人の教えが混じるものは純粋な神の教えではなく 人造宗教 | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

聖書に記された内容の意味の細かい、深い真相、言語が表す言葉の意味が何かということが、よく分からなくても、人の思想で、聖書を語るという事自体が、聖書とはずれた解説をされている

事であると覚えておく、その事実を先ず理解しなくてはならないのです。

聖書は聖書で読み解くと言うのが、絶対的基本的原則があるのに、ローマ帝国製造宗教の教えにより教えられているのは、

聖書を人間の編み出した宗教の教え、デイスペンセーション神学や、置換神学で読み解いているのです。

 

どんな書物でも同じですが、著者が書いた意味通りを読み取らない限り、著者が書いた事実は読者には伝わらないのです。

著者が書いた事を、自分の意見に変えて読むのは、著者の意図に

反した発言をしているだけです。それは、その人の勝手な考え

です。どう思うか?はその人の感想、印象であり、そのことにより、著者が書かれた著者の意図通りの事実は変わらないのです。

 

この人は、こういう意味で、こう言っているのだろう〜という、ズレた憶測を信じることになるのです。本当は、事実ではないのに、事実と思う。又は嘘を本当と信じる。

聖書は、預言者が記したものであり、預言者が神から託された

神の言葉の意図通りを、読者は理解しないとならないのです。

神から託された言葉、預言者が聖霊により書かされた言葉を、

人が勝手に思い思いに、人の思想、想像、空想、憶測を通して

考えているから、神が伝えている意味が、その通りには伝わらなくなってしまっているのです。

 

別の教えの周波数、別の教えのチャンネル=神の教えとは違う

教えです。人間の教え。

犬は、人間には聞こえない領域の周波数、音域が聞こえるのです。

それは、人には聞こえないものなのですが、確実にその音は存在しているのです。

人間がキャッチしていない、出来ないだけなのです。

神の声=言葉が、神の言われる通りを聞けない、キャッチできない、イコール、その音=神の永遠不変の言葉の事実が存在していないことには、ならないのです。

 

神の言葉は廃れ、律法から解放され自由になった!とそう本気で

蛇の嘘を信じるその人には、神が伝えている言葉、教えが通じなくなるだけなのです。なぜなら、嘘を信じて、神の言葉を捨てる

アダムとハヴァと同じ罪を、ずっと繰り返し続けているからです。

その場合、何が起きるのか。神の教えは熱心に追求しない、

神の教えを正しくなど学ばない。

その代わりに、人間が作った宗教教理を、熱心に聞いて生きる。

大体が、聖書を読まないのです。読んでも、マタイ以降だけを

読む、ある箇所をちょこっと読むという、これでは、聖書に何が本当に書いてあるのか、手がかりを75%も捨てる人には、

神が人に伝えている真実が覆い隠されてしまうのです。

神を求めよ!どういう意味だと思いますか?空想で、主よしゅよと漠然と求める?そうではないのです。

ヘブライ人がこれを聞いたら、神の考え、奥深い所にある神の

考え、言葉を熱心に探り、神の考えを知る!それが、神を求めて

神の言われた通りを生きる事、生きる事、イエシュア=トラー!

と言っているのです。

命の源は、神の言葉の中にあるからです。言葉で造られ、神の

言葉により生きる!とシンプルな事実が伝えられているのに、

命の源である神ご自身の言葉を、捨てよ!!!と蛇の声に

熱心に聞き入り、自分の空想、判断で、神の言葉を自由自在に

仕分けているのが、西洋宗教の教えなのです。

 

永遠をかけて神を知ること、関係を持つ世界に入れられたのに

その手がかりである、神ご自身、神の深いところにある思索

考えを捨てている!神の言葉を捨てるということは、神との

対話、会話を神とする事を捨てること。

一方的な関わり、ズレた会話、神とのズレた関係、関わりを

し続けてしまうのです。

 

祈りとは、神の前に自分が様々な訴え、思い、考えを持ち出し

正しい裁判官の前で、安全に何でも言える事なのです。

それが神の家のお茶の間=祭壇の前に出る事で、教えているのです。

コルバン、捧げ物と訳される「引き寄せる、近づく」という

意味の動物を祭壇の前に出す。

シミも、傷も、歪みも欠陥もない動物。

それがイエシュアがされた業で取り戻されている本当の自分を

神が自分に教えているのです。

そして、内臓を全部祭壇に乗せる。

その行為は、自分の中に見えないまま隠された全て=内臓を神の前に全てさらけ出し、一緒に神と共に見る。

これが、口で告白するという意味、神の祭壇の前のコルバンを

通して神と対話する事を、言っているなどと、トラーを知らない人には通じないのです。告白という言葉も、神の言われた事を

自分も同じ様に復唱する事なのです。エデンの園のアダムとハヴァが神の前にしたことと、全く同じであると気がつけますか?

