反イスラエルの神 神に敵対するもの 毒蛇とはそれらの行為をする人であり血筋ではない | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

世界が、イスラエルに注目する戦争が今起きています。

世界中が、イスラエルを意識、注目しています。

 

こんな小さな国が、歴史の中で、最初からずっと標的の的になっている理由、それは、サタンと創造主であるイスラエルの神の戦いだからです。エデンの園で起きたこと、神の創造された人を嘘で騙した

偽物の声と、神の声をどちらを取るのか?その選択がずっとあるからです。

世界は、偽報道、情報ばかりが流されていますが、最後は、

イスラエル=イエシュアを敵対した、指し通したメシアを、世界中が

嘆き悲しみ、メシア、イエシュア、イスラエルの神に気が付く時が

来ることが、預言されています。

ユダヤ人がキリスト殺しではなく、イスラエルの神に敵対した全ての人、そのようなことをした全ての民族が最後は、その事実、結末に

嘆き悲しむことが預言されているのです。

 

ゼカリヤ12:3 その日には、わたしはエルサレムをすべての民に対して重い石とする。これを持ちあげる者はみな大傷を受ける。

地の国々の民は皆集まって、これを攻める。

12:4 主は言われる、その日には、わたしはすべての馬を撃って

驚かせ、その乗り手を撃って狂わせる。しかし、もろもろの民の馬を、ことごとく撃って、めくらとするとき、ユダの家に対しては、

わたしの目を開く。

 12:6 その日には、わたしはユダの諸族を、たきぎの中の火皿のようにし、麦束の中のたいまつのようにする。彼らは右に左に、その周囲にあるすべての民を、焼き滅ぼす。しかしエルサレムはなお、そのもとの所、すなわちエルサレムで、人の住む所となる。

12:7 主はまずユダの幕屋を救われる。これはダビデの家の光栄と、

エルサレムの住民の光栄とが、ユダの光栄にまさることのないようにするためである。

12:8 その日、主はエルサレムの住民を守られる。彼らの中の弱い者も、その日には、ダビデのようになる。またダビデの家は神のように、彼らに先だつ主の使のようになる。

 12:9 その日には、わたしはエルサレムに攻めて来る国民を、

ことごとく滅ぼそうと努める。

 12:10 わたしはダビデの家およびエルサレムの住民に、恵みと祈の

霊とを注ぐ。彼らはその刺した者を見る時、ひとり子のために嘆くように彼のために嘆き、ういごのために悲しむように、彼のためにいたく悲しむ。

 

ユダヤ人は、毒蛇、サタン、悪者、嘘つき、腐敗している人達、

彼らの聖書解説は歪んでいる、邪悪だと言われる理由は

どこから来ていますか?

聖書を、内容、文脈から逸脱して解説しているからです。

 

ユダヤ人、それらは民族に関わらず、ユダヤ人と呼ばれます。

ヤコブの12人の息子から出た人達です。

しかも、イエシュアは、ユダ族出身のダビデの家系のメシアなのです。

反ユダヤ思想ですが、聖書で警告されているのは、父=イスラエルの神の性質通りに生きないこと、神の教えに反することをすること、

イスラエルの神と、神の言葉に直接敵対すること、その行為をする

事を、まむしの末のやる行動である!と警告しているのです。

 

イエシュアは父に遣わされて地上に来られたのです。

父の言葉=トラーに記された通りを人に教え、生きて、手本を見せました。父の教え=トラーを父が意図する通り、人に伝え、教えて

生きる!とイエシュアが言われました。

父が言わない別の教えなど、人に教えない!と言われました。

 

父の伝える通りの実態を伝えない、それは、まむしの末、父の性質を

反映しない言動、生き方なのです。

その場合、まむしの末=サタンの手先、代弁者になり、神の伝える

事実を曲げる行為をすると言っているのです。

DNA、血筋ではない、異邦人でもユダヤ人でも、誰でも、イエシュア=イスラエルの神=父の性質、教え、言葉通りではない、神に敵対

する、反する、言動、行動をする、それがまむしの末の性質を生きる事である!と警告されているのです。

 

まむしの末、毒蛇という言葉を使って、ユダヤ人の性質を表す

指す代名詞として、カトリックや多くのクリスチャンが語ります。

イエシュアは、ユダヤ人全体を、批難しているのではありません。

誰に対して、どこから話しているのかという内容を、文脈全体から

正しく読み取らない人が、間違った聖書解説をしているのです。

 

ヨハネ バプテスマのヨハネ、イエシュアが使っている言葉は、

両者は、ユダヤ人であり契約の中にある民として話しているのです。

クリスチャンの間でも、仲間内で、ズレたことをしていたら、

その相手の仲間を正すことを、言いませんか?

