聖書に対する勝手な読み違えがたくさんある | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

ノアの洪水の後、水で全てが一掃されて、新しい大地で、

創造の最初と同じことを神が言われました。

 

創世記9:1 神はノアとその子らとを祝福して彼らに言われた、

「生めよ、ふえよ、地に満ちよ。

 

新しくされた後、人々が増え、彼らは結局悪い策略で1つに結託するようになってしまいました。

神の名〜実態ではなく、自分たちの名を高く掲げ、神に到達しよう。

1つの言語で、1つの民として、神が関わった人々は、洪水の後

出て来た人ですが、神の考えとはズレたことをやり始めたのです。

 

神ではなく、自分、人間が中心。これが、問題の根です。

神の言われることではなく、代わりに自分たちの考えをやる!!!

 

創世記 11:4 彼らはまた言った、「さあ、町と塔とを建てて、

その頂を天に届かせよう。そしてわれわれは名を上げて、

全地のおもてに散るのを免れよう」。

11:5 時に主は下って、人の子たちの建てる町と塔とを見て、

11:6 言われた、「民は一つで、みな同じ言葉である。彼らはすでに

この事をしはじめた。彼らがしようとする事は、もはや何事も

とどめ得ないであろう。

11:7 さあ、われわれは下って行って、そこで彼らの言葉を乱し、

互に言葉が通じないようにしよう」。

 11:8 こうして主が彼らをそこから全地のおもてに散らされたので、

彼らは町を建てるのをやめた。

 

言語が無数に分かれ、世界の民族が出来て、世界の四隅に散って

行ったのです。

全ての人が、神に聞かない態度で生きる中、神は、神が創造された

神の性質通りを教え、生きる人を、選び出す必要があったのです。

 

神の言われることに応答し、神に教えを聞いて生きることを選ぶ人を

選択する必要があるのです。

皆が、バベルの塔に賛同した人のようだったら、誰も神の言われる

事をその通りに聞いてやることをしないなら、又中途半端です。

半分神の教え、半分人間の考え=人の教えをする人ではなく、

100%完全に神と一致して、神の言われることを執行する人を

神は選ばないとならなかったのです。

 

人の世界でも同じです。自分の意思を、誰かに託す時、託された人は

依頼者の意図通りをする、そのような人を選ぶのは当然でしょう。

伝えたことではないこと、勝手なことに変えてやる人を選びません。

そのようなことをする、その人は退けられて、仕事を全うすることはできないからです。

自分の考えを勝手に言って、勝手にやってるだけ。

そんなのは、世界に五万とあります。それが人間が編み出した宗教

人の思想で作った教え、教理etc etc etc

 

神が一人の人を通して、1つの民族を選び出したその目的は、

神から離れた考えをして生きている人、世界の民族、異邦人にも、

イスラエルの神、その神が伝える生き方を伝える、教える、同じ祝福を得させるために、一人の人を選び出す必要があったのです。

 

もし、世界にイスラエルという神が聖別された国がなく、そして、

イスラエルという神が聖別された民、神のトラーを生きる人がいなければ、世界は、イエシュア=イスラエルの神の性質通りを生きる人がいなくなります。

すべての人が、一緒くた、異教の神々と、その文化、生き方、

生活スタイルに交わり、境界線のない生き方しかなくなります。

なんでもありという思想は、それそのもの。境界線、聖別のない

生き方を平気で、神の教えを理解しないまま、主張しているのです。

全部が混ざり物、境界線がない、異教徒と何も変わらない、

神の性質通りを生きる人がいなくなるのです。

残念ながら、ローマ教は、神の教えを壊し、破り、西洋に変身した

別物を勝手に作って、それを人おに生きるように教えてしまったのです。どう見てもヘブライではない。イエシュアが教えた生き方では

ない。聖書ではない思想、教え、記念日は人間が作って変えてしまったからです。

嘘でも、長年浸透すれば、それが本物と受け取られてしまうのです。

 

それでは、イエシュア〜イスラエルの神の性質通りの生き方では

ないのです。

神が、ある人を選び出し、ある民族、国民としたのは、神の国の代表

モデル、社会、生き方を、世界へ伝えるためなのです。

これは、神の言葉から、何度も伝えられている事実です。

それは、民族、言語がなくなるのではないのです。

それぞれの民族、文化が存在しても、神の民とされた人の生き方は同じ、神の教え=トラーを生きることに戻るのです。

 

