マタイ以降だけを読んでも、その箇所、聖書の後書きの25%には、神の教えは少ししか記されていません。
神の教えの完全版は、モーセの五書の中に記されているからです。マタイ以降は、ほんの短いタナックの註解であり、預言者ではなく、使徒が書いた書簡なのです。預言者が書いた神の言葉を塗り替えるようなことは、使徒が書いた書簡には1つも記されていません!
マタイ〜黙示録にある人々の聖書とは、モーセの五書、預言書
諸書だけ!それを世界へ教えたのです!
彼らの教科書は、タナックだけであり、イエシュアも、パウロも
使徒たちも、タナックだけを教えたことを考えてください。
マタイ以降は、全てタナックの短い短い短い解説であり、註解書なのです。書いてある意味を、完全に誤解しているでしょう。
どうして、律法=神の言葉は廃れたと言う大嘘を信じて、ローマ帝国皇帝の作った思想を信じているのか?
歴史の中に起きた事実を教えられていない。神の言葉が神が言う通り、変わらないと言うことを、聖書から、神の言葉から正しく学ばない、教えられていないからです。
聖書ではない、その代わりに、人の編み出した思想で、聖書を
変換して、違う意味で読み込みしているから、神の語る永遠不変の言葉、事実が見えてないのです。
そのズレ、罪を聖書から気がつかないと危険。
はっきり事実を言えば、異邦人は、正しく聖書を教えられていない、教育の欠如があるのです。
その代わりに、人間=ローマ帝国が編み出した宗教の教えを
教えられているのです。
知らない間に、神に敵対する発言、行動を、無感覚、神の言葉から識別せず、平気で出来る、しているのです。
イエシュアに属する人は、神が言われた事と違うことは、
言えない、できないと知らないとならないのです。
イエシュア、イスラエルの神に属する人は、本体=神=イエシュアと離れて、別の影=人間の教えを、地上で勝手に映し出し、
イエシュアを誤解させることを教える、神の教えに反する生き方をしてはならないのです。
神の言われることにピッタリ沿った、合った言動、行動をしないとならないのに、イエシュアを信じる人が、神に敵対する言葉を
発言し、神の教えに反した行動、神の教えを捨てている!
知らないから、そうしているのです。
知ったら、一抜けた!となるのです。嘘が嘘と分かれば、嘘を
本当と、2度と言えない、神の教えを捨てて、嘘=人間が作った
教えなどを生きれない!
神の教えを捨て、神が創造された神が今日も呼び出している聖別された日を知らないまま、ローマ帝国が作った教えや記念日を
尊重し、それが神の教えであると、教えられてしまったのです。
ヨム テルアは、聖書の暦の第7月の1日です。新月。
毎年神の祭りの日は、違う曜日、日なのです。
秋の祭りは、聖書の暦の第七の月の第一日目が始まり。
春の祭りは、第1の月の十五日。それが、過越の祭りです。
過越は、イエシュアの最初の到来を表すものであり、
これは、出エジプトで起きた出来事、同じ福音、永遠の中から
ある同じ子羊の血の購いの代価を、イスラエルが通った歴史を
通して、イエシュアのされたこととぴったり一致することを
通して、教えているのです。
購い、救い、子羊の血、救い出されて、人々は神にきよめられ
神に娶られた。その人たちは、イスラエルという民族、国家に
なり、神の民として地上でイエシュアそのものを表して、
神の似姿、栄光を地上に映し出して生きることをする人として
選ばれたのです。
そして、種無しパン=新しくされている人の事実。
イエシュアの命、復活、新しい命=初穂を祝う日。
初穂が意味することが何か、初穂、初子、神の創造された性質
通りを表すもの。
そして、新しくされた人が、神の婚姻契約を受け取る。
それがシャヴートの祭りなのです。
イエシュアの業は、神のモアデイムの時に必ず実現して成就しています。
シャヴオート(ペンテコステ)は、聖霊降臨祭りなどと教えられましたが、それは、聖書で語る祭りの主旨とは違います。
