていることに、全く気がつかないのは、昇天以降、神が神の教えを

捨て去り、新しい教えを教え、告白するだけで許される、

キリストの十字架の死を信じるだけで義とされたという、今迄聞いたことのない教えが、初めて教えられたという嘘を信じているからなのです。

聖書には、最初から、永遠の中に屠られたイエシュアの血の代価で

神の元に戻ることを、教えています。

その事実を、残りの民は、全て受け取り聖霊が内側に住んでいたから

神と対話し、神との関係に入っていたのです。

そうでなければ、神が神とも分かりません。

最初から、永遠から同じ唯一の福音=唯一の購いの方法、そして神の言葉、教えは同じであり、未来、クリスチャンが神の言葉を誤訳した律法、本当の意味は神の教え、インストラクション=トラー、契約に根付いた生き方に全ての人が戻る!と預言されているのです。

 

それが、エレミヤ31:31であり、イエシュアが過越の祭りに

弟子達対して再更新した、同じ婚姻契約=シナイ山で与えた同じ契約

モーセの五書=トラーなのです。

考えると分かると思いますが、一般的にカトリック、クリスチャンの間に浸透した教えは、オリジナルの聖書に記されたイエシュアが教えた父の教え=モーセの五書=トラーを変形させた教えなのです。

それが黙示録の警告!はじめの愛=契約=トラーを捨てた!という

警告そのものなのです。

ユダヤ的な言葉や、シャバットや祭り、その他キリスト教では、聞きなれない教えや、実践を聞くと、途端に異端!カルト!と即座に

警戒反応を示すでしょう。

それは、それらが古い悪い律法時代の廃れた教えであり、それらを

することは、神の恵み〜要らない縛りの教えを捨ててくれたのに、

わざわざ古い教えに戻って、律法主義を生きる悪い生き方だ!と

トンデモなくずれた思考回路で、考えているからです。

頭の中に、偽物の教え、人間が作った事実とは違う数式、方程式が

あり、それに当てはめて考えているから、嘘を本当と信じているのです。

聖書の時代、古代も、そしてイエシュアが昇天された以降の1世紀でも、もし、今のようなカトリックやキリスト教、その他プロテスタントの教えと、その実践、神の言葉は廃れた!と教え、今は人が考えることを選んで生きると教え、日曜礼拝、クリスマス、イースターなど

当時の人の間でやったら、一体どうなると思いますか?

完全に他の神々の宗教の教えと、認識されてしまうのです。

偽の教え、異端思想と完全追放されてしまいます。

ローマ帝国が作った別物の新しい宗教。皇帝崇拝、人間が神になり、教皇がその座に座り、神の教えを否定し、削除、別の教えを編み出す。

ギリシャローマの神々、女神の要素、記念日をふんだんに取り入れて作った宗教と彼らは、認識します。

そのようなことは、使徒の書簡にも1つも記されていないからです。

 

どこから落ちたのか考える。それはローマ帝国の迫害、ローマ帝国の皇帝崇拝、異教の神々、女神の思想、哲学、信条、儀式、記念日を

取り入れた宗教をやるように、ローマ帝国下に住む人は、処刑という

恐怖を突きつけられて、強要され、それに従ったからです。

ユダヤ人は、世界に離散しました。そのような、カルト教、

神の教え=トラーに記された、イエシュアが教えた父の教えを否定し捨て、神のモアデイムを汚し、捨て、ローマ帝国皇帝が作った偽物のなどを生きるとは、神に対する大冒涜、罪、聖別を汚す行為だと

神の言葉から、知っていた人達だからです。

 

昇天以降、日曜礼拝に変わったのではなく、ローマ帝国が4世紀に

皇帝の日、太陽神の日、日曜日を新しい、時のローマ新興宗教の

記念日と変えたから、人間が変えたから、それが本当の理由なのです。

何曜日でも、どこに、どんな目的で集まろうと、それは自由であり、

許可されていることです。

許可されていないことは、神が聖別されていない日を、人間が勝手に

主の日、聖日、シャバットと呼び、神が造られていない祭りを、

神が創造された祭りとし、本ものを捨てて祝うことです。

そして、神が創造された神の記念日を捨てること、これが聖別を

汚す行為であり、罪であると、神が言われていることに全く気が

ついていないのです。

なぜ?古い教えは廃れたからさ〜という大嘘に照らし合わせたら、

今はどの日も、人が決めた日が記念日というローマ14を完全に誤解し、パウロは、神のモアデイム、レビ記23に記された神の聖別された日のことなど、その中で一言も語っていないのに、シャバットが

