内住の聖霊の事実 イエシュアはミシュカンを通して実際に人の中に住まう事を通して教えていた | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

イスラエルの神の家に住まう人々は、神に聖別された人であると教えられています。

神に聖別されているとは、神の目的通りに分たれた人であるという

意味です。

それは、ユダヤ人だけではなく、全世界の民族の父、元は異邦人の

アヴラハムに与えられた契約、信仰義認、神の一方的な提供〜譲渡

契約、神がこの世界を創造される以前から既に用意して完了されて

いる神が差し出して用意して下さった、永遠の中に屠られた子羊の血の購いの代価を通して、信仰によりその事実を受け取り、創造主、

父の元に戻った人、神に繋がった人はもれなく神に聖別され、この世とは分たれ境界線を敷かれた人々であることを教えているのです。

 

聖別された人は、この世、異教徒、異教の神々に仕える人の生き方

生活習慣、衣食住全ての領域に於いて、違う!という事を最初から

はっきりと教えているのです。それが元々神に創造されたイエシュアの似姿そっくりのアダムの姿、生き方だからです。

異教徒、異教の神々、偶像礼拝が入った理由は、神の考え、神の伝える通りではないことを、人がし続けているからです。

 

偶像礼拝、偶像、その元は、人の頭の中にある考えです。

形、偶像で神々を作らなくても、形で現れる大元は、自分の中にある思想、思索=イスラエルの神に属さない別の考え、生き方、これら

全て偶像なのです。それが、人造宗教のパン種なのです。

 

人の思索、この大元は言葉ですが、その考え、イメージを具現化、

具体化、形、又は文字で書かれた宗教の書にすれば、それは目に見える形で表れ、その思想を実際に生きることで、偽物の神々に仕えることが、人の生き方を通して現れ出るのです。

 

だから、イエシュアが、人の中で罪の種、姦淫、不品行を考えれば

それは既に、罪を犯したのと同じこと、同じ実態だと言われたのは、その種=思索そのものが、罪、目に見えない罪、形に現れていない

偶像だからです。

 

神に聖別されたという意味は、異教徒とは区別され、境界線が敷かれ神の中に住まう人は、神の性質=イエシュアの性質通りを生きるように教えられているのです。

 

ローマ帝国が作った人間の宗教の教えは、人間の教えで神の教えを

好き勝手に時代ごとの、状況、環境、人々の思想、様子に合わせて

変形、削除しています。

又は神が教えている、聖書には書かれてもいない事を、人にするように教え、強要していますが、神は、神のものとなった人たちは、

どのように生きるのかを、神ご自身が、神の言葉で人に伝えているのです。

これは、人が理屈をつけて、神の言葉や教えを捨て、神の教えを無視していても、神は今も今日も変わらずに同じ事を人に教え、伝え続けている事実は、人が否定しようとも永遠に変わらないのです。

その永遠の証拠が、文字で記された聖書なのです。

聖書に記されている永遠普遍の事実を、人間が編み出し思想、宗教、教理で、神の言葉、教えの解説で、神の言葉の事実を覆い隠しているだけなのです。

 

神が提示したシナイ山で文字として永遠の証明である婚姻契約=

トラーを与えられたのです。神の民が生きる全ての詳細、全貌を、

神は文字として永遠の証拠として、神の民〜聖なる民に与えたのです。

クリスチャンは、神の教えには、「2種類の別物がある」と教えられているでしょう。

古い教え=律法、新しい教え=霊に仕える教え?

そして古い教えを、律法と呼び、イエシュアは人を律法を生きることから解放されるためにも、地上に来られたと、空想ストーリー

聖書に書いてもない仮説、偽情報の教えを、書いてあるが如くにことごとく刷り込まれ教えられ続けているのです。

 

聖書に書いても無い教え、架空の教えを、書いてあるという、

空気椅子、裸の王様の服と同じく、それらの出所は、はっきりしているのです。神ではなくて、ローマ帝国勅令=神のトラーを生きることを禁じる!という、白蟻の巣は、ローマ帝国、人間の違反、神に対する大冒涜、罪から来ているのに、それを知らない人々が、そう教え

続けているのです。

聖書に記された神が伝える「罪」の定義とは、神の教え=トラーに

反すること、違反する事が罪なのです。

これが大前提なのに、その罪の定義そのものを、廃れた!と捨てて

いれば、神の前に何が罪であり、何を生きよと教えられ、何が聖別を

定義する生き方なのかも、分からないまま、自分よがりの教えを

生きてしまうことをしているのです。

 

