パウロは人にいつでも神の記念日を変えて良いなど教えていない | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

パウロも同じように、過越の祭りを祝い、どのように過越の祭りを祝うのかコリントの群れの人々にも教えました。

 

当然です。パウロは、トラーに忠実なヘブライのヘブライ、

パリサイの子!と宣言しているでしょう。その人が、神の教えを捨てて、日曜礼拝、クリスマス、イースターを祝おうではないか!

などと、教えるわけなどない、あり得ないのです。

パウロが、誰か理解していない人が、聖書ではない解説を勝手に

言い続けているのです。

ローマ14:5 また、ある人は、この日がかの日よりも大事であると

考え、ほかの人はどの日も同じだと考える。

各自はそれぞれ心の中で、確信を持っておるべきである。

 

パウロは、ここ5節で、レビ記23章にある神が創造された日のことなど一言も、微塵にも話していないことを知ってください。

事実だけに基づき、考えてください。書いてある意味を違う意味に
すり替えないでください。
いい加減な聖書の学びを通して、詰まり人間が作った宗教、神の教えは廃れた!と言う教え、思想、神学を神学校で学び、ヘブライ聖書に書いてある、オリジナルに書かれた事実を学び続けない人が
世間に浸透した、神の教えを否定する歪んだ聖書解説を施し続けて今に至るのです。
又は、デイスペンセーション神学などに傾倒した、ユダヤ人も
異邦人には関係ない、神の言葉と、神の性質の進化論を語るのです。
 
でも、それは聖書に戻れば、完全に間違った解釈、言語に於いても証明できるのです。日本語訳では分かりませんが、定冠詞がついてない
普通の日です。
定冠詞とは、英語では、Theであり、ヘブライ語では「ハ」という
言葉であり、普通の日には、定冠詞が付いていないのです。
神が聖別された日、特定の日にこの定冠詞がつくのです。
ここに書かれているのは、普段の日、ローマの帝国の記念日、
その他、人が大事にしている断食の日、神の教えではない日の話なのです。
パウロが、神の教え、記念日を、人間の意見で変えて良いと言うなら
パウロは使徒ではなく、警告されている偽教師に認定され、
神と人々から即座に追放されたでしょう。

 

1コリント5:6あなたがたが誇っているのは、よろしくない。

あなたがたは、少しのパン種が粉のかたまり全体をふくらませることを、知らないのか。

 5:7 新しい粉のかたまりになるために、古いパン種を取り除きなさい。あなたがたは、事実パン種のない者=マッツアなのだから。

わたしたちの

過越の小羊であるキリストは、すでにほふられたのだ。

5:8 ゆえに、わたしたちは、古いパン種や、また悪意と邪悪とのパン種を用いずに、パン種のはいっていない純粋で真実なパンをもって、をしようではないか。

11:20 そこで、あなたがたが一緒に集まるとき、主の晩餐を守ることができないでいる。

11:21 というのは、食事の際、各自が自分の晩餐をかってに先に食べるので、飢えている人があるかと思えば、酔っている人がある始末である。

1コリント11:22 あなたがたには、飲み食いをする家がないのか。

それとも、神のカハールを軽んじ、貧しい人々をはずかしめるのか。

わたしはあなたがたに対して、なんと言おうか。あなたがたを、

ほめようか。この事では、ほめるわけにはいかない。

 

<過越の祭りは、皆一同が同じ時に同じものを食べて、その食べ物

ワインを通して、出エジプト、イエシュアがされた業、贖い、救い

神の者とされ、娶られ、きよめられた、新しくされた事実を回想するのが、主旨であり、祭りの醍醐味なのです。それを、理解しないまま、ただの勝手な飲み食い、それぞれが食堂で勝手に食事していることになっていると警告しているのです。>

 

11:23 わたしは、主から受けたことを、また、あなたがたに伝えたのである。すなわち、主イエスは、渡される夜、パンをとり、

11:24 感謝してこれをさき、そして言われた、「これはあなたがたのための、わたしのからだである。わたしを記念するため、

このように行いなさい」。

11:25 食事ののち、杯をも同じようにして言われた、「この杯は、

わたしの血による新しい契約である。飲むたびに、わたしの記念として、このように行いなさい」。

11:26 だから、あなたがたは、このパンを食し、この杯を飲むごとに、それによって、主がこられる時に至るまで、主の死を告げ知らせるのである。

11:27 だから、ふさわしくないままでパンを食し主の杯を飲む者は、主のからだと血とを犯すのである。

11:28 だれでもまず自分を吟味し、それからパンを食べ杯を飲むべきである。

11:29 主のからだをわきまえないで飲み食いする者は、その飲み食いによって自分にさばきを招くからである。

 

