聖書に記された内容の意味の細かい、深い真相、言語が表す言葉の意味が何かということが、よく分からなくても、人の思想で、聖書を語るという事自体が、聖書とはずれた解説をされている
事であると覚えておく、その事実を先ず理解しなくてはならないのです。
聖書は聖書で読み解くと言うのが、絶対的基本的原則があるのに、ローマ帝国製造宗教の教えにより教えられているのは、
聖書を人間の編み出した宗教の教え、デイスペンセーション神学や、置換神学で読み解いているのです。
どんな書物でも同じですが、著者が書いた意味通りを読み取らない限り、著者が書いた事実は読者には伝わらないのです。
著者が書いた事を、自分の意見に変えて読むのは、著者の意図に
反した発言をしているだけです。それは、その人の勝手な考え
です。どう思うか?はその人の感想、印象であり、そのことにより、著者が書かれた著者の意図通りの事実は変わらないのです。
この人は、こういう意味で、こう言っているのだろう〜という、ズレた憶測を信じることになるのです。本当は、事実ではないのに、事実と思う。又は嘘を本当と信じる。
聖書は、預言者が記したものであり、預言者が神から託された
神の言葉の意図通りを、読者は理解しないとならないのです。
神から託された言葉、預言者が聖霊により書かされた言葉を、
人が勝手に思い思いに、人の思想、想像、空想、憶測を通して
考えているから、神が伝えている意味が、その通りには伝わらなくなってしまっているのです。
別の教えの周波数、別の教えのチャンネル=神の教えとは違う
教えです。人間の教え。
犬は、人間には聞こえない領域の周波数、音域が聞こえるのです。
それは、人には聞こえないものなのですが、確実にその音は存在しているのです。
人間がキャッチしていない、出来ないだけなのです。
神の声=言葉が、神の言われる通りを聞けない、キャッチできない、イコール、その音=神の永遠不変の言葉の事実が存在していないことには、ならないのです。
神の言葉は廃れ、律法から解放され自由になった!とそう本気で
蛇の嘘を信じるその人には、神が伝えている言葉、教えが通じなくなるだけなのです。なぜなら、嘘を信じて、神の言葉を捨てる
アダムとハヴァと同じ罪を、ずっと繰り返し続けているからです。
その場合、何が起きるのか。神の教えは熱心に追求しない、
神の教えを正しくなど学ばない。
その代わりに、人間が作った宗教教理を、熱心に聞いて生きる。
大体が、聖書を読まないのです。読んでも、マタイ以降だけを
読む、ある箇所をちょこっと読むという、これでは、聖書に何が本当に書いてあるのか、手がかりを75%も捨てる人には、
神が人に伝えている真実が覆い隠されてしまうのです。
神を求めよ!どういう意味だと思いますか?空想で、主よしゅよと漠然と求める?そうではないのです。
ヘブライ人がこれを聞いたら、神の考え、奥深い所にある神の
考え、言葉を熱心に探り、神の考えを知る!それが、神を求めて
神の言われた通りを生きる事、生きる事、イエシュア=トラー!
と言っているのです。
命の源は、神の言葉の中にあるからです。言葉で造られ、神の
言葉により生きる!とシンプルな事実が伝えられているのに、
命の源である神ご自身の言葉を、捨てよ!!!と蛇の声に
熱心に聞き入り、自分の空想、判断で、神の言葉を自由自在に
仕分けているのが、西洋宗教の教えなのです。
永遠をかけて神を知ること、関係を持つ世界に入れられたのに
その手がかりである、神ご自身、神の深いところにある思索
考えを捨てている!神の言葉を捨てるということは、神との
対話、会話を神とする事を捨てること。
一方的な関わり、ズレた会話、神とのズレた関係、関わりを
し続けてしまうのです。
祈りとは、神の前に自分が様々な訴え、思い、考えを持ち出し
正しい裁判官の前で、安全に何でも言える事なのです。
それが神の家のお茶の間=祭壇の前に出る事で、教えているのです。
コルバン、捧げ物と訳される「引き寄せる、近づく」という
意味の動物を祭壇の前に出す。
シミも、傷も、歪みも欠陥もない動物。
それがイエシュアがされた業で取り戻されている本当の自分を
神が自分に教えているのです。
そして、内臓を全部祭壇に乗せる。
その行為は、自分の中に見えないまま隠された全て=内臓を神の前に全てさらけ出し、一緒に神と共に見る。
これが、口で告白するという意味、神の祭壇の前のコルバンを
通して神と対話する事を、言っているなどと、トラーを知らない人には通じないのです。告白という言葉も、神の言われた事を
自分も同じ様に復唱する事なのです。エデンの園のアダムとハヴァが神の前にしたことと、全く同じであると気がつけますか?
