続きです。一般的にキリスト教が解説する聖書観ですが、聖書とは
ズレた人間の宗教の思想を語り、聖書を歪めて解説しています。
3)聖書には、2種類別の教えがあり、新しい戒め、トラーとは違う教えがあると、勘違いしています。
その戒めは、昇天以降の今の時代は、神の教えが廃れた、人の意見で変えて良いという大嘘にすり替えられた、偽物、宗教の教えに
神の教えを捨てて、すり替えていることに気がついて下さい。
大前提を忘れないでください。
神の言葉は、神が言われる通り、永遠に同じ!完全であり、変わる
必要がない、いや変われない!神の口から出た1つ1つの言葉、
全てが完全であり、事実だから変わらないのです。
それでは、聖書に書かれているのは、何が違うと言っているのですか?これは、イエシュアが来られる以前も以降も同じなのです。
それは、神の言葉ではなく、神の言葉を受け取る人間の中身、
内側、理解、状態が変わる!と言っているのです。
どの時代のどの人種も、聖霊を内側に受けた人は、自分の中に変貌があるでしょう。神が存在し、イエシュアがメシアと認識できる。
聖書に書いてあることが、事実だと分かる。
イエシュアの命を受けた人は、神が意図した通りを生きれる
罪に支配されないで、罪の束縛から自由にされ、神の教えを選び、
生きることができる、新しい人=イエシュアの性質通りの人を
取り戻された!
聖霊が内側に住まわない人は、命がない、神に直結していないから
神の意図通りに生きることが、出来ない。罪に支配され、罪の罪状も
いつも付きまとう。これが違いでしょう。
そうすると、新生体験をした後、直ぐに生き方、思考が全部変わらないことは、荒野の40年のイスラエルと異邦人の旅路でも、
教えられている、自分の実際の日々の体験でも、分かるのです。
新しくされた人の事実を、神の言葉に根付いてずっと生きる続ける時、人は変貌する!それは脱皮と同じ。メタフォルシスとギリシャ語で書いてあるその言葉通りです。さなぎから蝶になる。
それをしない人は、ずっと肉のまま、変わらない!と書いてあるのです。何年経っても、信じても、何も変わらないと思う人は、大勢
いるでしょう。
魔法使いの杖の一振りで、一発で変貌!なんてないからです。
分かるでしょう。贖われることは、努力ではありません。
与えられただけです。その後があるのです。変貌の旅路。
ヘブル書に書いてある通りです。
天国地獄行きとか、救いを失うとか、そのような間違った読み込みを
やめて下さい。
荒野の40年、なぜ最初の世代の人は、ヨシュアとケラブ以外、
約束の地に入れなかったのか?
新しくされた人でも、その成長を神の言葉にしっかりしがみつき
生きない人は、成長がない。神の目から見る通りを見ることを、
学んでいない。
その部分で、努力しよう!と書いてあるのです。神が提供された本当の生き方が、シャバットの安息で教えられているからです。
神の教えから逸れない、意識を保ち生きることを努力しよう!と書いてあるのです。
その事実から、意識を反らせるのが蛇の声=神の教えは異邦人には
関係ない!という嘘のささやきなのです。
では、クリスチャンは一体神の何を、神の言葉から教えられ、
何を生きよと教えられているのか分からないままです。
そうです。神の教えを捨てるから、神の契約は関係ないから
神の子ら聖別された人にされたのに、クリスチャンは、イエシュアを
信じた後も契約に根付いて生きることを、最初から全然教えられてもいないし、してもいないのです。気がついていないだけ。
それは、神の言葉を捨てているから。この堂々巡りなのです。
その代わりに、ローマ帝国が作った、人間の宗教の教えと、そのならわし、儀式、記念日を、神の言葉、記念日を捨てて代わりにやらされていることに、全く気がついてもいないのです。
それが、本物!聖書!と思い込んでいるからです。
それらは、聖書、神の教え、契約に根付いた生き方ではない。
人間の思想、手で編み出した金の子牛と神が警告している偶像礼拝
そのものです。偶像〜人間の思想で、神の言葉、記念日の方を捨てて
