荒野の40年の旅路は全ての人に対して同じ | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

出エジプト3:7 主はまた言われた、「わたしは、エジプトにいる

わたしの民の悩みを、つぶさに見、また追い使う者のゆえに

彼らの叫ぶのを聞いた。わたしは彼らの苦しみを知っている。

 3:8 わたしは下って、彼らをエジプトびとの手から救い出し、

これをかの地から導き上って、良い広い地、乳と蜜の流れる地、

すなわちカナンびと、ヘテびと、アモリびと、ペリジびと、

ヒビびと、エブスびとのおる所に至らせようとしている。

 
神が、イスラエルと異邦人をエジプト〜奴隷の国、偽の王、神々から贖い、救い出した後、それだけでは、終わらないものなのです。
エジプト脱出、奴隷脱出した、その後の神の人々に対する目的は
何なのでしょうか?なぜ神は、人を荒野に導かれたのでしょうか。

 

25:8 また、彼らにわたしのために聖所を造らせなさい。

わたしが彼らのうちに住むためである。

 

神が贖い出した人々が、神と共に住まい、神がその真ん中に住まう

ことを教えるためなのです。

神と共に住まう事を教える、そのプロセスは、即座に始まりました。

出エジプトをした後、直ぐに始まったのです。

それで、荒野に入ったことが書かれています。

 

荒野という場所は、砂漠とは違う場所です。砂漠には、植物、

命が芽生えない場所です。荒野は違います。

その場所には、乾いた土の中に命が眠っています。

一旦雨が降れば、そこからは植物が芽生えて来ます。

春が、一番それが顕著に分かる季節です。

 

エジプトを出て、シナイ山に向かう途中、荒野を通過しました。

最初に通過した場所は、シュル、シンという場所で、そこは植物が

余り生えていない場所だったのです。

こんな大勢の人を養う植物、食物はない。

歩きにくい場所、雨も降らないし、少ない。

ごつごつ岩、石だらけの場所。

ワデイと呼ばれる川があるけれど、雨が降らないと水がない。

出エジプトして、持って来た水筒の水しかな〜い!

行商の屋台もない、コンビニ弁当も売ってな〜い!道の駅もない!

100−200ミリの雨しか降らない。貯水量は少ない。

 

出エジプト12:37 さて、イスラエルの人々はラメセスを出立してスコテに向かった。女と子供を除いて徒歩の男子は約六十万人であった。

 

ラムセスから、スコトに向かったのです。スコトは、仮庵と同じ言葉

「一時的に住まうテント、天幕」という意味の名の場所です。

聖書の記された事実、イスラエルを通して教えられている事実を

繋げて考えて下さい。過越は、出エジプト、神に贖われ、エジプトから引き出され、敵から救い出され、そして神に娶られ、聖なる民と

なり、神の家に住まうようにされたのです。

それが、過越の祭り、種無しパン。

そして、シャヴオート(週複数)過越から7週後に、シャヴオート

があるのです。7週間は、49日であり、その次の日だから、

ギリシャ語は、ペンテコステ、第50と言いますが、オリジナルは、シャヴオートです。これが、シナイ山で、イスラエルと異邦人が立ち合い、証明する中で、神からの婚姻契約を受け取る祭りでした。

そして、秋の祭りの3つ、ヨムテルア、大贖罪日、仮庵の祭りは

全て、イエシュアの未来の再臨を表す預言的祭りを表す、神が創造された代々永遠に祝われる神の記念日なのです。

贖い、救い、新しくされ、きよめられ、神のものになり、神の家に

住まう家訓を与えられた。

そして、荒野の40年は、この世の旅路であり、約束の地に入る前に

今迄とは、全く違う、見方、生き方を再学習する、神と共に歩み、

生きることを教えられる地上での訓練の時期なのです。

そして、最後、イエシュアの再臨を迎えるのです。

それらが、神が創造されたモアデイムで全て教えられ、表され

生きて、体験し、神がその中で様々なことを教えてくださるのです。

シャバットからシャバット、新月から新月、祭りから祭り、神の創造された命のサイクルの「時」の中を、神が言われた通りに生きて

新しくされた人、聖別された人の生き方に切り替える学習なのです。

 

目に見えるもの、頼れるもの、神以外他に何ももうない!