申命記4:6 あなたがたは、これを守って行わなければならない。

これは、もろもろの民にあなたがたの知恵、また知識を示す事である。彼らは、このもろもろの定めを聞いて、『この大いなる国民は、まことに知恵あり、知識ある民である』と言うであろう。

4:7 われわれの神、主は、われわれが呼び求める時、つねにわれわれに近くおられる。いずれの大いなる国民に、このように近くおる神があるであろうか。

 4:8 また、いずれの大いなる国民に、きょう、わたしがあなたがたの前に立てるこのすべてのトラーのような正しい定めと、おきてとが

あるであろうか。

4:9 ただあなたはみずから慎み、またあなた自身をよく守りなさい。そして目に見たことを忘れず、生きながらえている間、それらの事をあなたの心から離してはならない。またそれらのことを、

あなたの子孫に知らせなければならない。

 4:10 あなたがホレブにおいて、あなたの神、主の前に立った日に、主はわたしに言われた、『民をわたしのもとに集めよ。わたしは彼らにわたしの言葉を聞かせ、地上に生きながらえる間、彼らにわたしを恐れることを学ばせ、またその子供を教えることのできるようにさせよう』。

神の目的はクリアーに、随所随所にずっと同じ事が記されているのです。イスラエルが特別だから、特に優秀だから、そんなことではない。神の任務を託す人を、選ばないとならないのです。

だから、世界はイスラエルが憎いのです。神に選ばれた民、

許さない!!位の感覚で、サタンの餌食になっているのです。

なぜなら、イスラエルが存続している理由は、イスラエルの神が

本物であることを証明してしまうからです。

イスラエル建国から、今迄、神が奇跡をもたらし。すべての戦争に

勝利させた記録の動画があるので、載せます。下矢印

 

 

着物を着ていても、チマチョゴリを着ていても、アロハシャツを着ていても、神の大家族はシャバットを祝い、神の祭りを祝い、

神が与えた人の食べ物を食べる。

聖別を汚す生き方をせず、神のトラーをガードし生きる。

食材は、神の与えたきよいものの中だけで、色々な国の料理は作れます。皆が、神の教えを理解し、契約に根付いた生き方をする。

意味が通じるでしょうか?自分の国籍や、顔立ちなどが否定されるのではない、血筋を否定されるのではない。

 

でも、イエシュアを通して、イスラエルの神の元に戻ったら

血筋がユダヤ人ではなくても、神の教え=イエシュアが教えた通りの

父の教え=トラーを生きる。こんな簡単なことなのに、人間が様々に複雑な教え、解説をして、神の言葉を否定しているのです。

そして、神の教える生き方から遠ざかるように人に教えているのです。

あたかも、悪いもの、古いもの、廃れたものという偽情報を拡散しているのが、それです。

イエシュアが教えた教えが、トラーであることが、理解できないのは、偽物の聖書解説をされて、イエシュアが十字架で神の古い律法を破棄したとか、パウロがモーセの五書を否定し、割礼禁じ、

シャバットを日曜日に変更し、それ以降人が自由に選んだ日が、

記念日などという、とんでもない間違った聖書解説、偽情報を流し

続けているからです。

そして、きよくない動物も、祈ればきよくなる?などという教え。

祈ったら、動物の性質、構造が変わるのですか?おかしな思想。

 

神が、色々な教えを与えている理由はたくさんあります。

第一は、神の言われることを人が、信じて受け取り生きるかの日々の

訓練でもあるのです。

それを、まっこうから遮るのが、律法は廃れたという偽の教えです。

神の言葉、教えを無視せよ!というローマの勅令を復唱している。

人は、ある事柄〜それが真実ではないのに、本当であると信じる場合他に何を聞いても、真実なのに受け取りません。

律法は廃れた?誰の教えですか?聖書ではありません。

しかも、神の教えは1つしかないということに、気がついていないのです。神の教えが廃れた!それならば、神との契約が吹き飛ぶと

言っていること、神との関係の根拠が消えるとめちゃくちゃな思想を

語っていることに、気が付かない人が語る教えなのです。

 

そして、神の教えは、クリスチャンの世界で語るように、分解して

勝手に人が付け足し、差し引きできる性質ものではないということ

さえ、理解していないのです。

イエシュアの体を、バラバラに分解しているのと同じことをしているのに、全く気が付かないのです。

同じ大家族は、同じ家族、家の家訓を生きる、そんな当然、

当たり前、理解しやすいことが、通じないのです。

それは、イスラエルの神が伝える生き方は、異教徒には異物なものだからです。馴染みがないからです。先祖代々異教徒の国で異教の神々の文化の中に育ち、トラーを知らない、神の教えに根付く生き方が