 

キリスト教が、ユダヤ教をアタックしているのではありません。

キリスト教という、聖書にはない教え、人間の思想が加えらえた宗教は、1世紀当時存在していませんし、聖書に書いてもない教え、

ローマ帝国が作った宗教だということを、はっきり知って下さい。

ユダヤ教という、今ある形の宗教も、1世紀当時には存在していませんでした。

神の教え、言葉、聖書は、人間の思想、実践、生き方、教え、

儀式や、記念日が混じったものではなく、神が創造された世界を

神の性質通りに造られた神の民〜ユダヤ人、異邦人1つの大家族が

契約=神の国の生き方に根付いたことを生きる事が、聖書には

書かれているのです。

 

ユダヤ人、イコール、まむしの末と聖書に書いてあるのではありません。

どの人種であっても、まむしの末、神の教えに敵対することを主張、行動する人、それらの行動をする人を、まむし、毒蛇の性質を生きてる!と警告しているのです。

 

マタイ 3:1 そのころ、バプテスマのヨハネが現れ、ユダヤの荒野で教を宣べて言った、

3:2 「悔い改めよ、天国は近づいた」。

3:3 預言者イザヤによって、「荒野で呼ばわる者の声がする、

『主の道を備えよ、その道筋をまっすぐにせよ』」と言われたのは、この人のことである。

3:4 このヨハネは、らくだの毛ごろもを着物にし、腰に皮の帯をしめ、いなごと野蜜とを食物としていた。

3:5 すると、エルサレムとユダヤ全土とヨルダン附近一帯の人々が、ぞくぞくとヨハネのところに出てきて、

3:6 自分の罪を告白し、ヨルダン川でヨハネからバプテスマを受けた。

3:7 ヨハネは、パリサイ人やサドカイ人が大ぜいバプテスマを受けようとしてきたのを見て、彼らに言った、「まむしの子らよ、迫って

きている神の怒りから、おまえたちはのがれられると、だれが教えたのか。

3:8 だから、悔改めにふさわしい実を結べ。

 
ヨハナンは、「悔改めにふさわしい実を結べ。」と言っています。
反ユダヤ思想、ユダヤ人はキリスト殺し、毒蛇、まむしの子らという固定概念は、このような聖書箇所から来ています。
この箇所の「まむしの子ら」という言葉を、一部のパリサイ派、
サドカイ派を指して、使っているからです。
この箇所は、同胞が、同胞ユダヤ人がユダヤを非難、叱責している
箇所なのです。
ユダヤ人がユダヤ人へ、話しているのです。
パリサイ派、サドカイ派、それらは一部の人であり、リーダーに向かって話、契約の民としての生き方をしていないという叱責、非難を
ヨハナンがしているのです。
 
これは、どんなグループにも言える事なのです。
特権を受けた人、権威を握った人、リーダーになった人は、
神と同等な意識になりやすい。他の人より優れていると思う。
人の上に立ち、権威がある特別な人物だ!と、勘違いして行動する人が、どこの世界にもいるでしょう。
これは、クリスチャンの群れにも言えることなのです。
「先生は神から遣わされた人だから、何も逆らえない、苦言を呈する事ができない。」と思う。
そして、ズレたことをする一部のリーダー達、普通の人もいるでしょう。
人をハラスメントする、いじめる、いやがらせする、執拗に責める
批判する、金銭搾取する、命令する、私生活を支配する、
性的肉体的虐待を、リーダー達が平気でする。
そして、周りが、その罪をしている人達に対して何も言えないまま、沈黙し、同じ罪を共有するのです。
上に立つ人は、より悪に、サタンに誘惑されます。特権、金銭を搾取でき、そして人を支配できる、他者を所有したような感覚に陥るから、そのような事が出来てしまうのです。
神の教えに根付いて、生きていないから、隙を狙われるのです。
神の言葉を捨てて良い!と教える代償は重い罪なのです。
 