神の言葉に対して、本当に敵対心を持たされている事に、気がついていますか?律法、古い、悪い、関係ない、無用!と、条件反射の如く即座に反応しているでしょう。

神の教えに、古いも新しいも2つ分裂した別物の教えはないという事にさえ気がつけず、古い教えは廃れた〜と言っているのです。

それならば、マタイ以降に知るされた神の教え=トラーの抜粋も

全て100%消滅しなければならないのです。

なぜなら、イエシュアが語って教えて生きた教えは、モーセの五書

以外にないからです。言っている意味が、意味不明なのです。

 

ローマ教、ダービーが主張するように、神に創造された人は、時代ごと、人種ごと、変化、進化する別の種類ではありません。

同じ人間です。

どの時代も、神に創造された人間の構造、中身は同じでしょう。

神の創造された生き方に反したら、破壊される、傷づく、悲しい

同じです。人の必要も同じです。

もし人種ごとに、人間の中身、構造、全てが異なるならば、

それは別の生物を神が創造されて、別種だと分かりますが、

人間は、目の色、肌の色が違っても、同じ人間です。

神の教えも変化、進化しません。なぜなら、神が創造された人が

変化、進化などしないからです。エデンの園から同じ。

神が創造された人の性質は最初から同じ、イエシュアの似姿通りに

造られた事実は、変わらないからです。

そして、全ての人は、アダムから出て、同じ土=アダマ=同じ要素で造られて、神の似姿というDNA、同じデザインで造られているのです。

だから、エデンの園最初の人と、全世界の全歴史上の人が全て繋がっているのです。エデンの園から、いや永遠の中に遡り繋がっている

事実からだけ考えれば見えて来ます。

人が一体ではない、繋がっていなければ、アダムの犯した罪は

人類全体に、今の時まで影響は与えないからです。

 

異教の神々、この世の神々に仕える人々、イスラエルの神を知らない

異教徒の世界の生き方とは違う、彼らと同じ生き方をしない、

異教の神々に仕える人がするような事に交わらない!

そのような生き方と完全決別する事を、最初から神は教えています。

アヴラハムが神に呼び出されて、突然異教の神々の地、異教の神々を

礼拝する親、家族、親族の全て、そしてそれらの教えから完全決別

直ちに決別せよ!!と言われた事は、それです。

パン種を取り入れて、引きずったまま生きてはならない!

 

天に存在する「神の家」実際にあるのです。空想、架空ではなく、

実在する天の神の家、目に見えない天の領域、神の家を、神はモーセにシナイ山の上で見せました。天がそのまま降りて来た。

神が降りて来た。見た通りの天の神の家、そっくりそのままを地上で作られせたのが、ミシュカン、移動式神の神殿幕屋、天幕と呼ばれるものです。

神がモーセを通して、人々に地上に作らせたミシュカン、移動式神殿これは、仮の宿、仮庵、イエシュアが私達の内側に住まう事実を最初から教えています。

移動式ミシュカン〜朽ちる体の中にイエシュアが既に住まわれている。神の宮であるとクリスチャンも自分をそう呼ぶでしょう。

その神の神殿の中、祭壇の上には、豚、汚れた動物は持ちこめない。

神の祭壇にも、けがれた動物〜清掃動物は捧げられない、

神の宮である聖別された人も、それらを食して神の宮を汚せない!と神が教えている意味を理解しないとなりません。

それらの行為は、おぞましいものであり、神の聖別を汚す行為なのです。

目に見えない神が、目に見える地上のレプリカである神の家=

ミシュカン=シャハン=住まう、神の臨在が住まう家を通して、

神の臨在とイエシュアご自身を、実体験、五感を通して日々体験できる神の家を作らせたのです。

ミシュカンは、動物の皮の3層で覆われています。人の皮膚の構造と同じです。

この人間の手で作られた天の神の家のレプリの中に、実際に神の臨在があったのです。

トラーが人となり地上に来られ、人のうちに住んだとヨハネが言ったのは、このミシュカンを指して語っているのです。

人間の手で作ったミシュカンの中に、神の臨在があった。

天幕=イエシュアが、人の間、中に住まったとあるのです。

イコール、神であるイエシュアが肉体をとって来られる事を、最初から目に見える、手で触れる、五感を通して体験するミシュカンを通して教えていたのです。

神の臨在がこの動物の皮で覆われたミシュカンに存在するならば、

人として神が来られる事も、人が理解できるからです。

 

