神の伝える教えを正しく把握する | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

永遠の中に屠られた子羊イエシュアの血の代価、贖いは、エデンの

園の最初からずっと教えられています。

 

預言者を通して、最初からメシアが伝えられ、それが聖書になっているのです。

神の性質、言葉、教えは、西洋人=異邦人が語るように、変わったりしない性質です。

 

神が紹介していない、神の性質、神の言葉の性質を、人が勝手に

言い換えて、それを拡散し続けていることに、神の言葉に基づき

はっきり目覚めれば良いだけなのです。

でも、最初からの警告通り、騙しがあるのです。

騙し〜嘘、神の言葉を疑わせ、そこから神の言ったことではないこと

神が言ったことにしている、その教えが膨れ上がっているのです。

もとは、人間の仕業です。

神の言葉、教えが曲げて解説され、神が創造された記念日も、

別物に変えられているのに、それがあたかも、本物、人間が作った

別物が本物と思わされる騙しから、多くの人が目覚め始めているのは、終わりの時、修復、もとに戻る。

聖霊により記された神の言葉=神ご自身=聖霊ご自身が、神の言葉の

事実を、神を求める人=神の伝える真実を求める人に、神が伝える

永遠普遍の事実を伝えるからです。

 

子羊の血の贖いの代価の事実は、永遠の中に完了、完結しています。

 

創世記 6:14 あなたは、いとすぎの木で箱舟を造り、箱舟の中にへやを設け、アスファルトでそのうちそとを塗りなさい。

 
この箇所を、翻訳だけを読んでいても、本来、元の本当の言葉の意味が、見えない、おおい隠されて、事実が見えないのですが、
ヘブライ語、言語を見るとそこには永遠の真実が記されています。
 
神の言葉は、真珠のネックレス、命の木のように1つに繋がって
います。
 
アスファルトと、塗るという言葉は一体何を意味しているのでしょう?
「アスファルト」と訳されている言葉は、ヘブライ語では、
כֹּפֶר コファーという言葉です。
この言葉は、契約の箱の「蓋」、「贖い」の言葉と同じ語源です。
1)本来の意味で)覆い、すなわち(文字通りには)囲われた場所としての村

2)(特に)塗布に用いられる瀝青(アスファルト)、

および(染料として用いられる)ヘンナの植物

3)(比喩的に)贖いの代価(身代金)

 

なだめる、贖罪を行う、清める、無効にする、赦す、憐れみをかける、和らげる、容赦する

 
そして、「塗る」という言葉は、כָּפַר カファール
 
覆う、舗装す、(比喩的に)償う、大目に見る、なだめる、取り消すという意味です。
発音だけ聞いても、似ているので分かります。
大贖罪日の、「キプール」という言葉の意味も、契約の箱の蓋を、
贖いの蓋「カポレット」と言いますが、全部意味が繋がっています。
 
この「箱舟」皆がこの船の中に入った後、神ご自身が戸を閉じたのです。
そして、この箱舟には、ハンドル、「操舵輪」がありません。
車や、他の乗り物も同じですが、ハンドル、操縦がない乗り物なんて
ありません。人がその乗り物を操作するのです。
詰まり、箱舟は、水の上を、神が示す通りに、神に100%委ねた
状態で浮かび、進んだのです。
100%神がキャプテン、操縦士であり、人は神が運び出されるように、ただ水に浮かんで、運ばれる、それが地上の人生なのです。
そのプランに、無理に逆らう、自分の考えた操縦通りにしたいから
神のプランとズレて、摩擦し、疲弊するのです。
そして、水、洪水で全てが洗い流された。
生ける水、イエシュアを通して、新しくされた。
同じことをずっと教えているのです。
出エジプトの出来事も同じです。
そして、約束の地に入る時にも、再び水を通ったのです。
 
水を通り、贖い出されて、新しくされ、神のものとして娶られた。
その人たちは、神が創造された元の実態〜イエシュアの性質を生きる。イエシュアの性質通りの生き方は、モーセの五書=神の言葉で
教えられているのに、それを捨てよ!と教える、蛇の声はずっと
付きまとっているのです。
ノアの洪水は、創造の回復。創造を繰り返しているのです。
創世記8章を読んでみてください。
水が分かれて、乾いて、地が表れ、そして、創造の最初と同じことを
神が宣言しています。
 

創世記 8:20 ノアは主に祭壇を築いて、すべての清い獣と、すべての清い鳥とのうちから取って、燔祭を祭壇の上にささげた。

9:7 あなたがたは、生めよ、ふえよ、地に群がり、地の上にふえよ」。

 9:8 神はノアおよび共にいる子らに言われた、

9:9 「わたしはあなたがた及びあなたがたの後の子孫と契約を立てる。

<ノアも異邦人なのです。>

9:10 またあなたがたと共にいるすべての生き物、あなたがたと共に

いる鳥、家畜、地のすべての獣、すなわち、すべて箱舟から出たものは、地のすべての獣にいたるまで、わたしはそれと契約を立てよう。

 

ノアが神に言われた通りに作った箱舟は、イエシュアを表すものでも

あるのです。これは、「仮庵」「ミシュカン」とも繋がっています。
そして、神が人の中に住まい、人も神の中に住まうことを、ミシュカン、仮庵で教えています。
しかも、人として生まれた。母、ミリアムが選ばれて、そのミリアムの中に、イエシュアが宿ったでしょう。神が人の内側に住まう!
神が人となって、贖いう人となった ことを、証明されたのです。
 