使徒 20:6 わたしたちは、除酵祭が終ったのちに、ピリピから出帆し、五日かかってトロアスに到着して、彼らと落ち合い、

そこに七日間滞在した。

 20:7 週の初めの日に、わたしたちがパンをさくために集まった時、パウロは翌日出発することにしていたので、しきりに人々と語り合い、夜中まで語りつづけた。

 

 

何度も説明していますが、クリスチャンの間で浸透した聖書解説

神の教え、記念日が廃れた、破棄され、日曜礼拝やクリスマス?

イースターに変わったとされる箇所100%全て、テキストに書いてもない、読み込み、間違った聖書解説を施しているせいです。

反ユダヤ思想、反トラー思想、置換神学や、デイスペンセーション神学を信奉する人が、聖書解説をするから、聖書に書かれている意味を

曲げられるのです。

 

注意深く考えてください。聖書には、神が伝えた通り、神の教え、

神の言葉、神の性質、神の贖い救いの方法は、1つ、変わらない!と

神が伝えているのです!

それなのに、人間がその根底、根本を潰し、歪め、捨て、変形させている!と言うことに気がついてください。

どれほど神が、人に、神のモアデイムが重要であり、人が汚してはならない!と教えているのか、聖書を曲げる人には、通じません。

なぜなら、古い教えは廃れたから関係な〜い!こんな思考回路で

聖書を読んだら、当然、神の言葉=聖書の方を曲げていることに

気が付かないとならないのです。

 

パウロが、過越、種無しパンを祝うということは、イコール、

神が創造された全てのモアデイムを全て祝った証拠が聖書には記されているのです。

聖書には、クリスマスも、日曜礼拝も、イースターも書かれていません!翻訳で、過越をイースターなどと訳すから、イースターがある!

と騙されますが、完全な誤訳です。

翻訳には落とし穴があるのです。翻訳者の思想で、聖書を歪めて翻訳する。原典に書いてもない文章をつけたす。言語にそぐわない

不適切な翻訳を施す。それが律法、教会、従うというような誤解を招く言葉なのです。

そして、原語の意味は、翻訳では、説明を加えなければ表せない

言葉がたくさんあります。たとえば、きよい、きよくないなど

翻訳では意味が出てこないものであり、概念を理解しないと

見えないものなのです。

 

反モーセの五書思想、神の教えは廃れた!と信じる人

又は、異邦人には関係ないと信じる人、偽物の教えを信じる人が、

聖書を歪めた聖書解説するから、書かれた事実とは異なる聖書解説になっているのです。

 

パウロが、日曜礼拝など人の教えるわけなどない!と言うことが

分からないのは、パウロが何者か理解していないからです。

しかも、日曜日は労働日です!!!!!!!!

シャバット、第7日目を汚すことを、パウロが人に教えるのですか?

おかしな思想なのですが、浸透してしまえば、嘘も本当と受け取られる、進化論と同じなのです。

 

マッツアを過越の祭りの中で食べますが、晩餐の中でイエシュアがされた儀式の中に、神殿崩壊後、パリサイ派がイエシュアを、教え伝えるために加えた儀式があります。

これは、以前にも書きましたが、砕かれた体。

3つのマッツアを重ねるのです。そのマッツアを入れるカバーがあるのですが、3つに分かれているのです。

真ん中を砕いて、子供に部屋のどこかに隠させるゲームをするのです。最初にそれをやり、晩餐が終わる時、隠されたマッツアを探し出すのです。

これは、イエシュアが砕かれ、昇天され、やがて再臨されることを

教えている儀式です。

ギリシャ語で、アフィコメンという名なのですが、この意味は

「わたしは来た」という一度だけの行動を表す言葉なのです。

イエシュアがメシアであることを知らないユダヤ人は、アフィコメンは、デザートと言う意味だと思っているのです。

ギリシャ語が分かる人は、分かるはずです。

 

詰まり、残りの民、1世紀当時はパリサイ派が大衆です。

パウロも死ぬまでパリサイ派でした。そのパリサイ派の残りの民が

神殿無き後、イエシュアの砕かれた体、復活、再臨をこの過越の

儀式の中に加えたのでしょう。

使徒15章にある、誠実なパリサイ派のイエシュア信者の長老たちのような人がいたのです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

マッツアは刺し通されているものです。

イエシュアを表していること、知らない間に

マッツアで表せている。