悪と善とは、私達の文化の言葉で考えること、意味とは、
少し違います。
悪=ラア、神の意図と外れている全てです。
善=トヴ、神の意図した通りの全てです。
たとえそれが、人の目には良いように見えても、神の意図に近くても、神の意図から少しでも、一ミリでも的を外していれば
それは、神の意図どおりではない!ということなのです。
アーチェリーを知っているでしょう。
イスラエルのアーチェリー競技では、この言葉が使われています。
的を外すことを罪と言いますが、ハターと言います。
ヘブライ語で罪=ハターです。
矢がヘットという言葉です。
人がズレた、罪を犯したのは、神の言葉を疑い、神が伝えることとは違うことをしたことです。
これを、今もずっと繰り替えしているのです。
しかも人間が作った宗教の思想は、神の言葉を退ける罪を教えて
しまっているのです。
そんな教えをされているので、神が設定している境界線が取り払われているのです。
罪の定義の境界線を、人間が勝手に神の言葉を捨てて、取り壊しているのです。
だから、今は何でも食べて良い、いつでも神の安息日=主の日だ、
人は神の教え=トラー(律法という誤訳で)律法ではなく、
聖霊により生きるのだ!その人の意見で、考えで生きれば良いのだ!と意味不明な解説、神の教えに敵対する思想を、堂々と正義だと思い込み、語り続けているのです。
神の言われたことを、人間が言い換え、定義し直し、塗り替え、別の教えにすり替えている、神に対する罪、ひどい、冒涜発言であることは、神の教えを理解する人には、これらは、真っ向から神に敵対する罪であることが、分かります。分からなくてはならいのです。
ヘブライの世界で、聖書に生きた人たちの中で、こんな発言をする
場合、それは偽の教えと認定され追放されるのです。
人が、神に成り変わり、神の教えを塗り替え、勝手な自己主張をしているだけです。神を神とも認めていない、ズレ、罪です。
人間が神になり代わり、聖なる父と、イスラエルの神の名を奪い
その呼び名で、呼ばれている。宗教とは、狂った思想を、おごそか
謙虚、崇拝されるべきなどと、すり替えられてしまうものなのです。
神は人間が作った偶像礼拝、偽物などありがたく受け取らないのです。人の思想が作った、宗教の教え、それらは偶像です。
イスラエルの神由来ではない、根拠がないものを、熱心に信奉している、それは、異教の神々の宗教、礼拝、崇拝、信仰と全く同じです。
イスラエルの神、イエシュアの名を利用しながら、神の教えとは
違う、人間が編み出した別物という偶像=金の子牛通して、
イスラエルの神を礼拝するズレたことをやっているからです。
その果ては、イエシュアを信じながら、LGBTを生きていることを堂々と発表する。罪を生きる冒涜が、神の前に罪とも、何とも分からなくなっている混乱があります。
それらの思想、主張が正義だと思い込んでいるのは、嘘をまこと、
聖書、神の教えだと聖書に書いてないことを信じているからです。
1)イエシュアが来られるまで神の古い厳しい律法に縛られていた
2)イエシュアが来られて、神の古い呪いの律法を破棄し、
厳しい律法から解放されたのだ!
3)神の律法ではなく、新しいキリストの律法に生きるのだ!
と、神の教え、契約に2種類別物があるという嘘を教えられ
それを信じているのです。
そうでしょう。神が破棄した悪者である神の教え、言葉を、
昇天以降、信じた後も、今だに生きている恵を捨てた生き方だ?!