1つは、その祭りは過越の祭りの後、7週後のシャヴートと言う祭りで、だから週(複数)というヘブライ語の名があるのです。
7という数字がずっと聖書に書かれているでしょう。
意味があるのです。完結、完全。修復を表す数字でもあります。
神がトラー、婚姻契約を与えたことを祝う祭りであり、収穫祭でもあるのです。そして、春の最後の祭りです。
この中には、神が教えている福音の深い、深い、真理、真実が
教えられているのです。
最初が大麦、それが過越、シャヴオートは麦の収穫です。
新しくされた人、義とされた人が、神の婚姻契約を受け取った
日を祝う祭りなのです。
クリスチャンの間では、聖霊が初めてその日に人の内側に降った
日だと教えられていますが、それは事実ではありません。
聖霊は、エデンの園の最初から、信じる者の内側に住んでいた
事実が、モーセの五書、預言書、諸書にはずっと記されているのです。
そうでなければ、預言者が、聖霊により聖書を記せません。
アヴラハムもまだ見ない、未来に到来するイエシュアを知って
喜んだと、イエシュアが言われたとあるでしょう。
イエシュアという名で呼ばれることを知らなくても、イエシュア救い=メシアの実態を、残りの民はどの時代でも知っていたのです。イエシュアの実態を、内側に受け取っていた。
そうでなければ、神が神であると認識し、神と関係を持って生きること、神と対話することなど出来ません。
救い、購い、新しい命、許し、恵、祝福を受けていたことが
聖書には書かれているのに、最初の部分を捨てる人には、
聖書に書かれている意味さえ通じないまま、神の教えが置き去り、放置されているのです。
だから、人間が作った教えを、簡単に信じることができてしまうのです。
そして、以前は律法を生きて義とされた!という解説も、
西洋宗教の教えであり、神が伝える事実などではありません。
書いてあるでしょう。イエシュアを通して以外、誰も父の元に
戻れない!神の言葉を生きて、義とされない!
人種も関係ない!1つの方法しかない!
義とされた人が、神の言葉、教え、義の実態を生きる、それがシャヴオートの祭りです。
この違い分かりますか?義とされているから、新しい人の性質を
イエシュアの購いの血の代価=永遠の中から存在する救いの事実取り戻されているから、その人は、イエシュアの性質通り=
トラーを生きる!生きれる!生きるように造られている通りを
生きる!と神が教えているのです。
それなのに、神の教えは廃れた!という大嘘を教えられ、神の
教えが何かも知らないまま、正しく学ばないまま、知ったつもりでいるのです。
でも神の教え、トラーを、大半端折って生きてもいないのです。
その代わり、個人個人が考える所の神の教え、人間が作った
宗教の教えの伝統、教え、記念日を実践しているのです。
1つ1つゆっくり聖書に基づき考えれば、クリスチャンの世界で教えられている教えが、聖書とは辻褄が合わない、所詮人間が
編み出した思想、宗教であることが、見えてきます。
神は、神が創造された性質通りを生きよ!〜〜〜を生きる
それがあなたの性質通りだから。〜〜〜を生きない、それはあなたの性質とはずれた別の生き方だから、それをしない!
簡単でしょう。そんな簡単なことが分からないのは、
アダムとハヴァの罪と同じです。しかも、彼らは完全、罪をズレを知らない人だったのに、蛇の嘘にそそのかされてしまったのです。
義とされた人、子羊の血の購いを信じて、鴨居に血を塗った人たちが、救いだされた。イエシュア=救いを受けた。
その人たちは、神に娶られた!と神が伝えたでしょう。
出エジプト6:7 わたしはあなたがたを取ってわたしの民とし、
わたしはあなたがたの神となる。
わたしがエジプトびとの労役の下からあなたがたを導き出す
あなたがたの神、主であることを、あなたがたは知るであろう。
翻訳だけを読んでも見えませんが、この取るという言葉は、
夫が妻を娶るというヘブライ語の言葉なのです。
そして、イスラエルの神が、彼らの神となった!
