エモル אֱמֹר 主は語られる | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

2026年は、4月1日から7日間の過越の祭りが終わり、次の春の最後の祭シャヴオートまでの、「穂を数える」7週間の中にいます。

神のモアデイムは、第7日目のシャバット以外は、全部月の暦が基準です。ヘブライ聖書の暦、陰暦です。

月の1日、新月、第一の月の15日は、過越。種無しパン。

其の7日の真ん中の日が、「初穂」の祝い日。

第七の月は、1日角笛を吹く日10日、大贖罪日、15日、

仮庵の7日間、プラス第8日目の祝い日、祭りは、曜日に関わらずシャバットで止まるという、神の創造された記念日です。

そして、毎年、祭りの日は、変わるのです。

西洋宗教は、クリスマス12月25日以外、全部日曜日で固定されています。

聖書、神の教えとは違うから、ローマ帝国の記念日の日曜日と決めているのです。

聖書には、日曜礼拝も、クリスマスも、イースターも、神の教え

記念日として、書いてなどありません。書いてないことを、あるように皆が教えて、そう思っている!

それこそが、聖書ではないことの中、神の声の中にいないで

考え続けるズレを編み出し続けている、本当の原因なのです。

問題は、人間が作った教えや記念日に、皆が伝統で守り続け、

固執し、ガードし、その代償として、神の教えと、神の記念日を捨て、神の聖別を汚すことをしていることにさえ、気がつけないことです。

クリスチャンの間で浸透している大きな誤解、間違った聖書解説

ローマ14、コロサイ2、1コリント16や使徒20で、日曜礼拝に変わったとか、神は昇天以降の今はいつでも自分の考える日を

シャバットや祭りとして良いなど、聖書に書いてもない架空の事柄を、あたかも書いてあるがごとく解説しているのです。

この大きな誤り、神は、いつでもなんでも良いなら、気持ちさえあればOKなどと言う神なら、それは聖書に記されたイスラエルの神、

イエシュアとは違う、ローマが伝える偽物の神の教えであることを

聖書からはっきり知る必要があります。

そんないい加減な神など、聖書には記されていません。

何でも良いなら、最初からそう神は言うでしょう。

其の逆が書いてある!神のモアデイムを汚すなかれ!聖別を汚すなかれ!それを違反しているのが、西洋宗教なのです。

それらは所詮、元が人間が作った人間の宗教の教えであり、

聖書ではないからです。

聖書に根拠がない教えは、聖書に書いてない思想や実践、記念日をどんどん編み出してきたのです。

今年2026年のシャブオートの祭りは、5月21日木曜日日没から、次の日22日の日没迄です。22日日没は金曜日で、シャバットが

開始するので、連続2日間、シャバットとして祝うのです。

聖書では、この日は祭=ハギムなので、曜日に関わらずシャバットとして止まり、祝う日です。

過越、シャヴオート、仮庵は、3つの都上りの祭り、神が創造された

祭りです。

過越は、7日間。この祭りは、過越、そして種無しパンの祭りとも

呼ばれます。それは、この7日間はパン種が入るものを食べないと

いう祭りだからです。イエシュアの業により、新しくされた人のことを教える強化週だからです。

聖書を知らない人には、意味不明な実践ですよね。何それ?と。

神のモアデイム〜神が創造された記念日はイエシュアの業を

全て網羅する、福音の中心を語る、そして預言的祭りなのです。

 

復習ですが、全ての記念日の中心は"シャバット"です。

他の記念日、祭りは、無人島に行っても分かりますが、

古代は、シャバット〜週の第7日目だけは、神に教えられなければ分からないものなのです。荒野での生活の間、第7日目は、マナが降ることがやみそして、前の日の金曜日の昼間に2日分のマナが降ったことで、はっきりシャバットが、いつであるのかマークできたのです。

それを、ずっと継続し、ガードしたのがユダヤ人なのです。

異邦人ではない!契約を受け取る代表ではないからです。

神が創造された全てが完了。

その始まりは、永遠の中、神ご自身の中に最初「園」が設けられた

事が、ヘブライ語では記されていますが、翻訳では見えないだけです。

創世記2:8 永遠の中、神ご自身しか存在しない、目に見えない

霊的世界、神の中に、人が住まう園を設けられたと書いてあるのです。

その創世記に記された物理的創造以前、永遠の中に、既に神により

神に選び出され、聖別された人の事実を、パウロが解説しているのです。

マタイ以降に書かれた全ては、100%モーセの五書、そのモーセの

五書を解説する預言書、諸書の中のある箇所を引用して解説している

だけなのです。

イエシュアが地上に来られて、初めて救い、贖い、赦しが完成した!という地上の時系列上で、永遠の中に完結している事実に対して

考えることをやめてください。

聖書は、永遠の時の中に既に完結し、私達が神の中に存在するように

造られている事実からにのみ、語られているからです。

 