イスラエルの神を拝むこと。
神の教えがあたかも悪く、人を縛る束縛、重荷、負担と考えているのは、偽情報を刷り込まれているからです。
金、真珠、宝石をそこら辺の100円のガラスのおもちゃのようなものと同じと教えられているのと同じです。
神の言葉の凄さ、価値を発見した人は、財産全部を売り払いそれを
求める!という意味が全く通じてないだけです。
マタイ13:44 天国は、畑に隠してある宝のようなものである。
人がそれを見つけると隠しておき、喜びのあまり、行って持ち物を
みな売りはらい、そしてその畑を買うのである。
13:46 高価な真珠一個を見いだすと、行って持ち物をみな売りはらい、そしてこれを買うのである。
2:5 あなたは、主を恐れることを悟り、神を知ることができるようになる。
ヘブル4:9こういうわけで、安息日の休みが、神の民のためにまだ残されているのである。
4:10なぜなら、神の安息にはいった者は、神がみわざをやめて休まれたように、自分もわざを休んだからである。
4:11したがって、わたしたちは、この安息にはいるように努力しようではないか。そうでないと、同じような不従順の悪例にならって、
落ちて行く者が出るかもしれない。
信じた後も、体も変わらないし、朽ちる体は老化するし、
今迄生きて来た生き方、思考回路は、神の言葉に照らし合わせて
意識的に神の考えの中に入り、留まり続けて生きない限り、
蛇の声にずっとやられ続けて、疑い続けるでしょう。
それが、荒野の40年の旅路で記録として書かれているのです。
最初の世代は、神の言葉に根付いて、信じて、見えないものを見るがごとく生きないで、後〜エジプトを振り返り、問題の直面するたびに、神に頼り信頼しないで、ずっと「つぶやき 文句言い続けた!」
それをやめない人は、ずっと変わらない!と書いてあるのです。
そして、聖書を正しく学ばず、理解しない人は、古い契約と新しい契約が別物というずっと存在もしない、架空の契約がある!と思い続けます。
それは、新約聖書=新しい契約などと、勘違いしているからです。
新しい契約などありません!同じ契約、シナイ山で与えられた1つの
契約、神の大家族の家訓は1つしかないからです。
同じイスラエルという大家族に異邦人も加えられ、同じ群れ=家族=カハール、教会などと言う言葉はありません!ぜひ、意識的にやめてみてください。カハール、エクレシア=神の声に呼び出され、応答し
神の家族に加えられた人の群れであり、異邦人の群れ、昇天以降に
出現した別の家族〜教会などでは存在しません。
マタイ以降は、聖書の後書きに過ぎないのです。
どうして、見えないのか?それは、イエシュアが来られた!という
大事件があるからです。
でも、イエシュアの到来と、再臨、イエシュアがされた業、それは
永遠の中に屠られた子羊の贖いの代価が事実である証明を地上でされる!それが、モーセの五書、預言書、諸書に記されているのです。
聖書に登場する人は、聖書の後書きなど知らない、読んでもいない
存在さえ知らないままです。
特定の人に当てられたパウロの手紙は、その群れの人は読みましたが
それは、預言者が書いた聖書とは違うのです。
何が違うのか?それは、その群れの中に当時あった問題に対する対処の知恵を、使徒であるパウロが、預言者が書いた、トラー、預言書
諸書に記された神の教え、知恵を通して、解決策を提案し、伝授しているだけだからです。
使徒は、預言者が書いた「トラー、預言書、諸書」を塗り替える、
捨てる、変化させる、歪める、削除するようなことは、一切教えないし、教えてもいない。もしそのようなことをする人は、偽教師
偽使徒、偽預言者、異端者として、神と人から完全追放されるのです。
新約聖書とタイトルを異邦人がつけた箇所が、新しい別の教え!という神話、空想を捨ててください。
その箇所には、トラーとは違う教え、トラーを否定、削除、又は
異邦人には関係ない教え!などと、1つも書いてありません。
もしそんなことが、書いてあれば、それは聖書ではありません!