安全な場所、神の中で全部訴えるのです。

そして、神がそれを聞いて、今度は神が見る通り、考えている

通りを、自分に神が語るのです。

その神の言葉を捨てるなら、神が自分に何を言って、教えているのかが、見えなくなるのです。実際にそれがずっと今に至るまで

宗教の教えで、覆い隠されて見えなくされているのです。

そして、神の意図、考えとは違う事であったら、自分の方が

神の言われることに軌道修正するのです。

神を人がゴリ押しの祈りで変えるのではないのです。

変わるのは自分!神の教えが廃れて変わるのではなく、

神の言葉=聖霊に照らし合わせてズレた肉の自分、死んだ自分を

軌道修正、変わる!それを、宗教の教えは、神の言葉が悪いから

変わる、廃れる!という嘘を人に教えています。

軌道修正、変化しなくてはならないのは、人間の方であり、

神の言葉は完全で修正不要!永遠に変わらない!

もし、神の言葉と、神の性質が変わったら、人は信頼に値する

神がいなくなり、生きる基準が揺れる、それが砂の上に建てた

人間の思想ー宗教ーバベルの塔、666、反キリストの教えなのです。

聖書で語られる、「祈り」テフィラの本当の意味は、神の思索、意図を、神の言葉から人が知ること!なのです。

神の言葉を捨てる人には、神が伝える考えが、伝わらなくなります。

自分の考え、ゴリ押し、押し付けて、自分の願いを叶える、

その様なものではないのです。

最後は、神のみ旨を自分がはっきり知り、それを生きる。

それなのに、神の言葉を捨てる場合には、本当に自分の悟りに

頼り生きる事をすることになります。

自分の悟り=人間の考え、神の教えとは違う事を真実だとして

ズレた生き方をしてしまうのです。

 

神の言葉=ナヴィ=手がかりを捨てたら、必ず迷いでます。

迷っているとも気がつけないままになります。

地図を捨てたら、ナビを捨てたら、違う道にズレても、どこにいるのか、どの方向に行って、何をしていいのか、気がつけないのと同じ。

宗教の教えは、ずっとその偽物地図、偽のナビを人に提供しているのです。

預言者とは、ナヴィーム。神の言葉で人の生きる道を示す役割をしているのです。

預言者=預言書の役割は、神の教え=トラー=婚姻契約を破り、異教の神々の教えに混じり、神の教えを捨て、シャバットを汚し

汚れた豚、ネズミを異教徒と同じ様に食し、果ては、異教の神々の祭壇の上に自分の子供まで捧げるズレた悪魔崇拝で、イスラエルの神を拝んでいたつもりだったのです。

悪魔そのものと、分からない。

聖霊=イスラエルの神か、悪霊=サタンしかないのです。

異教の神々の宗教、混じり物の宗教はサタンが利用している!

異教の神々など本当は存在しない。人間が考えた偶像、架空、

空想、偶像の神です。それを、サタンが利用する、という事を、はっきり気がついた方が安全です。

だから、神の教えを踏みにじり、異教神、太陽神の教えや儀式

記念日に交わり、偽物の混ざり物、まがい物の教えを通して

イスラエルの神を礼拝してはならない!と教えているでしょう。

通じない。主よ主よと言っていれば、なんでもOkと思ってしまう。キリストと誰かが言えば、その教えに賛同して、その宗教

活動に協力しないとならないと、思わされてしまうのです。

 

人間の教えで耳を塞ぐと、天の領域の周波数、音量を遮断して

神が伝える永遠の言葉、教え、今も変わらない神が人に伝える

真理、神の言われることが、偽物の教えに耳を塞がれた人には、聞こえなくなってしまっている状態が、宗教の教えで覆い隠された本当の神の言葉、教えなのです。

人は神の言葉、神の性質、イエシュアのDNA で造られているのです。

神の周波数、波動とぴったり一致して、本物とは響き合い、

神が伝える性質通りを生きる様に、人は造られているのです。

だから、自分のDNA=神の言葉とは違う事を教えられたら

自分は、イエシュアのに姿ではない、別物を生きて、別物の影を地上に映し出し、本物の自分が誰で、何を生きたら良いのか分からないまま、自分の考えでズレて生きる事をしてしまうのです。

でも、それは神が創造された本当の自分の生き方ではないのです。

祝福、喜び、神と顔と顔を合わせる関係、神が自分が誰かと

伝えている本当の自己像、自分を分からなくさせるのが、

宗教の教えであり、それが偶像礼拝の本質なのです。

異教の神々と関わる意識、関わり方で、イスラエルの神に近づく事をしている。

以下は、聖書ではない、ローマ、異邦人が考えついた思想です。

 