安全な場所、神の中で全部訴えるのです。
そして、神がそれを聞いて、今度は神が見る通り、考えている
通りを、自分に神が語るのです。
その神の言葉を捨てるなら、神が自分に何を言って、教えているのかが、見えなくなるのです。実際にそれがずっと今に至るまで
宗教の教えで、覆い隠されて見えなくされているのです。
そして、神の意図、考えとは違う事であったら、自分の方が
神の言われることに軌道修正するのです。
神を人がゴリ押しの祈りで変えるのではないのです。
変わるのは自分!神の教えが廃れて変わるのではなく、
神の言葉=聖霊に照らし合わせてズレた肉の自分、死んだ自分を
軌道修正、変わる!それを、宗教の教えは、神の言葉が悪いから
変わる、廃れる!という嘘を人に教えています。
軌道修正、変化しなくてはならないのは、人間の方であり、
神の言葉は完全で修正不要!永遠に変わらない!
もし、神の言葉と、神の性質が変わったら、人は信頼に値する
神がいなくなり、生きる基準が揺れる、それが砂の上に建てた
人間の思想ー宗教ーバベルの塔、666、反キリストの教えなのです。
聖書で語られる、「祈り」テフィラの本当の意味は、神の思索、意図を、神の言葉から人が知ること!なのです。
神の言葉を捨てる人には、神が伝える考えが、伝わらなくなります。
自分の考え、ゴリ押し、押し付けて、自分の願いを叶える、
その様なものではないのです。
最後は、神のみ旨を自分がはっきり知り、それを生きる。
それなのに、神の言葉を捨てる場合には、本当に自分の悟りに
頼り生きる事をすることになります。
自分の悟り=人間の考え、神の教えとは違う事を真実だとして
ズレた生き方をしてしまうのです。
神の言葉=ナヴィ=手がかりを捨てたら、必ず迷いでます。
迷っているとも気がつけないままになります。
地図を捨てたら、ナビを捨てたら、違う道にズレても、どこにいるのか、どの方向に行って、何をしていいのか、気がつけないのと同じ。
宗教の教えは、ずっとその偽物地図、偽のナビを人に提供しているのです。
預言者とは、ナヴィーム。神の言葉で人の生きる道を示す役割をしているのです。
預言者=預言書の役割は、神の教え=トラー=婚姻契約を破り、異教の神々の教えに混じり、神の教えを捨て、シャバットを汚し
汚れた豚、ネズミを異教徒と同じ様に食し、果ては、異教の神々の祭壇の上に自分の子供まで捧げるズレた悪魔崇拝で、イスラエルの神を拝んでいたつもりだったのです。
悪魔そのものと、分からない。
聖霊=イスラエルの神か、悪霊=サタンしかないのです。
異教の神々の宗教、混じり物の宗教はサタンが利用している!
異教の神々など本当は存在しない。人間が考えた偶像、架空、
空想、偶像の神です。それを、サタンが利用する、という事を、はっきり気がついた方が安全です。
だから、神の教えを踏みにじり、異教神、太陽神の教えや儀式
記念日に交わり、偽物の混ざり物、まがい物の教えを通して
イスラエルの神を礼拝してはならない!と教えているでしょう。
通じない。主よ主よと言っていれば、なんでもOkと思ってしまう。キリストと誰かが言えば、その教えに賛同して、その宗教
活動に協力しないとならないと、思わされてしまうのです。
人間の教えで耳を塞ぐと、天の領域の周波数、音量を遮断して
神が伝える永遠の言葉、教え、今も変わらない神が人に伝える
真理、神の言われることが、偽物の教えに耳を塞がれた人には、聞こえなくなってしまっている状態が、宗教の教えで覆い隠された本当の神の言葉、教えなのです。
人は神の言葉、神の性質、イエシュアのDNA で造られているのです。
神の周波数、波動とぴったり一致して、本物とは響き合い、
神が伝える性質通りを生きる様に、人は造られているのです。
だから、自分のDNA=神の言葉とは違う事を教えられたら
自分は、イエシュアのに姿ではない、別物を生きて、別物の影を地上に映し出し、本物の自分が誰で、何を生きたら良いのか分からないまま、自分の考えでズレて生きる事をしてしまうのです。
でも、それは神が創造された本当の自分の生き方ではないのです。
祝福、喜び、神と顔と顔を合わせる関係、神が自分が誰かと
伝えている本当の自己像、自分を分からなくさせるのが、
宗教の教えであり、それが偶像礼拝の本質なのです。
異教の神々と関わる意識、関わり方で、イスラエルの神に近づく事をしている。
以下は、聖書ではない、ローマ、異邦人が考えついた思想です。
1)神の言葉が、昇天前後で変化した。
2)神の性質が時代ごとに違う。怒りの神、恵の神。
律法時代、律法が消えた聖霊時代、恵の時代。