変更された証拠だ!と、どこもかしこも、どの教師も異口同音に

完全に間違った聖書解説を、気がつかないまま堂々と施し続けているのです。

聖書を、正しく学んでいない、神の教えを正しく知らない教師に

代々学び続ける代償とは、そのような偽情報を本当と、聖書に書いてあることに照らし合わせて、正しく考えていない思考回路になるのです。

いつでも、なんでもシャバットなら、神は最初からそう言われたはずです。

しかし、シャバットは、神だけが宣言出来る日であり、それは神が

創造主である証拠、証明、世界に対する宣言でもあるからです。

神が全ての創造を終えて、止まられたから、神の子らも同じように止まる!と神が言われたことを、聖霊が内側に住む人が捨てるように

教えらえた、ローマ帝国の勅令で、そうさせられたのです。

偽の教えは、排除しなくてはならないことが、最初から書かれています。

それは、アヴラハムを通しても教えられています。

アヴラハムは神に、直接語りかけられ、神の教えを教えられたのです。

創世記は、個人個人が、神が直接出会い、語られ、イエシュアの

業も新しくされている事実も、そして、神の教え=トラーも

全て神の口から直接教えられた人のことが書かれています。

それが、ヤコブの12人の子供たち、家族の歴史、記録であり

後にエジプトに降る時、70人の大家族としてエジプトに入ったのです。全部7。そして、12。

間違いの教えの土台は、人間が神の言われたことを聞かない!やらない!

これに尽きるのです。なぜ、神の言われたことを、人が退け、

人間ローマの作った偽物の、混ぜ物の教えをやるのか?

自分で考える、聖書から考える人は、聖霊が真実を聖書=神の言葉から、必ず教えて下さいます。

教えられて来た、神の教えが変わったという例にされている臭い箇所は、全部間違った聖書の読み込み!それが原因です。

それは、聖書を正しく学ばない、オリジナルを学ばない、ユダヤ人の

群れから離れ、トラー教師を持たず、ローマ教の教師に、聖書とは

違う思想で、聖書を解説されてしまった、その代償なのです。

普通に見渡しても、クリスチャンの間には、ユダヤ人のように、

ヘブライ語に精通して、ヘブライ聖書に書かれたことを、その意味通りに教えられるということは、皆無なのです。

全部、宗教の教え、進化論デイスペンセーション神学や、置換神学

聖書ではない人間の教理を通して、翻訳聖書だけから、ある部分事実でも、元が歪んだ〜神の教えが廃れた、マタイ以降は、別の新しい

教えが書いてある、人が神の言葉を正しく仕分けて、より分けて

良い!などという教えを施されているでしょう。

それ、聖書でもなんでもない人間の思想なのです。

 

日本は、人数で言ったら極少なので、気がつかないと思いますが

今やアメリカは、驚異的にずれた思想が蔓延しています。

全部が全部ではないですが、宗派を超えて、異端的思想が入り込んでいる。それは、土台が砂だからです。偽物と本物を見分けられない。

一方、今迄語られてきた西洋宗教は、聖書ではない!と気が付く多くの人達が、世界中から出て来ているのです。

 