1)神の言葉が、昇天前後で変化した。

2)神の性質が時代ごとに違う。怒りの神、恵の神。

律法時代、律法が消えた聖霊時代、恵の時代。

3)ユダヤ人と異邦人は別の群れ、別の教え、別の記念日を生きる。

4)神は今はいつでも聖日、主の日、安息日、礼拝日、神の記念日という。又は、人が考えついたいつの日でも良い。

5)ヘブライ聖書と言いながら、実はデイスペンセーション神学で聖書を解説する。異邦人はトラーを生きなくて良いと平気で

言う教え。

この様な教えは、聖書とは何も関係ないローマ、西洋、異邦人

教皇、西洋教父達が考えた教えであり、聖書=神の教え、言葉を人間が曲げて解説しているものなのです。

 

翻訳を読むのと同じく、元に書かれた本当の意味を知らない場合

聖書に書かれていない思想で、聖書を語られて、それが本当と思い込む現象がずっと2世紀以降、異邦人の間で起きているのです。

一番厄介な教えは、ヘブライ聖書を教えると言いながら、

実は上記の様にデイスペンセーション神学、人間の思想で聖書を曲げて教えている教えです。

 

神の教えは、今の異邦人には関係ない!と言いながら聖書解説をするのは、全部人間の思想で曲げれらた不純な聖書解説です。

 

それらはどうしてそうなるのか?ユダヤ人にヘブライ聖書を

学びながら、そのユダヤ人が西洋宗教思想に洗脳されているから

その様に教えるのです。

その人を教えた教師も、同じ様にずれた思想を持って、人に人造

宗教思想、教理、口伝律法=人間の編み出した伝統の教えを通して聖書を教えるから、それが負の連鎖として続いて行くのです。

 

デイスペンセーション神学ではなくても、ユダヤ人の間でさえも

正しくトラーを解説していない人たちもいるのですから、要注意なのです。それには、元に書かれたことを正しく学び知ることが

何より必要なことなのです。

そうしなければ、自分が信じていることが、聖書の正しい記述

神の教えかそうではないかさえも、知らないままになっている

ということが起きているのです。

でも、これ、安全な教師に出会うのが、困難なのです。

 

ユダヤ人でも、トラーの本質と外れた思想を持つ人が大勢います。イスラエルのやったヤラベアムの罪、混ぜ物の宗教に賛同していたことが、記されているでしょう。

人間は、神の語る教えではなく、人の思想に惹かれて、神の教えではないものを、勝手に持ち込む事を、エデンの園の最初から

やっていて、それを警告されているのです。

海外に住むユダヤ人で、西洋宗教、デイスペンセーション神学に

洗脳される人もいるのです。

そして、メシアを知らないユダヤ人の間で、異邦人は最初から

契約に加えられていない部外者、蚊帳の外の人などと考えている。だから、ユダヤ人が編み出した改宗儀式、完全にユダヤ人に

なり、改宗する儀式を通らないならば、来たる未来、神の国での

場所、席はないと考えているのです。

これらが、口頭トラー、口伝律法と呼ばれるものです。

あるユダヤ人は、異邦人はノアの法則だけ生きれば良いと言いますが、ノアの法則などありません。

この様に、トラーを正しく理解しない、半分目が閉じているユダヤ人。これらの人は、ユダヤ人の先祖が編み出した口伝律法を

神の教えであるなどと、勘違いしているのです。

とにかく、聖書を、聖書ではない思想、人間の思想や自分の意見で語ることは、聖書ではありません。

聖書を利用して、自分の信じる思想を語ってしまうだけです。

そして、神の言葉が終わり、終了!破棄された、律法の下にいない、恵の下にいるという主張、これらは、書いてある意味を

完全に読み違えて教えられている代償です。

本当に、聖書に書いてある意味を、正しく理解していない人が

聖書の如く、神の教えを曲げた解説をし続けているのです。

 

そして、錯覚させられてしまうのは、人気の教師、組織が大きい、建物が立派、大勢の人が集まる、潤沢な資金を得ている、

それらが、正しく聖書が語られている証拠のバロメーターではない!ということを覚えておけば、良いのです。

それならば、異教の神々の宗教の建物は資金潤沢で立派でしょう。

資金集まる、人が集まり、イコール、真実、真理ではないのです。狭き門と言われた通りなのです。

簡単にかき消してしまえる、小川のせせらぎに耳を傾けるがごとくに、神の言葉に対して注意深く、正しく理解し、意識を向けて神の言葉を忠実に学び、探り、神に対して忠実に聞いて生きる。

それが、神が求める本当の礼拝者ー神の性質を生きる人のことだからです。

真理は、神の言葉の中だけ!そこだけにたつこと、それが本当

なのです。

残念ながら、異邦人の世界に浸透したのは、純粋なトラー、

福音ではありません。聖書とは異なるローマが作った教え。

しかも、聖書の殆どを捨てているから、語られている教えが

本当に狭い狭い狭い範囲、世界のことでしかないのです。