このミシュカンはイエシュアそのものを表し、同時に、朽ちる仮の

体である私達一人一人、イエシュアを通して神の元に戻った人の

内側に神の臨在=イエシュア=聖霊が住まう事を教えているものなのです。

未来は固定式神殿、朽ちない体を与えられることを表しているものでもあります。実際に未来、固定式神殿がエルサレムに存在するようになるのです。

神は、目に見える物理的なことを通して、真理を教えています。

霊的=見えない世界と、見える世界=物理的は1体です。

本体=目に見えないもの、影=地上に映し出されるもの

イエシュアが地上で現れ出るのは、イエシュアの性質通りを生きる

聖なる民を通して表されるのです。

 

神はモーセに言われました。

神がモーセに見せた天の家、そっくりその通り、そのままを作りなさいと。これ、重要な意味があるのです。

神が言われた通りではなければ、それはそっくりそのまま天の家を

反映するものが、地上に現れ出れないからです。

人間が作った宗教の教えは、神が伝える通りではないことに

ことごとく塗り替え、作り替えている事に気がついて下さい。

だから、神は神の教えに対して、何一つ、付け足し、差し引き、

人間が手を加えてはならない!と大警告しているのです。

 

人が作ったものも同じでしょう。設計図も、少しでも寸法や素材を

変えたら、設計した人の意図通りのものは現れ出ないでしょう。

作曲者が作った曲を、ある部分を変えたりしたら、その元の音楽は

現れ出ない、それと同じなのです。

神の言われたことを、人間が変えて良い!という思考回路こそが

偶像礼拝の根なのです。

 

聖書に書いてもないこと、今は神の教えは廃れ、なんでもあり、

今はいつでも安息日、気持ちが大事なのだ〜!こんな教えをクリスチャンが聞かされて、それが神の教えだと偽情報を信じていますが

神はそんなことは言っていなどころか、そのようなことをすること

厳重警告しているのです。

神が神であると認めることは、神が言われた通りを信じて、その通りに実行し、生きることで、その人は神を信じて、神に仕え、神を

愛していることが分かると、イエシュアはトラーに記された父の教えをそのまま話しています。

 

創造主である宣言でもある神との関係にある「印」として、神が

神の民に与えたシャバットを、異邦人はこれほどに軽々しく、

別物に変えた、その大元はローマ帝国であり、神の教えを生きる事を禁じたギリシャ帝国、バビロン、アッシリアetcです。

 

人が神に敬意を表す、神を神とする行動は、神の言われた通りを

人間が変えず、神が言われた通りを受け取り生きることを通して

表されるのです。

神が言われる通りをしない、イコール、神を無視している、神より

自分の考えが上であるということを、行動、生き様により証明していることです。

クリスチャンは、気持ちさえあれば、今はいつでも礼拝日=安息日などと言っていますが、それは、本質をすり替えて、神の教えの方を

捨てて曲げた、勝手な発言、行動でしょう。

神はいつでも、なんでも良いなどと、いつ言いましたか?

パウロの、ローマ14、コロサイ2を、神のモアデイム=聖日が変わったなどと、間違った読み込みをしていることが問題です。

 

その発言こそが、神の言葉、権限、宣言、権威をハイジャックして

いる罪であるということに、先ず気がついてください。

人が考えること、それは神の考えではないことに、人間が神から勝手に主権を奪い乗っ取り、神の真実をイエシュアを信じる人が塗り替えて世界へ、イエシュアではなくローマ教の影、映像、実態、偽物

混ざり物を映し出していることに聖書から気がつけないとなりません。

神はなんでも良いなら、最初からそう言います。

神を信じるという基本は、神が言われたことを、その通りに受け取り

信じて、実行、実践することなのに、人間が作った宗教は、

人間が神の教えと記念日を自由自在に変えたのです。

しかも、その教えは、神を真っ向から否定する、神の教えを人間が

自由自在に勝手に塗り替える思想、行動です。

そして、作り変えられた聖書にない宗教の記念日は全て!全て!

異教神の祭りをパクった混ぜ物の偽物、神が最も忌み嫌う!と警告している高きところの礼拝、姦淫の罪と神が警告していることをしています。

異教の神々の神殿を、イスラエルの神の神殿として変え、捧げ、

異教の神々の祭りをキリスト的なものに作り変えた、それらを通して、イスラエルの神に勝手に近づくことをしているのに、気がついていないのです。