意味不明な聖書解説を本当だと思い込んでいるからです。
神の教えが悪者?神の教えが廃れる?何を根拠にそんなことを
言うのでしょう!そうです。それら全て反ユダヤ思想、反トラー思想
イスラエルの神と、その神の教え、生き方、神の教えを生きるユダヤ人を嫌悪する人たちが、作った思想、考えです。
1世紀当時からずっと続いて来た、ローマ帝国のユダヤ、
トラーヘート(嫌悪)思想により、西洋教父達、ローマ教皇、
皆神の教えは廃れた!神の記念日も廃れた!ということにしてしまったのです。
人間の犯した大罪、やってはならない、神への冒涜が本当の理由
原因は明らかなのに、クリスチャンはその事実さえ、全く教えられてもいないのです。
いや、調べれば、歴史の中でローマ帝国が何をしたのか、分かります。
聖書を調べれば、クリスチャンの間で教えられている、神が神の言葉を終わらせた、神が安息日を日曜日に変えた!ということは、
実際は、1つも聖書には記されていない、根拠のない人間の主張に
過ぎないからです。
そして、神は人間が神になり代わり、神の教え、記念日を変えること
厳重警告で、禁じています。神が人に、今はいつでも神の記念日
安息日として選べば良い?パウロの手紙、ローマ14を、そんな勘違いした間違った読み込みが、堂々と横行し、浸透しているだけです。
大衆が、主張する人の数が多ければ多いほど、長年語り継がれているから、それが真実だとはならないのです。
根拠は、全て神の言葉、神が伝える事実以外にしてはならないのです。
このように神が定めた境界線=罪の定義を人が取り払うから、
人が、罪が何とも正しく理解せず、分らず、自分定義、又はローマ
教が作った定義が神の教えだと、悪へと傾くことをしやすくなって
しまったのです。
なぜなら、神の教えではなく、人間が教えの基準、判断の基準になってしまったからです。
神の特別な介入、神の教えの理解がなければ、人は本当の意味で
神の意図通りに向かうことはできません。
アブラハムと別れたロトは、悪が蔓延る地、ソドムの近くを選び
住んだのです。
アブラハムは神の召し、呼び出しに聞いて、神の示す場所に行った、
悪が蔓延る地から、離れて住んだのです。
聖書には、神が定めた境界線=聖別を基準に、人が神が伝える事実を
生きるのか、それとも人間が考える思想を生きるのかで、
別れてしまったのです。
神は、様々なことを通して、聖別された人、神の性質に属する人の
生き方を教えています。
「割礼」は、境界線、分たれた人の印、信仰義認、譲渡契約が永遠に
存在する、神が取り消し不可の契約を与えた「印」なのです。
そして、神の民とされた人に与えられた印が「シャバット」です。
これは、神の花嫁とされた人達へ、婚姻契約に加えられた人全てに
与えられた、生きて、実際に体験、目にし、神との特別な出会いを
約束された祝い日を与えられたのです。
そして、シャバットを中心に、神との特別な会見、祝い、イエシュアの預言的業を表す神の3つの都上りの祭り、過越、シャヴオート、
仮庵の祭りです。
日本でも、海外でも王室がある国は、その王室のメンバーは、普通の人とは違う、記念日、しきたり、文化、儀式を生きているでしょう。
一般の人の生き方とは、区別されているからです。
神の家に属する人は、どの王=主=神に属しているのか、目にみえる
形、生き方、記念日を祝うことを通して、全世界に灯台=世の光と
しての役割を与えられているのです。
異教の神々の国の人たちとは異なる生き方、記念日を祝う。
イスラエルという名は、イスラエルの国に住む人ではなく、
イエシュアを通して、父なる神の元に戻った人全てに与えられている
神の大家族の苗字です。アヴラハムの子孫は、単に肉的生まれ生物学的な人が、本当のアヴラハムの子孫ではなく、神のトラーを愛し
神が伝えることを愛し、尊重し、聞いて、それを自分の生き方として
生きる人、それが神の民であると、神がはっきり人に教えているのです。イザヤ56に、神のシャバットを愛する異邦人と代表の言葉で書かれているのは、神の仰せを愛し、神が愛し大事にするモアデイムを
神と同じように大事にして生きる人は、神の家の最も近い場所、
親しい場所、祈りの家に未来直に招くと預言されているのです。
人の生き方、記念日、それは、「誰に属している人か?」を
生き様を通して示す印なのです。
契約の印を生きている。地の塩、世の光とは、神を愛し、神の仰せを
愛し、神の伝える通りを地上でそっくりその通りに映し出す、
天の祭司としての生き方をしている人のことなのです。
イスラエルの神に属している、神の者であるという宣言、表明は
思想ではなく、その人の生き様、神に言われた通りを生きているか
いないかで、示されるのです。
だから、こう書いてあるのでしょう。
ヤコブ2:20 ああ、愚かな人よ。行いを伴わない信仰のむなしいことを知りたいのか。
2:21 わたしたちの父祖アブラハムは、その子イサクを祭壇にささげた時、行いによって義とされたのではなかったか。
この箇所、読み間違えてはなりません。
アブラハムは、既に信仰による義を与えられて、聖霊が内側に住まう
実態を持っていたのです。