1世紀当時のパリサイ派は、議会を司るトラー学者でした。
全員が全員腐敗していたのではないことは、パリサイ派の議員
ガマリエルが国民全体に尊敬されていたと使徒に記されている事でも
分かるのです。
そして、サドカイ派は、神殿を司る祭司=レビ族です。
大祭司カヤパは、完全に腐敗し、ローマ帝国の犬でした。
ヘロデ王も同じです。
一方、同じサドカイ派の大祭司であるザカリヤ、その子である同じく
大祭司であるバプテスマのヨハネは、腐敗した生き方ではなく、
イエシュアと同じく、父の教え=トラーを正しく人に教え、父の実態を地上でその通りに反映する影=父の代弁者としての役割をしていたのです。
聖書を読む時に、ある群れのある一部の人達の事が書いてあったら、
それらを取り上げて、即座に全てのユダヤ人がまむしの末だ!などと
とんでもなく勘違いした、飛躍した間違った読み込みをしてはならないのです。
これらの、間違った聖書の読み込みは、今アメリカの神学校では
聖書に書かれた本当の意味に戻るということを、教える、
詰まり歪んだ聖書解説=人間の思想で、聖書を読み解く間違いに
気がついた教師達が、軌道修正をし、正しい聖書解説に戻している
傾向にあるのです。
それは、聖書の事実に気が付かされた人、真実に目覚める人を
神が、神の言葉の真実を知ることに呼びもどしているからです。
こんなに神の言葉に人が、手を加え、破壊したまま、神が黙ってなど
いるわけがないことは、聖書の預言でも証明されているからです。
神が神の言葉の完全さ、誤りがない、永遠普遍であることを、
神ご自身が証明されるとあるからです。
人間が神の教え、人の生き方を踏みにじり、別物に変え続けても
そのようなズレ、違反を、神がこれまで!と時を定めて、阻止される時が来るからです。
それはそうでしょう。人でさえ、自分が言ったこと、やったことではないのに、言ったやったと偽証されたら、絶対に真実を証明したい
それが、裁判で行われるのです。
冤罪は、無実と証明されなくてはならないのです。
決着は、神の審判を通して、正しくされるのです。
人が作り出した嘘を一掃するのは、神です。
 
神ではない、神に造られた人間なのに、神だけが、人に対して
どういう生き方をするように、神は人を造られ、どのように生きるのか、神の国の性質、構造生き方、家訓を教えることができる唯一の
お方なのに、その人間が、神に成り替わり聖書に書いてもないこと〜神の教えが廃れた、今は人間が勝手に仕分けて良いという聖書に書いてもない大嘘を信じていることの方が重大問題なのです。
 
それは、信じた最初から、聖書ではない、ローマ帝国が作った宗教の教え、思想で、聖書に書いてあることを曲げて、塗り替えて、解説されてしまうから、それが本当と思い込んでしまっているのです。
しかも、周りがみんなそう信じている、聖書ではないことを教えられ
人にも教えて、神の創造された記念日ではないものを、モアデイムとして祝い、神の創造されたモアデイムの全てを捨てている!
これこそ、神に対する冒涜そのものであり、その嘘から目覚めるということをしない限り、聖書に書いてあることは書いてある通りには、見えないという場所に閉じ込められたままになるのです。
 
神の言われたことを聞かない、神の教えを大事にガードせず、
生きず、神が言われていない、人間が作った宗教の教え、儀式
記念日、活動を一生懸命やり、それが神を愛することと、勘違いさせられているのです。これ、エデンの園のズレ、過ちそのものを
繰り返し続けているのです。
人類の問題の根は、イスラエルの神の教えに敵対すること、
イスラエルの神、神の民を殲滅するという目標を生きること、
それが神に敵対するものの究極のズレた行動なのです。
 
神を愛する人が、神の教えを憎み捨てる?おかしな教え!と気が付かないとならない時に来ているのです。
悔い改めよ!とは、神の言葉、教えからズレた状態、思考回路、
行動の全部を神が言われた通りの本来の生き方、考えて方に戻る!
それが悔い改めの本当の意味です。
戻る!神の言葉、教えだけに戻る!これが、翻訳されている悔い改めの、ヘブライ語で記された本当の意味です。
ヨハナンが促したのは、ズレた生き方をしていたサドカイ派、
パリサイ派へ悔い改めがないまま、神の教えに戻り生きることを
しないなら、そんなのは、いくら表向きに、体だけ川で水に浸かっても意味などないからです。
儀式は、内側の変貌を見に見える形で、表明することだからです。
 
このような聖書を間違った読み込みをして、固定概念を作り、
イスラエル、ユダヤ人に対して、反して語っているとういう事に
され、それが、尾ひれ、えひれが付いて違う解釈に膨れ上がり、
イエシュアがユダヤ人をまむしだと批判しているということに、
されているのです。