神が一方的に用意された贖いの代価、子羊の血の代価は、
神の民が聖別され、神により伝えられた通りの箱舟を作り、
その周りをコファーで塗ったこと、コファーと、それを塗る行為でも分かります。
エジプトで子羊の血を鴨居に塗ったこととも、繋がっています。
子羊の血の贖いの代価で覆われている事実を、最初から教えているのです。
神の言われた通りに、箱舟を作り、神が言われた通りのコファーを塗り、その中に入ったのです。
しかも、ノアはきよい動物7つがい、きよくない動物2つがいを
箱舟に入れなさいと言われて、何がきよい動物で、何がきよくない
動物か理解していたのです。
細かい説明がないだけで、最初から神の同じ教えが、神により口頭で
人に伝えられたからです。
 
契約の箱の中には、神の言葉=契約の題目である10の言葉が
刻まれた板と、地上の大祭司、アロンの杖と、マナのツボが入って
います。
神との関係に修復され繋がれている事実は、神が提示されたこの
「契約」を土台に結ばれていることを、最初から教えているのです。
 
翻訳では、元の意味が覆い隠されて見えません。
神は、ヘブライ語の言葉を通して、重要なメッセージを人に伝えています。それゆえに、注意深い学びをして、人に伝えるのが、
神の言葉を伝える教師の重い責任があるのです。
 
カインとアベルが捧げたコルバンもそうです。
何を神の前に捧げるのか。
そのコルバンは、イエシュアの贖いを表しているものなのです。
初穂、初子。神が提供したシミ、傷、欠陥のない子羊の血の代価を
最初から教えているのです。
誰もイエシュアを通して以外、父の元に戻れない!ということは
最初から教えられていることを、イエシュアが解説しているのです。
コルバンは、人の罪を消しません!その前提からだけ、神が教えている事実を正しく捉えて理解する必要があるのです。
 
イエシュアは、実際には動物の子羊はではないですが、シミ傷のない子羊、これは、シンボルなのです。
本体を表す影と教えられていることと同じです。
目に見えない実態を、分かるように教える学習ツールです。
コルバンは、イエシュアを表す動物です。
収穫物も、初穂を捧げ、イエシュアを表すものなのです。
神が提供した贖いをコルバンで教えているのです。
コルバン=イエシュアを通して以外、神の前に出られない、
神との関係は、修復、元に戻らないことを教えているのです。
 
聖書を読む前提が最初からずれているのです。
神の性質と、神の言葉の進化論は、聖書とは真逆な人の思想です。
生贄と訳されているコルバンは、罪の赦しのためにするのでは
ないのです。
これ考えれば、分かるでしょう。
目に見えない天の神の家を地上で、そっくりその通りに作らせ、
そして実際に、神の臨在がその中にあったのです。
火と雲の柱に導かれ、荒野を旅した。雲が止まったら止まり、
雲が進んだら進む。そして、神だけにより、全ての必要を与えられた。荒野をついて来た岩=イエシュアです。
いのちの水を湧き出す岩=イエシュアは最初から教えられていたのです。パウロは適当に自分の考えを、書いているのではなく、
トラーに記された事実を解説しているのです。
 
神の家を通して、人に神の実態、教えを教えたのです。
神を中心に、12部族と、少数の異邦人が共に住んだこと。
神のミシュカンを12部族が取り囲み、お互いは、ミシュカン=神を
通して向き合うように、教えられ、そう生きたのです。
画像、絵、物理的な家があったら、それを通して、目に見えない
天の家、神の家族の生き方を、実体験的に神から教えられていた
それなのです。
 
イエシュアが来られる以前は、生贄を捧げて一時的に古代の人は
許されたとか、ユダヤ人だけがそうすれば良いとか、聖書を読み違えた解説だけを聞くから、何を神から教えられているのか、分からないままになるのです。
誰一人、歴史の中で、行いにより義とされ、許された人はいない!
という事実が、はっきり書いてあるのに、どうして神の教えを塗り
替える解説を言い続けているのか?それは、聖書を正しく理解していない人の解説だけを聞かされて、教えられてしまうからです。
 
神は、中途半端な救い、贖い、許しなど人に与えません!
人が罪、ズレに気づいて、それを神の前に捨てたら、告白して、
修復したら、その瞬間に許されているからです。
どの時代の、どの人も同じ。詩篇を読めば、それは顕著に分かるでしょう。
神の教え、契約の完全版は、モーセの五書に記されています。
神の教えを捨てて、マタイ以降だけを読んでみても、そこには神の
教えの完全版は書かれていません!
しかも、最初の部分を知らないまま、聖書の最後の25%の本当に
短い後書きをちょっと読んだだけでは、神の教えの本来の意味が
正しく見えません。
 
申命記は、古代中近東に実際に存在した「宗主契約」と同じ形式で
記された契約書です。
契約書の完全版です。これが、約束の地に入る前に再更新された
同じ契約=シナイ山で与えられた契約なのです。
この同じ契約は、時代の節目節目で再更新されています。
中身は同じです。受け取る人の人数、状態が違うのです。
最後にこの同じシナイ山の契約が再更新されたのは、1世紀の
過越の祭りの中、イエシュアが弟子たちに向けて宣言された
再更新された同じ契約なのです。
神の教え、神が創造された人の本来の性質=神の似姿に造られている事実は変わらないから、契約の内容は変わらないのです。
 
約束の地に入った以降、荒野を旅する放浪生活ではないので、
固定式神殿が作られ、そして、作物を得ることが始まりました。
そのような違いはありますが、神の教えは変わらないのです。