全部エジプトに置いて来たのです。これこそ、レフトビハインド。

神だけを頼ることを、学習するためです。

モーセが山の中に入って、帰ってこない、SNSもない、ラインもない

だから、エジプトの神々、太陽神のシンボル、牛、一番貴重な金で

子牛を作り「今日は神の祭りだ!」と、勝手な方法でイスラエルの神の祭りを祝った記録が出エジプトにあります。

 

出エジプト32:4 アロンがこれを彼らの手から受け取り、工具で型を

造り、鋳て子牛としたので、彼らは言った、「イスラエルよ、これは

あなたをエジプトの国から導きのぼったあなたの神である」。

 32:5 アロンはこれを見て、その前に祭壇を築いた。そしてアロンは布告して言った、「あすは主の祭である」。

32:6 そこで人々はあくる朝早く起きて燔祭をささげ、酬恩祭を供えた。民は座して食い飲みし、立って戯れた。

 

1列王記12:28 そこで王は相談して、二つの金の子牛を造り、

民に言った、「あなたがたはもはやエルサレムに上るには、およばない。イスラエルよ、あなたがたをエジプトの国から導き上ったあなたがたの神を見よ」。

12:29 そして彼は一つをベテルにすえ、一つをダンに置いた。

12:30 この事は罪となった。民がベテルへ行って一つを礼拝し、

ダンへ行って一つを礼拝したからである。

12:31 彼はまた高き所に家を造り、レビの子孫でない一般の民を

祭司に任命した。

12:32 またヤラベアムはユダで行う祭と同じ祭を八月の十五日に定め、そして祭壇に上った。彼はベテルでそのように行い、彼が造った子牛に犠牲をささげた。また自分の造った高き所の祭司をベテルに立てた。

神の教えは永遠に廃れず、変わらないと言うことを理解しないなら、ここに書かれている警告は、永遠から永遠に同じであることが

全く見えない、盲目状態になります。

これ、ローマ帝国が同じことをやったのです。神の教えを捨てよ!

神の記念日を、全部捨て、その代わりに人が思いついた日を、

シャバット、日曜日にし、聖書にない他の祭りを代わりに祝うようにした。

ヤラベアムは、仮庵を7月ではなく、8月にした、これが神の前に

罪となったと書いてあるのです。人間の思想で編み出した教え、

人造宗教は、ずっと同じことをし続けているのです。>

 

 12:33 こうして彼はベテルに造った祭壇に八月の十五日に上った。

これは彼が自分で勝手に考えついた月であった。そして彼は

イスラエルの人々のために祭を定め、祭壇に上って香をたいた。

<人間、ローマ帝国が勝手に思いついた日に、勝手に思いついて

変えた、異教の神々、女神の記念日を、イスラエルの神の記念日と変えた、

それが事実です。>

神が創造された記念日は、全てイエシュアの業を表す福音的預言的

祭りであることが、見えますか?

人の人生は、それぞれ違う旅路でも、トラーに記されたイスラエルが

辿った道のりを並行して通っているのです。

 

1)全ての人は漏れなくエデンから出て、神から切り離された

2)内側の外側、神との隔たりの場所に閉じ込められて皆生まれて

来た。そこに生きること以外を、生まれた時から知らないまま。

エデンの園に生きる生き方など知らない。

3)失われて、閉じ込められていた場所まで、イエシュアが一人一人のところに来て、引き出し、贖い出し、救い出して下さったのです。

それが、父の元に戻ったという、新しい人を生きる始まりなのです。

皆、形、時、境遇、環境は違っても、同じ所を通るのです。

 

そして、贖い出された人が、最初に来た場所、スコトです。

仮庵、この世の仮の家、朽る仮の体でも、イエシュア=仮庵、ミシュカンの中に住まうことを教えているものなのです。

目に見えない現実を、見るが如くに生きる。見えない天の現実

神が共に居られる事実を、見えなくても、信頼して生きることを

再学習する。

イエシュアと共に葬られて死んだ、以前の修理不可能な人ではない、

マッツア〜ハメッツ=パン種、罪が削ぎ落とされて新しくされた人、神の目には、イエシュアの業で完全に新しくされた人、

全てが新しくなった本当の自分を見ている、教えているのです。

祭壇の上に捧げられるコルバンを通しても、それを教えられているのです。

シミ、傷、欠陥がない動物は、新しくされた人、イエシュアの血で

覆われ、贖われた人を教えているのです。

神の前に受け取られ、天から降った神の火により燃やされて、

そして、芳しい香りとして、天に立ち昇って行く。

神の中に、受け取られていることを教えているものなのです。

神が、私達を新しくされた事実だけを通して、神と関係を持って、

神の前に出て、神と対話して、神の考えとぴったり一致する=それが

神の祭壇の前の神との対話=祈りとして教えられているのです。

 