何か知らない、生きていないからです。

イスラエルの神の教え、神の家に住まう人の生き方は独特だから

です。異教の神々の教えの中にはない生き方だからです。

 

一人の人、1つの民族を選び出した理由は、世界の他のすべての民族も、神の教えに根付き、契約に根付き生きることを教えるためです。

それ以外の生き方は、神の性質通りに造られた人の生き方ではない

からです。

モデル、代表、天の神の国、大祭司、イエシュアを表す、

地上の大祭司は、目に見えない天の神の家を地上で教えるために

選び出された人たちなのです。それが、レビ族です。

牧師がレビ族と同じと考えている人がいましたが、それは、聖書ではありません。

地上の神殿に仕える人は、レビ族の男性であり、大祭司は、レビ族であり、同時にアロンの家系の男子のみです。

天の大祭司、メルキゼデクの位に属するイエシュアを地上で表す

代表として選ばれた人であり、誰もが任命されているのではないのです。

その人は、地上の神の家で、神の民の生き方、トラーに記された教え

イエシュアの贖いの業、修復の業、新しくされた人の事実、

そして、モアデイム シャバット、祭りを通して、イエシュアの業を

網羅する教えを教えていたのです。

だから、1世紀の人は、メシアが来られるのを待望していたでしょう。それが、正しく認識した人、しない人がいただけです。

イエシュアは最初から教えられていたからです。

それが記されているのが、モーセの五書であり、預言書、諸書なのです。

イエシュアが地上に来られて、初めてメシア、イエシュアの完了の業が教えられたのではないのです。

エデンの園の最初から、教えられているのです。それを、理解する人、理解しない人がいる、その違いだけなのです。

デイスペンセーション神学ような人間の思想、教理に傾倒する人は、

聖書ではなく、人間の思想で、聖書を曲げて考えます。

神は永遠の中に存在しているのです。イエシュアが地上に来られる前と後では、人の生き方は何も変わりません。

聖霊〜神が内側に住んで、神の教え、トラーを神の意図通りに生きるのか、それとも、神の教えを、神の意図通りに生きないのか。

それぞれに違うだけです。

すべての人が同じ状態ではないのです。どの時代も同じ。

それが、理解できていないのです。

神の教え自体が、人を変えるのではないのです。人の中身を変えるのは、神の実態、イエシュアの業で人が変えられ、新しくされた人が、神の性質通りの生き方=神の教えを生きる!

こんな簡単な事なのに、話を複雑にするのが、宗教です。

 

どの時代でも、イエシュアを通して神の元に戻った人は、聖霊が

内側に住み、神の教えを理解して生きていたのです。

ミシュカンを通して、イエシュアを詳しく教えられたのです。

それは五感を通して実体験で、コルバンを通して、イエシュアがされた業を知る、祭りを通して、イエシュアの過越、子羊の血の購いの

意味、新しくされた人の意味、種無しパン、そして初穂。

シャヴオートでは、神の民にされた人が、婚姻契約を与えられた祭りで、それを知る。

そして、秋には、再臨を表す一連の祭りがあるのです。

ヨムキプルなど、神殿が存在し実際に一連の出来事をやったら、

どれ程、深く体験的に理解できるのだろうと思います。

仮庵の祭りも同じ。どの祭りも同じ、すべてがイエシュアの業

預言的祭りだからです。

突然2000年前に、イエシュアが教えられたという考えを捨てて

下さい。それは聖書の事実ではないからです。

キリスト教は、キリストだけ強調し、神の教えに根付いて生きることを端折っています。それは、聖書の最初の部分の75%を知らないからです。

教える人には、必ず責任が伴います。教師が、聖書と違う教えをするから、偽教師と書いてあるのです。

普通の一般人は、人に聖書を教えないからです。

だから、教師は人より重い裁きがあると警告されているのです。

誰に学んだか、それが大きいのです。神の言葉を否定し、しかも

原典聖書を学ばない、知らない人、デイスペンセーション神学を信奉する人に教えられたら、その人間の教えを伝授されてしまうのです。

ましてや、イエシュアを信じる人が、神の教えの1つでも否定する

ような教をするならば、そんなことを教えるのならば、それは

偽物の教え!と気が付かないならそれは、聖書とは異なる教えです。