全世界を創造された本物の神が語る本当の事実 教え | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

ひょうたんから駒、嘘から出た誠、トンビがたかを産むなどという

ことわざがありますが、神の言葉を曲げた嘘からは、永遠に、絶対に誠は出ません。

 

そして、全部が、全部、嘘ではないから、厄介なのです。

同じ畑に麦と毒麦がまかれるとは、良い地に植った種と、悪い地に

植った種の例と同じです。

良い地=神の意図通り、神の目線と同じ場所で神の言われた通りに

考える頭脳という畑と、悪い地=神の意図から外れた捉え方、

神の伝える意図を理解しない頭脳である畑の例えです。

 

たとえ話も、イエシュアが勝手に作って話しているのではないのです。これは、その時代にあった、実際の「たとえ話」を使って

話しているのです。

日本人が誰でも知る、色々な寓話があるでしょう。

「カチカチ山」や「ウサギと亀」など。

寓話の特徴は、何でしょうか?

 

寓話(ぐうわ)とは、教訓や風刺、人生の真理を伝えるために、

動物や植物などの他の事物に関連づけて語られる「たとえ話」です。直接的に教えるのではなく、物語を通して間接的に気づきや教訓

(寓意)を与える構成になっているのが特徴です。 

主な特徴

擬人化と比喩: 動物や植物、時には無生物が人間のように話し、

行動することが多いです。

短いストーリー: 複雑な設定は少なく、簡潔で分かりやすい展開が

基本です。

明確な教訓: 物語の最後や背景に、「人生の教訓」や「いましめ」

が込められています。 

代表的な作品

寓話には古くから世界中で親しまれている名作が多く存在します。

  • イソップ寓話(アイソーポス): 古代ギリシャ発祥の最も有名な寓話集です。
    • 例:『ウサギとカメ』(油断大敵)や『北風と太陽』(強要よりも説得)など。 
  • ラ・フォンテーヌ寓話: イソップ寓話をベースにフランスの詩人ラ・フォンテーヌがまとめた詩集です。
  • 中国の古典(故事成語): 「矛盾」や「虎の威を借る狐」など、教訓を含んだ短いエピソードは日本の故事成語にも多数引き継がれています。 

童話や小説との違いは何でしょうか?童話との違い: 童話が純粋に

子ども向けの空想やファンタジーを楽しむものであるのに対し、寓話は明確な「教訓」や「風刺」を伝えることを主な目的としています。

 

中近東にも多くの「寓話」が存在していました。

そして、この寓話は、誰もが知るものだったのです。

聖書に記されている、イエシュアが使われた「たとえ話」は、

同じように、登場人物、植物、天体、動物、数字など〜2、3、5や7、40〜で表す意味が何か、皆が知っているストーリーを使い、

トラー=父の教え=神の言葉=モーセの五書に記された神の教えを、分かりやすく解説しているのです。

 

それは、ただのエンターテイメントではなく、その目的は、

神の言葉、トラーが教えている中核、知恵を理解させ、結末は

神の意図通りになるような、人生、日々の生き方の選択、

答えに辿りつくためのものなのです。

これは、1世紀当時のパリサイ派の教育ツールでした。パウロが書いた手紙での質疑応答も同じく、パリサイ派の教育ツールです。

 

イエシュアが「たとえ話」を使って話された時、その聴衆は

一般のユダヤ人に対してでした。

一般の人に、パウロや学者が、トラーを深く熟知し、学び、理解している人に対するようなこ話し方はできません。

乳を飲んでいる状態の人に、硬い食物は食べられないからです。

身近にいた弟子たちに、イエシュアがこう言われたでしょう。

 

ルカ8:10 そこで言われた、「あなたがたには、神の国の奥義を知る

ことが許されているが、ほかの人たちには、見ても見えず、

聞いても悟られないために、譬で話すのである。

 

それは、彼らは、イエシュアと一緒にいた弟子たち、父の教え=

トラーを直接天からの意図そのままを聞いて、実際にそれを目の前で生きる歩く生けるトラーであるイエシュアと共に過ごした人たちです。

バプテスマのヨハネや、神からメシアが地上にお生まれになる迄

生きると言われたシメオンも、トラー、預言書を理解していました。

その他、異邦人千人隊長、イエシュアに「お言葉だけ頂ければそれで良いです。」と言われたのは、言葉=神の実態そのものであり、

それが執行されることを、深く理解していた人も同時にいたのです。

 