イエシュア、初子、初穂に連なって成長する人を生きることに変えられたのです。

それが、春のモアデイム、この出エジプトの出来事を通して教えられているのです。

復活の事実、それだけ取り出しても、神のされた業の全ての意味が繋がって見えないのです。

全部丸ごとでなければ、見えない。ジグゾーパズルのピースの

いくつかだけ取り出しても、全体像は見えないのと同じなのです。

神の教え、言葉が1つとして、繋がっているのが見えないでしょう。

 

聖書を解説する人が、聖書を、2つ、時代ごとに別の教え、違う教えなどと分断し、人の思想で分断できない性質の神の言葉に、勝手な

解釈で分解、破壊して考えているから、神の教えは1つであることが、見えないのです。

イエシュアが語られた教え、使徒やパウロが解説している言葉、

教えは、全て100%モーセの五書のみであることに、マタイ以降だけ読んでいたら、気がついてもないと思います。

預言書、諸書は、全てモーセの五書を解説しているものなのです。

マタイ〜黙示録もそうです。マタイ以降には、トラーより、

より優れた別の新しい教えなど書いてない!と言うことが

理解できていない、見えていないのは、最初の部分を正しく学ばないからです。

聖書に登場する人は、マタイ〜黙示録など知らないし、聞いてもいない、読んでもいないのです。それらは、聖書の最後の部分、預言されたイエシュアが来られ、地上で永遠の中に屠られた子羊の血の代価が真実であることを証明され、世界へ広く、トラーがユダヤ人により伝えられる時代になっただけです。

最初は個人、個人へ、口頭で神が教えを伝え、そしてそれが1つの民族となり、そしてその後、それが世界へ広がって行く。その前でも、

口伝で、神の教え、トラー、ノアの洪水その他のことも、世界の

四隅まで、伝わったいたのです。

今や、聖書があっても、書かれている通りに、正しく読んではいないのだから、同じです。古代中近東付近の異邦人達の方が、よっぽど

イスラエルの神に対しての情報を正しく受け取っていたでしょう。

神の教えが変わったのでもないのです。変わらなくてはならないのは、人間の中身!新しくされた人を受け取り、生きて、神の目から

見る通りを学習し、生きることを学ぶ!

マタイ以降は、聖書の後書きなのです。

同じ神の教え、同じ福音〜新しくされた人、イエシュアの性質通りを

取り戻され、神と共に住まうことができる、何も変わらないのです。

 

聖書に聖書とあれば、神の言葉、教えとは、モーセの五書=トラー

神が提示した神の家の家訓、婚姻契約書しかありません。

これは、人間が付け足し、差し引き、又は変えてはならない!と

厳重警告されているでしょう?それなのに、平気で神の教えを廃れた、

古い教えを生きるのは、律法主義だ!などと、意味不明な解説を

し続けているのに、その間違えに聖書から全く気がつけない状態なのです。

 

神の教え、イエシュアが教えた父の教えは、トラーしかありません!

モーセの五書です。

聖書に出て来る地名、人の名、数字、そこで起きた出来事は、

深い意味、教えがその中にあり、記されているのです。

荒野も、いくつもの種類の別の地形、場所があるのです。

ネゲブ、ジン、ユダ、アラヴァ、その場所には、色々な意味があるものなのです。

神のゴール、目標は、エジプトから彼ら、イスラエルと異邦人を引き出しただけでなく、神がイスラエルの間、イスラエルと共に住まうこと、それを荒野の旅路を通してイスラエルに教えることなのです。

 

これは、私達一人ひとりに同じように同様に当てはまることなのです。

子羊の血の贖いで、エジプト=奴隷=偽の神々、神から離れた場所に

閉じ込められて失われて生きていた、その場所までイエシュアが

やって来てくれて、そこから引き出して下さった。全く同じです。

そして、父の元に戻り、娶られ、きよめられ、聖別されて神の者と

された!

これが、春の祭り、過越の祭り、種無しパンの7日、初穂の日

シャヴオートの祭りで表され、教えられ、代々永遠に祝うように

イエシュアが教えたモアデイムなのです。