黙示録2:17 耳のある者は、御霊が諸々の群れ、カハール、エクレシアに言うことを聞くがよい。
勝利を得る者には、隠されているマナを与えよう。また、白い石を
与えよう。この石の上には、これを受ける者のほかだれも知らない
新しい名が書いてある』。
白い石とは、当時のローマ帝国の裁判システムです。
1. 無罪と赦しのしるし(古代ローマの裁判)
古代ローマの裁判では、陪審員が「無罪」の時に白い石を、
「有罪」の時に黒い石を壺に入れて投票する習慣がありました。
これになぞらえ、黙示録に記されている白い石は、私たちを「無罪」とし、すべての罪を赦してくださることの証明を表しています。
私達は、永遠の中に屠られた子羊の血の代価により、新しくされ、
罪ではない人が、罪となり、人の罪の全てを負ったと書いてあります。だから、無罪〜白い石が与えられている、許されていると書いてあるのです。
隠されているマナとは、当時の神話で、天から降ってくる不老不死の
蜜があると信じられていました。
しかし、神が与えたマナとは、天から降るマナです。
これは、もちろん肉体を支えた、神が与えた食べ物です。
マナとは、「これ何?」という言葉です。
誰も見たこと、食べた事がないもの。
しかも、荒野の40年、皆誰も病気にならなかったのです。
神の与えるマナとは、イエシュア、天から降る命のパンです。
それは、イエシュアの実態であり、神の言葉そのものを指しているのです。
漠然と、イエシュアと考えますが、神の実態は言葉です。
私達は、神の言葉を通して、神と対話し、関係を持っているのです。
インスピレーション、感覚、感情ではない、神の言葉が伝える
神ご自身=イエシュア=聖霊=実態を通して、神の深いところにある考えを汲み出す事ができるのです。
言葉で、全てが造られたのです。人間は神の言葉、DNA性質で
綴られ、造られているのです。
その人を生かすマナは、神の言葉である!ということを、最初から
ずっと伝えているのです。人は、神の口から出る1つ1つの言葉により生きる!と書いてあるでしょう。その1つ1つの言葉を、
どうして捨てよ!廃れた!という大嘘を信じるのですか?
聖書に書いてもない、大嘘!
其の命を支える神の言葉を捨てよ!!!と教えるのが、サタン〜
神に敵対する、人を責める存在です。サタンの作戦にまんまと乗っかっているのです。
命の源そのものを破壊する、それがサタンの仕業であり、異邦人の世界に浸透した偽の教え〜神の言葉は廃れた!という大嘘なのです。
自分の頭で考えれば分かります。聖書に照らし合わせて事実を捉える必要があります。
神=聖霊=イエシュア=言葉と聖書には書かれているのです。
言葉の神と、アラム語は書いています。メムラ。
ヨハネの冒頭もそうです。言葉〜イエシュア〜言葉が肉体を取って
来られた。トラーが、人の間に住んだと書いてあるのです。
それは、ミシュカンを通して、教えられたものであり、神の臨在が
人の間に住む。神の言葉が契約の箱の中にあり、それが神の臨在
そのものであると書いてあるのです。
人が肉眼で、目に見えない世界を、目に見える形で、地上で教えて
いるのです。
神の言葉を捨てる行為、イコール、イエシュアを捨てている事!
神の教えを無視、退けて、宗教の教え=人間の教えを生きている。
それにはっきりと気が付く事です。それは、蛇の企みであり、
人を破壊する一番の手だからです。神の言葉を破壊しているから、
今やキリスト教という宗教の教え、実践、組織も、カルト化しています。神の教えではなく、人の教え=別物をやるからです。
LGBTQが罪であると分からない。人間が神の教えを捨てる事、
破棄する事が、罪とも分かっていないからです。
土台が、最初から、ローマ帝国の教えだからです。
そして、誰も知らない新しい名とあります。
誰も知らない、イコール、ローマ帝国が知り得ないこと、
それは偶像礼拝にどっぷり浸かり、本物の神、神の教えを生きることを知らない人には分からないという意味です。
意図的に隠しているという意味ではありません。
神との関係にあり、神の教えを理解しない人には知り得ないという
意味です。
ローマ帝国下に生きた皇帝は、この名とは、人を支配し、神々を
利用し、自由自在に何でも操作さできるパワーであると考えていましたが、神が与える名=実態とは、彼ら異教徒が考えるものとはまるで違うものであることを、話しているのです。
そして、新しい名と書いてあることを、7つの群れのユダヤ人は、
即座に、イスラエルという名を与えられたヤコブの人生を思い浮かべるのです。
エデンの園の最初から問題は同じです。
「騙し」です。聖書に書いてある闇も騙しを指して語っているのです。騙しを生きていることそれが、闇です。
本当の自己像〜神の似姿に造られた自分の自己像、性質を嘘で
おおいかくされ、偽の自己像、偽の人生目標、偽の理想を求めて
本当の自分を生きられない、それがヤコブの人生で表されています。
ヤコブの人生は、生まれた時にさかのぼります。
ヤコブという名は、エケブ〜かかとという語源から来ており、
実際ヤコブは兄のかかとを掴んだまま生まれたとあります。
ヤコブは、次男です。長男がその家族の長子であり、相続を倍に
受けて、全家族責任を父の代わりに負う役割を担う立場を与えられるのです。
そのヤコブが、父イサクを騙して、長子の祝福、権利を奪いました。
そして、生まれた故郷から、逃れ、逃げたのです。
そして見た夢が天から御使が降りたり、登ったりしているものを見ました。
ヤコブが新しい名を与えられたのは、それから20年後です。
それは、自分を殺そうとしていた兄エサウが、400人のいわば
援軍と共に、ヤコブと遭遇する時が来たのです。
ヤボクの橋で、家族と家畜全部を向こうへ送った後、ヤコブは、
不思議な神の御使と、格闘するのです。
この物理的な格闘は、自分の中にあった精神的、霊的苦悩、苦しみを全部曝け出して、格闘したものです。
自分の過去、騙し、嘘、その結果、生まれ故郷を去らなくてはならず
放浪の生活をしてきた。
偽の自己像と、そして叔父ラバンにも騙されたのです。
神の天の裁きにより、自分の歪んだ性質を、裁かれなくてはならなかったからです。ヤコブは逃げなかった、妥協しませんでした。
本当の自分を知らなくては、これ以上生きられないところ迄、来た
からです。
そして、「あなたの名は何か?」と聞かれます。
これは、20年前、自分の父についた嘘、「わたしはエサウです。」
という嘘と直面させられることでもあったのです。
自分の本当の自己像、「ヤコブです。」と告白しました。
内側にある恐怖に飲まれず、ヤコブは真実にこの不思議な神の使いと
格闘したのです。
そして、新しい名〜イスラエル、神と格闘して乗り越えたという
新しい名を与えられ、それがイスラエルという民族の名になったのです。
新しい名とは、異教の神々が考える、不思議な名で人を操作、
支配するのではない。
恐れを乗り越え、400人の援軍と自分を殺そうとした兄エサウと
直面した事。新しい名は、何が重要か?なぜ隠されたと書いてあるのか?