考えれば分かると思いますが、聖書をパウロのような教師に、
ヘブライ聖書を学ばない、翻訳聖書を、人が編み出した宗教や
聖書ではない神学、置換神学、デイスペンセーション神学、神と神の業と神の言葉の進化論説を通して、神学校で、聖書ではない教えを
学んだ人が解説するから、聖書とズレた解説が、異邦人の間で
これほどまでに、浸透してしまったのです。
<罪もけがれもない神の子羊の血によって成立した新しい契約こそ
私たちが準じるべき契約です。>
これ、間違った解釈です。子羊の血の代価は、永遠の中に屠られて
存在しています。新しい契約とは、新しくされた人が受け取った
シナイ山の契約であり、死んだままの以前の自分ではない状態から
新しく生まれた人として、再更新され続ける同じシナイ山の契約を
生きる!ということが、理解できないまま、シナイ山とは別物の教えを生きる!と解説し続けているのです。
そして、こんなことを教えるのです。
<新しい契約と古い契約の違いを、理解しいないと、ずっと古い契約の中にいるような間違った生き方になります。>
一体何を言っているの?と問いたい!
ローマ教の教えが、新しい契約?そんなわけないでしょう。
古い契約に生きるとは、多分、イエシュアが来られる前の人は、
イエシュアを知らず、聖霊を知らず、神の教えを生きて義とされ
生贄捧げて罪許されていたという、聖書とは違う思想を信じているからこんな教えをし続けているのです。
古い契約〜律法=モーセの五書だと、勘違いしている。
神の教えは1つ、モーセの五書=シナイ山で与えられた契約しかない
その神の言葉、教えに人間が手を加え、付け足し、差し引き、破棄、
削除できない!してはならない!という神の警告が、このような思想を信じる人に、全く通じてはいないだけです。
これ読んでも、分かりますが、蛇がぬるっと入り、神の教えは古い
劣る、別物悪い、と毛嫌いする嘘の思想を、聖書を教える人に
うま〜〜〜く刷り込み続けています。注意!聖書に戻ろう!
神の言葉だけに戻ろう!蛇の声を退治、捨てよう!
どの時代のどの人種も、内側に聖霊を受けた人、神の伝える信仰義認
神の前に罪告白し、神により義の衣を着せられたアダムとハヴァと
同じく神の前に罪なし!とされた人は、エデンの園の最初からずっと
同じ事実を、受け取っているのです。
過去の人は、少ない義とか、義の程度に差があるなどない。
義とされた人が、イエシュアの性質通りを、生きているのか、いないのか?その差はもちろんあります。だから、信じても、何も変わらない生き方をしている、いやもっと酷い生き方をしている人がいる。
しかも、聖書を教える人が、律法主義はダメだ!と言いながら
人を支配し、縛り、操作するようなことをする。
ピンから、きりまでズレることができます。
それは、本来の人〜新しくされた人とは、ズレた生き方しているよ!
と言うことです。
動物の血、コルバンを通して、罪許される人はエデンの園から永遠から永遠に一人もいないという事実から、聖書を読んで下さい。
それでは、なぜコルバンが捧げられているのか?と考える。
未来、イエシュアが戻られたら再び、神殿のコルバンは復活するのです。そうすると、意味不明でしょう?
動物の血は人の罪を消さないからです。
神の家は、神と神が創造された人が住まう場所です。
その中心が、食卓、祭壇です。お茶の間。
神の一方的な業、永遠の中に屠られた子羊の血の代価を通して、
私達は、どう感じようとも、神の前に完全に受け取られ、愛され、
新しくされている事実を、神はコルバンを通して教えているのです。
最初から、イエシュアを教えているのです!
そして、その事実=新しくされた人の自己像で、神の前に堂々と出て!交わり、語り、対話して!そして、癒しを受けることを教えられているのです。
修復の仕方です。クリスチャンの間で、許された罪人とか、どうしようもないダメな自分とか、そのような表現をすることを、奨励されますが、それやめないとなりません。
イエシュアがされた業、新しくされた人の事実を信じて受け取ったら
蛇の語る偽の自己像を言い続けてはならない。
そして、新しくされた人らしく、神の言葉、教えに根付いて生きる!
それをしないで、以前の自己像を語り、神の教えを捨てて、異教徒と
同じように生きることをしていたら、聖なる民とされた人の生き方
神の家、神の家族の風習、文化、家訓を生きることなど、
分からないまま、地上に偽物の影、ローマ教の影を映し出したまま
イエシュアの実態を映し出していると、勘違いします。
ユダヤ人の目には、それらは偽物の宗教、偽の教祖の教えと映って
います。その通りです。神のトラー、教えではない生き方をしているからです。
続く