シャヴオートに読むルツ記 ベツレヘムから出てベツレヘムに戻る | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

過越の祭りから始まり、穂を数える7週間は、祝福、奴隷から解放されて、神に娶られ、神の者となり、新しい人として生きる、新しい

現実を味わい、感謝し生きる7週間です。

 

シャヴオートをペンテコステと呼ぶのは、ギリシャ語に変えられた

からです。そして、キリスト教では、この日は聖霊が初めて人の中に

下った日として、聖霊初降臨祭などと呼んでいますが、その事実も

その祭りの名も聖書とは異なります。

 

神が特別な現象を起こし、神ご自身が現れ出ることは、聖書にも

使徒2章以前に何度も書かれています。

 

イエシュアが来られた前後で、贖い、救い、赦し、聖霊が住まうことが特別に選ばれた人以外に初めて始まったという、宗教教理の教え

ではなく、聖書の通りに理解する必要があります。

 

それは、真実ではないことを土台に考えても、意味がない、

真実には、永遠に辿り着かない、空論になるからです。

 

シャヴオートは、神の言葉は、エルサレム、シオンから出ると

神が言われる通り、ローマから出ているのではありません。

その神の言葉を世界の四隅に運ぶ代表、役割を与えられたユダヤ人。聖書を記した預言者達はユダヤ人であり、神の契約、教えに

根付いて生きることを世界へ伝える代表として、選ばれたのが

ユダヤ人です。

 

その人達が、神の教えからズレたら、世界へ偽物が伝わってまいます。だから、それをしてはならない!厳重警告、厳しい訓練があったのです。

 

そして、異邦人も同様に、イスラエルの神の家に加えられた人は

漏れなく、神の家の同じ家訓を生きる!こんな簡単なことが、聖書に書いてあるのを、目の前に見ても理解できないまま、別物を考えて

実践しているのは、全て、ローマから出た宗教の教えで変えられて

しまった神の教え、イエシュアが教えられた父の教えを退けて良い

異邦人には関係ないと、教えられ続けて来たからです。

 

シャヴオートでは、ルツ記を読む伝統があります。

これは、贖われ、娶られた事実が、ルツ記を通して、

記されているからです。

注意を払って読むと、神の計画は、人の考えを遥かに超えていることは、イスラエルが通った歴史、事実を取り出して教えていることが

分かります。

 

ルツ1:1 さばきづかさが世を治めているころ、国に飢きんがあったので、ひとりの人がその妻とふたりの男の子を連れてユダのベツレヘムを去り、モアブの地へ行ってそこに滞在した。

 

ベツレヘム。これは、メシアが生まれた町であり、エルサレムの近郊

神殿で捧げる羊が飼育されていた場所です。

神殿に携わるレビ族の祭司達が、コルバンの羊を管理していた場所です。

この町の名は、ヘブライ語では「ベイトレヘン」〜ベイト〜家、

レヘン=パン。

パンの家」と呼ばれる町ですが、このレヘンという言葉は、「胎」を表す言葉、ルートワード、語根と同じ文字を共通する言葉です。

同時に、レヘンは、憐れみという意味があります。

この言葉から、命の源〜神ご自身である、イエシュアが、このルツから生まれてくることの意味を教えています。

神ご自身が命の源です。憐れみ、胎、命を育む場所=神の中に住まう

人たちは、命の源である神ご自身に贖われ、買い戻され、娶られ、

神のものとなり、元の場所に戻ることを、ずっと最初から教えているのです。

異教徒、異邦人であるルツは、神の計画など、気がついてはいなかったでしょう。

たまたま婚姻した夫が、ユダヤ人であったのです。

神の計画は、永遠の中に完結しています。

そして、ベツレヘムからから出て、飢饉のためにモアブに移ったのは、よくないことだったのでしょう。

 

ルツ1:2 その人の名はエリメレク、妻の名はナオミ、ふたりの男の子の名はマロンとキリオンといい、ユダのベツレヘムのエフラタびと

であった。彼らはモアブの地へ行って、そこにおったが、

1:3 ナオミの夫エリメレクは死んで、ナオミとふたりの男の子が

残された。

 