黙示録の最後に書いてある通り、8:13永遠の中に屠られた子羊の

命の書と書いてあるのです。日本語翻訳で、その点がはっきり記されていない不具合な訳になっています。

詰まり、永遠の中に、子羊イエシュアの贖いが完了し、完結している!神ご自身こそが、人が住まう場所=園である!それを神が造られた。永遠の中に既に選び出され、聖別された人達。

 

エペソ1:3 ほむべきかな、わたしたちの主イエス・キリストの父なる神。神はキリストにあって、天上で霊のもろもろの祝福をもって、

わたしたちを祝福し、

1:4 みまえにきよく傷のない者となるようにと、天地の造られる前から、キリストにあってわたしたちを選び、

1:5 わたしたちに、イエス・キリストによって神の子たる身分を授けるようにと、御旨のよしとするところに従い、愛のうちにあらかじめ定めて下さったのである。

2テモテ1:9 神はわたしたちを救い、聖なる招きをもって召して

下さったのであるが、それは、わたしたちのわざによるのではなく、神ご自身の計画に基き、また、永遠の昔にキリスト・イエスにあってわたしたちに賜わっていた恵み、

「永遠の昔」とは、πρὸ χρόνων αἰωνίων: before eternal times

「永遠の中、始まりの前、何もない前、神ご自身しか存在しない時、創世記の最初に記された事と同じ、ヘブライ語では、「ミケダム」

〜永遠の最初、何もない最初の前、詰まり、神しか存在しな時、

オラーム〜永遠の中の出来事を話しているのです。

そうすると、パウロが語っているのは、創世記に記さた永遠の時の中に、既に神の中に造られた園、その園=神ご自身の中に存在する人を

神が選び出し、聖別されていたことを、話しているのです。

 

その永遠の中に完結した事実の後に、この世の礎が物理的に造られて

全ての創造物が物理的に現れ出たのです。

神の創造された創造物を見れば、神の見えない品性を創造物を通して見ているので、神が分かるとパウロが言っているのは、見えない神=霊、見えない神の性質が、そっくりそのまま物理的な形として、

地上に現れ出たのがこの世界です。

神が創造された世界は、まばゆいばかりの美しさ、究極の美、歓喜

そして、神の性質通りに造られた人にぴったりな環境だったのです。

目に見えない神が、神の性質を形として表されたのが、神の性質

イエシュアの性質通りに造られた人であり、そしてその人が住まう園=エデン=喜び、歓喜=神ご自身の性質の中に住まうように造られたと書いてあるのです。

それを破壊したから、悲しみ、苦しみ、怒り、別離、戦いが、個人間で大きな単位では国同士が破壊しあっているのです。

 