だから、神と対話し、神がこのように理解し難いことを、しなさいと
命じたことに、その通りに聞いて、行おうとしたのです。
イサクも幼い子ではありません。成人の年です。
抵抗もできたのです。何が起きているのか、理解して、父アブラハムについて行ったのです。
義とされた人は、義とされた人の事実を、行動、行いで表すのです。
それを、言っているのです。
神が言われたことを、この時もその通りに受け取り、その通りに
実行した、それが神の前に義であると認められていると書いてあるのです。
これをしたから、アヴラハムが義とされている事実を与えられたのではないのです。
義とされた人が、その実態通り、神の言われた通りを信じて、実行し、生きた=義を生きたと認められた!という意味です。
神に義とされた、新しい人とされた人は、もれなく、神が提示する
婚姻契約に記された神が教える生き方に、切り替え、軌道修正すると神が教えているのです。
人間の作った宗教は、信じたら、後は自由に生きて良い!という
嘘を教えています。そんなことは、聖書に1つも記されていません。
2:22 あなたが知っているとおり、彼においては、信仰が行いと共に
働き、その行いによって信仰が全うされ、
はっきり書いてあります。神が言われた通りを信じていること、
それを実際に生きること、その行い、実践により、見えに見えない
その人の内側にある信仰が証明され、全うされるとあるのです。
神を信じる人が、神の教えを捨てよ!と自分にも、人にも言い続けて
神に敵対する生き方、神の教えを捨てたら、何を生きたら良いのか
実際には分からなくなります。
自己中心、自分が基準の勝手な思想を生きるからです。
それが、人間が編み出した人造宗教〜混ぜ物の宗教の実態なのです。
勝手な主張を、人間中心になり、言い続けやり続けている。
2:23 こうして、「アブラハムは神を信じた。それによって、
彼は義と認められた」という聖書の言葉が成就し、そして、
彼は「神の友」と唱えられたのである。
2:24 これでわかるように、人が義とされるのは、行いによるのであって、信仰だけによるのではない。
2:25 同じように、かの遊女ラハブでさえも、使者たちをもてなし、
彼らを別な道から送り出した時、行いによって義とされたではないか。
2:26 霊魂のないからだが死んだものであると同様に、行いのない信仰も死んだものなのである。
神の教えを実際に生きていることは、形式ではなく、
「だれに属しているか」を行動で表す、示す印、表明です。
人は、人の行い、行動、生き様を通して、その人の内側にある
目に見えない信条、思想を知るからです。
クリスチャンの間で誤解されているのが、行い=律法主義などと
勘違いしていることです。
律法主義とは、神しかできないこと、人を生まれ変わらせる、義と
される事実、罪の赦しを受け取ることを、人の行いでやろうとする
それが律法主義です。
神の教えを生きることを、律法主義と勘違いしているでしょう。
では、クリスチャンは一体何の教えを生きているのか?と
自分で考える必要があります。
人の思想ですか?マタイ以降に書いてあること?それでは、
そこに書かれている教えは、モーセの五書=トラーのほんの少しの
引用しか書いてありません。そこには、神の教え=トラーを否定する
終了した教えも書かれていません!神の教えの全て、完全版も書かれていません!ほんの少しの教えしか、書かれていません。
安息日も、祭りも別の日に変わっていません!
私達は、神の教えを退ける自由が与えられたのではありません!
罪に縛られない、本来の生き方に生きれる自由、解放が与えられたのです。聖書を間違った解説をしているのです。
何でもする自由とは、聖書では、それを、「無法」アノモスと
警告しているではないですか。アノモス、神の教えを捨てる生き方を
することです。アノモスを警告しながら、同時に神の教えを捨てて良いなどと神が人に教えたら、その神は、分裂症の神であり、イスラエルの神ではありません!
神は神の提示した婚姻契約の生き方、エレミヤ31に記された
未来、頭脳に皆割礼がされ、神の教えを理解して生きている。
イエシュアをメシアと知っている。
それが、神が人と共に住む、神の壮大な計画の最終ゴール、
目的であり、それが起きるのです。
しかし、共に住むことは、別物の生き方と混ざることではありません。
未来、イエシュアが統治される時、日曜礼拝、クリスマス、イースターの祭り、ハロウイン、その他、イスラエルの神に属さない全ては
全部消えます。人間の作り出した日を、主の日などと偽証することは
全部なくなるのです。
神に敵対したエジプト=代表国の名で表せられるように、その国の
代表が、神の祭りで、エルサレムに上るようになると預言されています。
イコール、シャバットを第7日目に祝い、新月、神の祭りの全てを
全ての人が祝う時が訪れる預言が、はっきりされているのです。
そして、人間、ローマ帝国が作った別物の教え、宗教の教え、
実践記念日、儀式は、全部消えます。
LGBTを生きることも消えます。イスラエルの神に属さない全ては
全部消えます。