娶られた人、新しくされた後に、婚姻契約を受けたのです。
夫が妻に与えた永遠に破られない保証、約束、契約です。
それを、理解しないまま、律法、律法と、蛇の声を聞かされ続けて、神の教えに対して、古い悪い!という敵対心を刷り込まれているのが、宗教の教えの聖書解説なのです。
聖書を正しく理解しないまま、神の1つでシャローム、永遠不変の言葉、教えを、人間が勝手に手を加え、塗り替え、別物に変身させているのです。
出エジプトした人の中には、少数の異邦人も加えられていたのです。
はっきり書いてあるのです。イスラエルが契約を受け取る代表として選ばれたけれど、いつもその中には異邦人の残りの民が居るのです。イエシュアの系図も、異邦人がいるのです。
元々、アヴラハムは異邦人です。イスラエルと言う民族、国家を
神が選び出したのは、神の国を代表する長男、アヴラハムが
全世界の民族の父となったとある通りです。
1つ!1つの人、民族、国家を通して、神の国、神の中に戻る
と言う、全世界の民族に対して神の修復がされるのです。
1つ!!!神の性質は1つ。二つに分裂していません。
イエシュアを信じながら、イエシュアが教えた教えや、イエシュアが祝った神の祭り、記念日を知らない、祝わない、聖書に書かれている通りの事実、オリジナルを学ばない場合、神が教えている深い深い深い真理が見えてこないのです。
私は、全く見えませんでした。字面を翻訳だけ読んで、西洋人
ローマ帝国やダービーが作った思想で、聖書に記されている
本当のことが教えられないまま、宗教の伝統で、自分の空想で
聖書を読んでも、書かれている意味の本当の意味、事実は見えないからです。
祭りと書いてあっても、なんのことか分からない。
それどころか、重要な祭りである意味も、理解していませんでした。聖書が1つとして繋がらないのです。
ヘブライ聖書、トラー、預言書、諸書に記されていることが分かると、聖書全体が、同じことを書いているので、その箇所が
響き合って、聞こえる、見えて来るのです。
詩篇を読んで、レビ記のコルバン、神の祭壇の前での会話が
書いてあるとも読み取れない。
詩篇に書いてある、この日とは、神の祭り、過越の祭り
仮庵の祭りのことが書いてあるとも読み取れない。
詩篇1を読んでも、神のモアデイム、神の時を神の教え通り
祝い生きることが書いてあるとも、読み取れないままでした。
パウロや使徒が、トラーを解説していることにも、気がつけませんでした。
パウロが、生ける供物として自分を神に捧げると読んでも、
それが何を意味していることなのか、レビ記の中に記されたことを、1−7に記された意味を、その通りに知らない人には
ピンとこない内容なのです。何をパウロが言っているのか
トラーを知らないので、分かっていないからです。
大事な情報が欠損して、空想=人間の思想を通して読むと、
隠されて見えないことが、聖書には記されているのです。
福音は、神の教え、トラー、そして神の創造された時、モアデイムを理解しない、生きないままでは、理解できないようになっているのです。
異邦人の世界では、ごっそり神の教えが抜けたものが教えられている。しかも、人間が神の教えを塗り替えた、聖書では無い聖書解説がされてしまっているのです。
ヨムテルアは、新月の日です。ショーファーを吹く日ですが、
神の声、コル、目覚ましコールなのです。
もちろん、神の到来、王の王が来られる目覚ましコールです。
そして、同時に、それは神の契約の生き方に戻れ!と言う
悔い改めと翻訳されていますが、神の教えに戻る!
主の道を備えよ!とは、神の教えとはずれた考えを信じて
ずれたことを生きていること、全て軌道修正して、神の教えに
戻れ!と言う、神からの目覚ましコールなのです。
今イスラエルで何が起きているのか、シャバットで色々と教えて
もらったので、別の記事に書きたいと思います。
確実に、神は残りの民を、呼び戻しているのです。
不思議に思わないとならないのです。なぜ、イエシュアを信じた後、聖書とは違うことを教えられ、聖書にない人造記念日を
祝っているのか?いや、そんなこと考えませんよね。
なぜなら、それが本物!と思っているからです。
神の教えを捨てる、破棄された、廃れた!と教えられて、
聖書に何が書かれているのか、教えられていない、
学ばないから、見えてこない、知らないのです。
聖書ではなく、人間の教え、宗教、神学や教理を教えられ、
学び、聖書に書かれている神の言葉を学んでいないのです。
だから、神の創造された記念日の意味も分からない。
ローマ帝国が作った宗教の教えと、人間が作った記念日
聖書に書いてもない、神の仰せではない記念日を、
厳かに真剣にガードしているのです。