ナオミの夫の名は、エリメレク〜エリ=神、メレク=王

「神が王」であるという名。ナオミは、喜び、甘い、優しい、

などという意味がある名です。

そして、ナオミの夫が亡くなり、息子二人が残されました。

ユダヤ人の息子が、モアブ人の嫁を娶ったのです。

マロンという名は、深く悲しむ、虚弱、病弱、懇願するという意味の名前です。聖書には、その人の実態通りの名がつけられています。

名は体を表すです。これは、神からのメッセージであることは、

明らかです。その人の名の通り、その人生を歩む。

途中で、名前が変わるのも、意味があるのです。

キリオンは、破壊、滅亡、尽きる、終わるです。

 

このルツは、モアブ人です。モアブ人とは、聖書ではどんな人と

書かれていますか?

モアブ人は、ロトの子孫です。モアブ〜父からという名は、

ロトの娘達が、父から子を得たことから、由来する名です。

 

聖書には、そのまま色々な事実が、書かれています。

ある牧師さんが、「聖書には、〜〜と書いてあるから」と言われて

いましたが、聖書に書いてある、イコール、神が許可した生き方を

した人のことだけが、書かれているのではないことを理解する必要があります。

 

モアブ人の王バラクは、バラムを雇って、呪いの力でユダヤ人を

全滅、殲滅しようとし、非人道的な性質を露わにしました。

民数記を読むと、これが詳しく書かれています。

結局、偽預言者バラムは、イスラエルの神に、彼らの未来を預言され

彼らイスラエルが祝福されるようになる事実の前に、バラク王に

課せられた、イスラエルを呪い、殲滅することができなくなるのです。

この名前、オバマと同じ、バラクです。偽預言者バラムを雇ったのです。

モーセの五書に記されていることは、神の言葉の編全編完全版です。

クリスチャンが読んでいる、マタイ〜黙示録は、この本編、神の教え

神の家の家訓、「ブリット」の本当に短い抜粋、引用を読んでいるだけで、福音書以降には、神の教えの全ては書かれていません。

それだけでは、神の教えの全体像が見えないし、オリジナルの言葉で記された中身を知らないなら、何が書いてあるのか、自分の言語、

文化の中の思想、人の教理で、聖書ではない別の教えが作られてしまっているのです。

 

ロバの口から、神が神の言葉を語らせ、ここでは、偽預言者にイスラエルの神が直接語り、そのイスラエルの神の言葉、イスラエルに対する未来預言を、モアブ人の偽預言が、モアブの王、バラクに語っているのです。

 

民数記24:1 バラムはイスラエルを祝福することが主の心にかなうのを見たので、今度はいつものように行って魔術を求めることをせず、

顔を荒野にむけ、

24:2 目を上げて、イスラエルがそれぞれ部族にしたがって宿営して

いるのを見た。その時、神の霊が臨んだので、

24:3 彼はこの託宣を述べた。「ベオルの子バラムの言葉、

目を閉じた人の言葉、

24:4 神の言葉を聞く者、全能者の幻を見る者、倒れ伏して、

目の開かれた者の言葉。

 

以下は、イスラエルに対する、イスラエルの神が神の口から語った

未来預言であり、偽預言者の口から、事実、真理を語らせたのです。神は、どんな方法でも、どんな人でも用いて、神の計画を進められることは、このようなことからも、分かります。

 

24:5 ヤコブよ、あなたの天幕は麗しい、イスラエルよ、あなたの

すまいは、麗しい。

24:6 それは遠くひろがる谷々のよう、川べの園のよう、

主が植えられた沈香樹のよう、流れのほとりの香柏のようだ。

24:7 水は彼らのかめからあふれ、彼らの種は水の潤いに育つであろう。彼らの王はアガグよりも高くなり、彼らの国はあがめられるであろう。

24:8 神は彼らをエジプトから導き出された、彼らは野牛の角のようだ。彼らは敵なる国々の民を滅ぼし、その骨を砕き、矢をもって突き通すであろう。

24:9 彼らは雄じしのように身をかがめ、雌じしのように伏している。だれが彼らを起しえよう。あなたを祝福する者は祝福され、あなたをのろう者はのろわれるであろう」。

24:10 そこでバラクはバラムにむかって怒りを発し、手を打ち鳴らした。そしてバラクはバラムに言った、「敵をのろうために招いたのに、あなたはかえって三度までも彼らを祝福した。