3)ユダヤ人と異邦人は別の群れ、別の教え、別の記念日を生きる。
4)神は今はいつでも聖日、主の日、安息日、礼拝日、神の記念日という。又は、人が考えついたいつの日でも良い。
5)ヘブライ聖書と言いながら、実はデイスペンセーション神学で聖書を解説する。異邦人はトラーを生きなくて良いと平気で
言う教え。
この様な教えは、聖書とは何も関係ないローマ、西洋、異邦人
教皇、西洋教父達が考えた教えであり、聖書=神の教え、言葉を人間が曲げて解説しているものなのです。
翻訳を読むのと同じく、元に書かれた本当の意味を知らない場合
聖書に書かれていない思想で、聖書を語られて、それが本当と思い込む現象がずっと2世紀以降、異邦人の間で起きているのです。
一番厄介な教えは、ヘブライ聖書を教えると言いながら、
実は上記の様にデイスペンセーション神学、人間の思想で聖書を曲げて教えている教えです。
神の教えは、今の異邦人には関係ない!と言いながら聖書解説をするのは、全部人間の思想で曲げれらた不純な聖書解説です。
それらはどうしてそうなるのか?ユダヤ人にヘブライ聖書を
学びながら、そのユダヤ人が西洋宗教思想に洗脳されているから
その様に教えるのです。
その人を教えた教師も、同じ様にずれた思想を持って、人に人造
宗教思想、教理、口伝律法=人間の編み出した伝統の教えを通して聖書を教えるから、それが負の連鎖として続いて行くのです。
デイスペンセーション神学ではなくても、ユダヤ人の間でさえも
正しくトラーを解説していない人たちもいるのですから、要注意なのです。それには、元に書かれたことを正しく学び知ることが
何より必要なことなのです。
そうしなければ、自分が信じていることが、聖書の正しい記述
神の教えかそうではないかさえも、知らないままになっている
ということが起きているのです。
でも、これ、安全な教師に出会うのが、困難なのです。
ユダヤ人でも、トラーの本質と外れた思想を持つ人が大勢います。イスラエルのやったヤラベアムの罪、混ぜ物の宗教に賛同していたことが、記されているでしょう。
人間は、神の語る教えではなく、人の思想に惹かれて、神の教えではないものを、勝手に持ち込む事を、エデンの園の最初から
やっていて、それを警告されているのです。
海外に住むユダヤ人で、西洋宗教、デイスペンセーション神学に
洗脳される人もいるのです。
そして、メシアを知らないユダヤ人の間で、異邦人は最初から
契約に加えられていない部外者、蚊帳の外の人などと考えている。だから、ユダヤ人が編み出した改宗儀式、完全にユダヤ人に
なり、改宗する儀式を通らないならば、来たる未来、神の国での
場所、席はないと考えているのです。
これらが、口頭トラー、口伝律法と呼ばれるものです。
あるユダヤ人は、異邦人はノアの法則だけ生きれば良いと言いますが、ノアの法則などありません。
この様に、トラーを正しく理解しない、半分目が閉じているユダヤ人。これらの人は、ユダヤ人の先祖が編み出した口伝律法を
神の教えであるなどと、勘違いしているのです。
とにかく、聖書を、聖書ではない思想、人間の思想や自分の意見で語ることは、聖書ではありません。
聖書を利用して、自分の信じる思想を語ってしまうだけです。
そして、神の言葉が終わり、終了!破棄された、律法の下にいない、恵の下にいるという主張、これらは、書いてある意味を
完全に読み違えて教えられている代償です。
本当に、聖書に書いてある意味を、正しく理解していない人が
聖書の如く、神の教えを曲げた解説をし続けているのです。
そして、錯覚させられてしまうのは、人気の教師、組織が大きい、建物が立派、大勢の人が集まる、潤沢な資金を得ている、
それらが、正しく聖書が語られている証拠のバロメーターではない!ということを覚えておけば、良いのです。
それならば、異教の神々の宗教の建物は資金潤沢で立派でしょう。
資金集まる、人が集まり、イコール、真実、真理ではないのです。狭き門と言われた通りなのです。
簡単にかき消してしまえる、小川のせせらぎに耳を傾けるがごとくに、神の言葉に対して注意深く、正しく理解し、意識を向けて神の言葉を忠実に学び、探り、神に対して忠実に聞いて生きる。
それが、神が求める本当の礼拝者ー神の性質を生きる人のことだからです。
真理は、神の言葉の中だけ!そこだけにたつこと、それが本当
なのです。
残念ながら、異邦人の世界に浸透したのは、純粋なトラー、
福音ではありません。聖書とは異なるローマが作った教え。
しかも、聖書の殆どを捨てているから、語られている教えが
本当に狭い狭い狭い範囲、世界のことでしかないのです。