イザヤ6:9-10「あなたたちは聞くには聞くが、決して理解せず、

見るには見るが、決して認めない。この民の心は鈍り、耳は遠く

なり、目は閉じてしまった。こうして、彼らは目で見ることなく、

耳で聞くことなく、心=頭脳で理解せず、悔い改めない。

わたしは彼らをいやさない。」 

 

ルカ8:17 隠されているもので、あらわにならないものはなく、

秘密にされているもので、ついには知られ、明るみに出されない

ものはない。

 8:18 だから、どう聞くかに注意するがよい。持っている人は更に

与えられ、持っていない人は、持っていると思っているものまでも、取り上げられるであろう」。

どう聞くか、注意する。これは、神の教えを曲げた偽の教えを

聞いている耳にも、直にイエシュアが語られる永遠の真理です。>

 

8:21 するとイエスは人々にむかって言われた、「神の御言を聞いて

行う者こそ、わたしの母、わたしの兄弟なのである」。

 

注意して読んでください。それは、世間一般に2000年近くに

わたるキリスト教の宗教のポップカルチャー、宗教的な思い込み、

神学的な偏見、そして再構築された概念の偽情報を明らかに暴き、

それら当然の如く真理、神の教えだと受け取られる偽り、嘘、

偽情報の全てを切り開いて、1世紀の聴衆が実際に耳にしていた

通りの意味、内容、事実に迫らないとならないのです。

 

イエシュアが、教えられて生きたのは、100%父の教え=モーセの五書=トラーであり、父の教えを、破棄、無視、無効にするよう教えるために来たのではない!

神が語る事実とは真逆で、父の教えを正しく理解させ、神の言葉を

神の意図通りに人が生きるため!とマタイ5:17-19に書いてある内容を、完全に誤解、逸脱した解説が、一般にまかり通ってしまっているのです。

しかも、イエシュアが直接言われたでしょう。神の教え=トラーの

1つでもないがしろに人に教えるようなことをする人は、天の中で

一番無意味、無価値、羽より軽くなり、神から遠く離れた場所に

追いやられる存在になってしまうという警告。

それを、ずっとしているのに、気がついていないのです。

 

聖書、信仰の土台の中に、ローマ帝国の勅令、その元は、皇帝崇拝

異教の神々崇拝が入り込み、神のトラーを生きるな!と重税と処刑で

神の教えを生きることを禁じた人々が作った、神の教えの土台を

廃れた!無効!という思想を元に作った宗教だ!ということに

気がつけば良いのです。だから、クリスチャンもカトリックも

神の教えは廃れた、ユダヤ人だけやれば良い、今はいつでも安息日

どの日でも自由に人が選んで記念日として良い。

祈ればなんでもきよくなるという、神が言ってもないことを、真実だ

今の時代の新しい教えなのだ!と主張している、それが西洋宗教の

思想の土台です。

 

聖書信仰というならば、100%神の言葉を、永遠普遍の真実であると受け止めない、受け入れらない場合には、聖書を神の完全なる言葉ですという宣言は全く無意味なのです。

部分的信仰、部分的つまみ食い信仰。人間が神の言葉を、勝手に捨て

仕分け、価値判定している冒涜。その元は、自分教、自分の考えで

神の教えを勝手に判定している、それこそが、罪の元凶、大元

エデンの園の事件、神の言葉を否定する嘘に誘われたことと同じ。

 

聖書解説の中には、無数に聖書ではない解説が入り込み、侵入、

偽の教えに侵略され、その結果、聖書を神の言葉で解釈せず、

聖書を、人間の編み出した思想で解説しているので、聖書に対する

正しい理解がない、神の言葉を歪めてしまっているのです。

 

翻訳聖書で、「律法」と聞いても、それは、永遠に変わらない1つ

しかない神の教え=婚姻契約=トラー=父の教え=イエシュア=聖霊そのものという理解が、クリスチャンの中にはないと思います。

その代わり、律法という誤訳を聞いたら、即座に、「古い、悪い、

一時的なもの、廃れるべきもの、人を縛るもの、キリストが来て

そのような悪い古いものから解放されたのに、その恵みを捨てて、

古い教えに戻る=律法主義だ!!!」などと、勝手な空想を展開

させ続けているのです。

 

闇の世界は、神のことばを曲げる、捨てることから始まったことを

忘れないで下さい。今も同じです。

その闇とは、嘘、偽りから来るものなのです。

嘘の教え、神の言葉を曲げることから来る!