アヴラハムが、ロトを連れて来てはいけなかったのは、アブラハムは

異教の神々を信奉する地、ハランの地、親族、両親も異教の神々を

拝む人でしたから、そのようなこと、教え、生き方、生活から

一切決別しないとならなかったのです。

しかし、甥ロトもついて来てしまいました。

ロトが何をしたか、書いてあります。ソドムとゴモラにいた子供から

大人まで皆腐ったLGBTQの人々、男が男を求めてやって来た時に

娘を差し出そうとしました。

果ては、ロトの娘二人は、父により子を設け、それがモアブ人〜

「父により」という意味のモアブ人の先祖になったのです。

そのモアブは、ヨハナンが書いているバラムの教えでもある、

モアブ人の王、バラクに雇われた偽預言者です。

バラムの教え〜異教の神々、女神と交わる不品行、実際に異教の神々の神殿で、神殿娼婦と交わる不品行をすること、そして、子供の

生贄として捧げるなど、イスラエルの神の教え、生き方とは、

似ても似つかない偶像礼拝を通して、イスラエルの神を信じているという、歪んだ思考回路、実践のことです。

ニコライ派も同様、皇帝崇拝、異教の神々、女神の崇拝、祭り

記念日を祝い、混ざり物の教えに妥協する行為を、警告されているのです。ローマ帝国がしたこと、そのものの警告が記されているのです。

異邦人は、もちろん直に異教の神々、女神を拝み、彼らの祭りをしないでしょう。しかし、神の教えを捨て、シャバット、祭りは捨てています。

その代わりに、異教の神々、女神の祭りを作り変えたもの、

皇帝崇拝、太陽神の崇拝日を変えたものを、ローマ帝国によりすり

替えられたものを、通してイスラエルの神を崇拝しています。

神が神の教えを変えてなどいないのに、廃れた!という偽情報を

復唱し続け、イスラエルの神を歪めて世界に伝えています。

そして、神の聖別を汚す行為が何かも、神の教えを捨てているので

理解していません。

神の教えが廃れたら、人間が主体になってしまっているので、それこそ、その人、その人がそれぞれが考えることでOKとなってしまっています。だから4万3千の宗派、別々の思想で分裂している。

しかし、それらは神が拒絶する、退ける行為そのものであることは

聖書にクリアーに記されています。ヨハナンの黙示録の警告は、

今のような人の教えを通して、イスラエルの神に近づく、

ニコライ派、バラムの教えに対する警告だからです。

ミシュカン建設は、誰に託されましたか?

天に存在する人の肉眼では見えない、神の家がある。

神が人と特別に会見する場所を作らせた。

それそっくりを地上で作られせて、神ご自身を人々に教える、

神との会見の場所、家を作らせたのです。

神の家族には、住まう場所があり、大祭司であるお方がいるのです。

そのミシュカン建設をした人は、神の教えを勝手に変えて捨てる人は

任命されませんでした。

ユダ族、賛美という意味の名、ホルの子、ウリの子、ベザレル。

ホル、白い、ウリ〜光、ベザレル〜神の影という意味です。

影は、意味なし、消えるという意味でクリスチャンは解説しますが

聖書にある影とは、見えない実態そっくりそのままを映し出すもの

という意味です。

そして、神の言葉を託された人は、神が言われた通りにする、

制作する。

そして、ダン族、ダンとは裁くという意味の名の部族です。

オハリアブ オヘル〜会見の場所 アヴ〜父という名です。

宗教の世界は、ローマ帝国、人間の思想が、神の言葉の中に挟まってしまったのです。

考えてみたら分かると思います。なぜ?クリスチャンは、聖書に

書かれたイエシュアが教えられた教えを、廃れたと信じて主張し

そして、神のシャバット、祭りの全部を捨てているのか?

それは、ユダヤ人と、異邦人は別の教えという、デイスペンセーション神学、人間の教えを信じているからです。

時は神が創造されたものです。

シャバット、第7日目、神が唯一聖別し、祝福された日は、第7日目であり、ローマ帝国が作り変えた日曜日ではありません。

神のシャバットを、人が、日曜日、主の日、聖日と言い換えることは

偽証であり、やめないとならないのです。

自分が言ってもないことを、言ったと言われたら、それは許し難い

偽証でしょう。同じことを、神に対して堂々としているのに、

聖書に書いてもないことを、書いてあると主張し続けている。

その大罪に無感覚なのは、全てローマ帝国の偽の教え=神の教えを

捨てよ!という勅令から来たものなのです。

日曜日に何の目的で集まっても良いのです。

しかし、それは神が聖別され、神が呼び出している特別な聖日ではないから、その日を主の日、聖日と呼んではならないということを

理解しないとならないのです。偽証だからです。