 

そして、モアブ人の血筋のルツが、ナオミと亡き夫、エリメレクとの

間に残された息子と婚姻していたのです。

ここで、注目するのは、彼ら二人の息子の嫁が婚姻後10年、

子供がいなかったことです。

オルパは、姑ルツから離れて、自分の故郷に帰る選択をしました。

当時の女性は、夫が亡くなったら、生活の糧を得る術がないのです。

まして、子供がいなければ、次世代に名を繋ぐ子孫がいないので、

その家系は絶えてしまうのです。

 

ルツ 1:6 その時、ナオミはモアブの地で、主がその民を顧みて、

すでに食物をお与えになっていることを聞いたので、その嫁と共に

立って、モアブの地からふるさとへ帰ろうとした。

 

パカッド〜顧みるとある言葉ですが、とても重要な言葉です。

神が、神の計画通りことを運び、それぞれの1つ1つの出来事、

歩みに注意を払われているからです。

この言葉が、最初に使われたのは、創世記の21章にある、サラに神が顧みたと書かれている言葉です。

 

創世記 21:1 主は、さきに言われたようにサラを顧み、告げられたようにサラに行われた。

 

モアブの地で、約束の地のことを聞き、戻る決意をナオミがします。

パンの家、パン、命の源〜命を生み出す女性であり、ナオミの子孫から、メシアが生まれてくる計画を、神は永遠の中から用意しておられたのです。

飢饉を逃れて、モアブに行ったけれど、そこはナオミ達の家族が

住む本当の場所ではないのです。

モアブで、夫と、息子二人を失くした。

ナオミは、イスラエルの国に帰れば、生き延びられるからです。

そして、その裏には、メシアが生まれる子孫を生み出すことになるのです。

ナオミは、二人の嫁に、一緒に付いて来ないように伝えます。

自分の故郷、国に帰り、夫を見つけて、新しい人生を歩みなさいと伝えます。しかし、ルツは、ナオミの元を離れようとはしませんでした。

 

ルツ1:14 彼らはまた声をあげて泣いた。そしてオルパはそのしゅうとめに口づけしたが、ルツはしゅうとめを離れなかった。

 

「離れなかった」という言葉が、最初に使われたのは、

創世記2:24にある言葉であり、ヘブライ語では同じ言葉です。

ダバックという言葉です。

 

創世記2:24 それで人はその父と母を離れて、妻と結び合い、

一体となるのである。
 
しっかり、接着剤のごとく、密着して離れない状態。
ナオミの行くところ、ルツは付いて行き、同じ運命共同体になるという決意があったのです。
ダバックという言葉で、あなたの民、あなたに起きることは私にも
同じであり、一緒に運命を共にするという決意を表しています。
それには、行動が伴うのです。
 
そして、元いた場所、約束の地に向かうということは、シュヴァ
悔い改めと訳される言葉ですが、自分の植るいるべき地に戻る
数週間かけて、その地に戻りながら、今迄の歩みを振り返り、神の
言葉、シュヴァ、悔い改めの旅路でもあったのです。
 
ルツは、ナオミに付いて行くという行為は、イスラエルの神にサレンダー、全てを開け渡して、委ねて生きることを、選んだのです。
 
古代、女性二人で、モアブからベツレヘムに向かう旅路は危険でした。殺されるか、強盗に襲われる可能性もあったからです。
しかし、その道を共に進んで、ベツレヘムに行ったのです。
神が共におられて、目的地、約束の地に降って行く道すがらを守られたからです。そして、大麦の収穫の時に到着したとあります。
神のプラン通りに沿って向かうならば、神が守り、神が備えて、
目的地に到達させるのです。
大麦刈りとは、過越からのこの時期と同じです。
 
親族一族の中で、この寡婦となったルツを娶る権利があったのが
ボアズです。
この時、ルツに子供があったら、これは困難なことだったのですが、
子供がなかったので、親族の中で、権利がある人が次から次へ辞退し、最後ボアズのところに回って来たことが書いてあります。
ルツ記は、メシアが生まれる血筋、神の計画が人の図らないところで
永遠の中からプランされたことが、1つ1つ見えてくるものです。
 
続く