 

イエシュアがトラーを破棄したと平気で主張していますが、

それは神の言葉=神ご自身=聖霊=イエシュアは、悪いので、

それを捨てさせるために来られたメシアと言っているのです。

 

多くのクリスチャンは、聖書の最初、特にモーセの五書、預言書、

諸書を読まないのが普通です。

読んでも、素通りで読み、その中身が永遠に深く広く神と直結している真理が語られているとは、思いもしません。

なぜなら、それらは、古い、悪い、廃れるべき律法という嘘を刷り込まれて来たからです。

多くのユダヤ人が、マタイ以降を読まないのは、クリスチャンの中にある偏見、誤解、古く廃れた悪い教え!という偏見と全く同じなのです。

それは、今迄の歴史の迫害と、カトリック、クリスチャンが主張し

実践する教え、記念日が、聖書ではないから、それらは聖書ではない

と認識するのは、当然のことであり、事実です。

それは、人間が作った教えを混ぜた宗教というものであり、

純粋な神の教え=トラー=婚姻契約、聖書に記されたものとは

異なる教え、実践だからです。

そして、人間が神の言葉を廃れた、無用、又は別物に変え続けて

いるのを見たら、それは、偽物の教祖=イエシュアというトラー、

預言書、諸書のメシアではないと考えるのは、当然です。

書いてあるのは、1人のメシアしかいませんが、そのメシアを解説する解説の方が、間違っているからです。

 

メシアは、キリスト教が語るように、神ご自身である神の言葉を

人に捨てよとか、終了、無効、関係ないなどと教えるお方ではない。

そんなことは、聖書のどの箇所にも書かれてもいないのに、書いてあるという、これ幻想そのものなのです。

自己否定する神?神話の世界の神々と同じ、作り物の神です。

 

マタイ以降には、神の言葉を平気で曲げる冒涜をしながら、自分を

タナックに記されたメシアと宣言する人の教えが書いてある、

ユダヤ人を迫害するメシアが書いてある、偽物が書いてある箇所の

マタイ〜黙示録など、絶対に読んではならない!!と多くのユダヤ人が、子供に、人に、そう教えています。

それは、クリスチャンが、異端宗教に警戒するそれと、全く同じ思考回路、感覚です。

一方、クリスチャンは、神の教えは廃れたという嘘を教えられて

来て、イエシュアが教えたのは、クリスチャンが廃れたと教えられている律法、本当は父の教え=トラー=婚姻契約=モーセの五書であるのに、その事実が全く見えていないのです。

又は、面倒臭い、厳しい教えの部分をイエシュアが破棄したとか、

これ又、聖書に書いてない、大嘘、偽情報の闇を信じて、その中に

どっぷり思考回路が占拠されているのです。

神の古い教えを生きるのは、律法主義であり、悪いことだと考えているでしょう!

多くのクリスチャンは、イエシュアが教えた通りを生きて、

シャバット、祭りを祝うことをする異邦人を見たら、警戒します。

古い教えに戻るのは、悪いこと、恵を捨てること、律法主義だ!と。

しかし、一般にクリスチャンの間で、教えられている聖書解説や

実践は、イエシュアが教えたことではないという事実に全く

気がついていないだけなのです。

 

今は何生きても自由だと神が言われたなら、なんでもOKですが、

事実は違うのです。

神は、天の中で見せた神の家を、そっくりそのままモーセが地上で

作るように教えた通りです。

神が見せて、教えたそっくり、そのままではなく、ローマという人間の思想を通して歪められた神の教えは、生きてはならないものです。

なぜなら、それは、イエシュアを正確に人に伝えない、妨害、

障害物、つまづきの岩、神の教えの真実に気がつかないように、

意識を反らせ続けている、まがいもの、偽物の教え、イエシュアを

歪めた偽物の影だからです。偽物から、本物は現れ出ません。

これが、姦淫の罪、世の中の闇で表される神の言葉を曲げる、

変える、違うものに変えた、4つの獣なのです。