エノク書に、「人の子」と書いてあります。この「人の子の名」が
全てを秘めているのです。イエシュアもこの言葉を使われました。
永遠の中から、語られている創造主。
神の実態は、このように腐敗した、偶像礼拝、偽物の教えに交わり
生きている人々には、理解できない、
だから、その盲目の人の目には隠されて見えないと書いてあるのです。
人間が作った偶像の神々、皇帝崇拝に交わり生きている人には、
本物が分からない、見えない。だから、混ざるな!と警告されているのです。
神の名=実態は、彼らを破壊するだけのものだからです。
ペルガモンの群れに警告されているのは、同じように「妥協」
偽物の教え、宗教と交わるな!という警告です。
そのような事をしながら、同時にイスラエルの神が与える実態=名を
生きることはできないからです。
ローマ帝国は、皇帝崇拝を拒絶し、異教の神々、女神の儀式、祭りに参加せず、豚を食べない人たちを、犯罪者呼ばわりしましたが、
神は違う名=新しい名を与えているのです。
それが、イザヤ62に記されていることなのです。
イザヤ62:4 あなたはもはや「捨てられた者」と言われず、
あなたの地はもはや「荒れた者」と言われず、あなたは
「わが喜びは彼女にある」ととなえられ、あなたの地は
「配偶ある者」ととなえられる。主はあなたを喜ばれ、
あなたの地は配偶を得るからである。
62:5 若い者が処女をめとるようにあなたの子らはあなたをめとり、
花婿が花嫁を喜ぶようにあなたの神はあなたを喜ばれる。
神の警告は、偽の教えに交わること、そのことに対する警告です。
妥協をして、混ぜてはならない!
もちろん、仏教のお経を唱えたり、神社で鐘をついて、賽銭したり
おみくじ引いたり、焼香したりなどしませんと考えますが、
知らないところに、偽物の教えと、その実践がふんだんに忍び込んで、潜んでいるのです。
それが、人間が編み出した思想=ローマ帝国の思想、ニコライ派の
教えであり、バラムの教えなのです。
異教の神々、女神の教えをふんだんに取り入れ、神の言葉を生きる事を禁じ、別物の教えと、別物の記念日、しかも、その別の記念日の裏にある既存の記念日、祭りは皇帝崇拝日、太陽神の日、ミトラ教の祭り、多産の女神の祭りをパクリ、作り変え、リニューアルし、
キリスト的な意味を後付けした人間の作り物なのです。
ローマ教、その大元の思想は、皇帝崇拝カルト教です。
インペリアルカルト宗教。
異教の神々も女神もローマ市民も、全て皇帝崇拝、皇帝と帝国の
繁栄の為に存在しなくてはならない、独裁主義帝国です。
これは、どの帝国も同様です。そしてエジプトも同じ。
エジプトの王が、神と同等であり、ローマ帝国皇帝も神です。
皇帝を崇拝する。この思考回路が、ローマ教、キリスト教の中に
あるのです。
だから、ある人が、教祖、リーダー、牧師が神と同等の権威があると
教えるのです。それらの人は神に油注がれた人だから、誰も逆らえない。意義申し立てしてはならない。
その大元が、ローマ帝国皇帝崇拝であり、皇帝に仕えるのが神殿祭司、教皇であり司教なのです。
皇帝が全てを管理する。今は教皇が全てを管理する。
人を支配し、莫大な富を管理する。
人が神の教えを塗り替える、これはカトリックだけではなく
プロテスタントも同様に、神の教えを塗り替えているのです。
神の教えは廃れた!という思想そのものが、その違反行為を証明し、実際に契約を捨て、神の教えに反したことをすることが、罪とも
思わないのは、神の教え=罪の定義を捨てたからです。
神のモアデイムを捨てること、罪、聖別を汚す行為とも聖書を読みながら、全く気がつけないのは、偽物=ローマ皇帝教が作った別物の教え、思想、儀式、記念日を聖書に書いてもないのに、本物と信じている、全て騙しから始まった偽物を信じているのです。
西洋宗教、ローマ帝国教は皇帝崇拝と異教の神々、女神の思想
儀式、記念日を取り込み神の教え=トラーを否定した思想から
作られた時の新興宗教であり、純粋な神の教え=イエシュアが
教えられた教え、契約を生きない別物の宗教。