イエシュアは永遠の中に存在しています。クリスチャンの世界では

神を分裂、分断させて別々と考えて教えています。

どこか1つだけ強調する教え方ですが、神ご自身が伝えているのは

1体、1つ以上で全く1つの存在、ぴったり1つでありそこには

分離の隙間もない!エハッドであると書いてあるのです。

聖霊だけを強調したり、イエシュアだけを強調したり、神だけを

強調する!神はどの名で呼ぼうとも1体、エハッドの神であり、

切り離せないお方である事実を、ヘブライ語の言葉から理解する

必要があるのです。

西洋宗教〜キリスト教の教えは、聖書ではなく、肉の目から見た人間の想像の神を語っています。

だから、ある部分の神の性質を強調し、ある部分の神の言葉、教えを強調し、そして様々なスローガンを流行らせる運動、ムーブメントを

次から次へと編み出しているのです。

シャローム、全て丸ごとで1つという思考回路とは、全く違う教えなのです。

エデンの園から、神の教えは、変わらない。福音〜永遠の中に屠られた子羊イエシュアの完了の業、贖いの血により、神ご自身の方から

私達一人一人、失われた人のところに来てくださり、閉じ込められた場所から引き上げて下さった。

イエシュアも同じように語られているでしょう。

失われた子羊一匹を、神の方から探し求めて救い出して下さった事。

エデン〜神の中〜喜びの園から飛び出した後も、生ける水、

イエシュアが世界の四隅に神の家、エデンから流れ出て、一人一人のところに来て、水の上に乗せて、神の中戻るよう運んで下さったのです。それが福音です。

そして、神の元に戻った人は、今迄のように、異教の神々の教えや

文化、生活習慣とは異なる、神が教える神の家、神の国、天の大祭司イエシュアに属する家訓を1から教えられ、神の教えを生きる!こ

の部分がごっそり抜けて、好きなところだけ取り出す、勝手に

ソースをかけて加えるつまみ食い信仰を教えられてしまったのです。神が教えていることを捨て、神の創造された記念日を全部捨てて

ローマ帝国、人が作った宗教の実践を生きて、神の与えた契約に根付く生き方など全く教えられていないままなのです。

神は目に見えて分かる何か、神の創造物を通して教えています。

これTecahing Pictureと言います。

視覚補助教材、Teaching picture(ティーチング・ピクチャー)は、教育現場で学習者の理解や興味を促進するために視覚情報として活用される写真や、画像、イラストのことです。

英語学習における語彙の提示、描写練習(ピクチャー・ディスクリプション)、あるいは授業中の概念図として使われ、記憶定着や対話のきっかけとして非常に有効な教育ツールです。

 

詰まり、神は神の創造物を通して、羊という動物を通して、

その動物の性質を通して、イエシュアを教えているでしょう。

神は動物ではない。水でも岩でも火でもないけれど、それらの言葉を使い教えている意味は、その物の性質を通して、神ご自身の性質や

教えの本質を説明しているものなのです。

 

バプテスマというギリシャ語で表されているのは、水に浸る事です。

洗礼池は、水の集まる場所、ヘブライ語では、ミクバと言います。

ミクバは、希望、テイクバという言葉と語根が同じ言葉です。

 

水に潜る儀式は、神殿に入る時、婚姻する時、出産後や、その他、

社会的立場、信仰が変わることを表明するなど、いろいろな時にされることがトラーには記されています。

クリスチャンの間で教えられているのは、たった一つだけです。

イエシュアを信じた表明のために、水に潜る事です。

以前の状態は死に、新しい立場になったことを表すものです。

 

この意味は、水に潜る=死ぬ。以前の状態の自分に死んだ事を

教えているのです。だから、キリスト教が教える、救われても

今も罪人という言い方、教え方は、神が伝える事実とは違う解説を

しているのです。

これは、蛇のトリックです。人に偽の自己像を信じた後もずっと刷り込み続けて、萎縮させ、後ろめたい気持ちを与え、変な謙遜を教え、劣等感、罪悪感で人を潰す事をしているものなのです。

 

信じられなくても、イエシュアと共に死んだ!水の中で死んだ!

これが、事実なのです。未だ新しい朽ちない体を未だもらわなくても

既に新しくされていることを、教えているのです。

それが、仮庵の教えなのです。朽ちる体、移動式神殿、約束の地に

永遠に住まう神の宮=朽ちない体ではなくても、朽ちる体、土の器でもイエシュアが内側に住まう事実を得ているではないですか。

新しくされた人でも、以前の死んだ自分の同じ体の中にいます。

記憶は物理的に頭脳の中の脳回路の枝にしっかり記憶されたままです。それを書き換えるのは、新しくされた本当の自分の自己像で

神の教えた通りを生きる連続の実践で、切り替えられて行く事

これが荒野の40年の新しくされた人を生きる訓練の地上の旅路なのです。

そして、生ける水〜胎内の水から、新しく生まれ出た人は、以前の

死んだ人ではなく、神が与えた全く新しくされた人だと教えているのです。これは、神の祭りでも同じように教えられているのです。

 

春の祭りは、過越〜奴隷からイエシュアを通して贖い出され、

偽の主人への代価を払い、本物の主人に買い取られた。

これが、贖いの意味です。偽物に繋がれていた鎖を、イエシュアの命の代価を支払い、鎖は切り離され、本当の主人に繋がれた、

これが過越の祭りの一連で教えているのです。

実際に、地上で起きたイスラエルのエジプト脱出でもそれを教えているでしょう。

注意深く、トラーを学べば、そこにこそ、イエシュアの完全なる業が

全て記されているのです。

エデンから飛び出して、神から切り離された場所に閉じ込められた人全て、エジプトで、偽の王、偽の神、偽の自己像、偽の人生目標に

縛られて生きていたのです。

そこへ、イエシュアが乗り込んで来た!子羊の血で、死が過越して

そして、水を通して、新しくされた!水を神ご自身が神の民のために

二つに割って、水の中を安全に通り、救い出されたのです。

救いを見よ!と書いてある。

出エジプト14:13 モーセは民に言った、「あなたがたは恐れてはならない。かたく立って、主がきょう、あなたがたのためになされる

救=イエシュアを見なさい。きょう、あなたがたはエジプトびとを

見るが、もはや永久に、二度と彼らを見ないであろう。

 

続く