出エジプトの後の40年の荒野の旅路の記録が、トラーに記されています。
今日のトラーの箇所は、民数記25章から30章です。
聖書に記されている様々な出来事、事件、問題は神の子ら全てに
対して、今も今日も全く同じ教え、教訓、神が今神の言葉を通して直接語り、教えていることなのです。
コラの反乱で、地面が割れ250人が飲み込まれ亡くなり、その後14700人が疫病で死んだことが記されています。
これを、読むと恵と愛の神なの?と思うでしょう。でも、それは肉の目から見た自分の受け取り方、考え方です。
人が同じことをしても、このようなことは、普通直ぐに起きない。
失敗したら、神は直ぐに横からゲンコツくらわせないでしょう。
でも、歴史のこのような特別な出来事を通して、神は人に同じ教訓、警告を与えていることを、神の教えを捨てる人には全く通じないものなのです。
食べても直ぐに死なない、でも確実に死ぬ。
神の言われたことではないことと違う、人間の教えを生きること霊的に死んだ状態になる。乾燥、虚無、喜び消えて、神との親しい関係が分からないまま、形だけ保った、人間の宗教の行いをやるだけになるのです。
だから、多くの人は、イエシュアを信じながら、必死でも
神との親しい関係のエデンが分からないままいるのです。
神はこれらイスラエルが通ったズレ、罪を通して同じことを
全ての人に教えています。
神の中、神の性質からずれて生きる危険をはっきり明確に教えているのです。
危険!それは、エデンの園の知識の実、神があなたの食べ物ではないものを食べない〜食べないで〜と教えていることに
逆らうこと、自分の成り立ちや性質と違うことをする、イコール
死、別離、隔たりに直結してしまうということなのです。
クリスチャンの世界では、神の教えを、するしないリストをこなすが如くの教えをしていますが、その思考回路こそが、偶像礼拝
の本質、根です。
神との関係の中に入る意味が、人間の教えに聞き入る人には、
本当の意味では分からなくなるから、そのようなことを言えるのです。
親は子を守るために、全て真実を教えて、危険から、そして破壊から、喜びから飛び出ることが何かを教えるだけなのに、
人間は曲がった思考回路で、人のずれた性質を軌道修正する必要を考えず、神の教えが捨て去られるのが良いなどと、危険な思想を考えついたのです。
狂った思想。神の教え、言葉は完全であり、人を守るものなのに
それを捨てよ!と蛇の声を復唱する人たち。主を信じながら
主の言葉=油を捨てて寝ている人たち。
宗教の教えは、信じる人に多大なダメージ、腐敗、破壊をもたらしてしまったのです。
人間が神の座に座り、神の教えを捨てるように教え、神の創造されたイエシュアの業、そして神がこの世界の創造主である根拠
証拠、宣言を人間が塗り替えて、異教神の祭り、記念日にすり替え、大淫婦、龍、バビロンと警告されるそのものを、ずっと
推奨し続けているのです。
聖書にある警告が何を指して警告しているのか、教師が理解していないのです。
人間は神が言われたことを変えれば、その次点からズレが始まるというシンプルな事実に気がつかないとならないのです。
宗教の教えは、神の伝える生き方の本質と異なります。
西洋宗教が語る、語り口を聞いていても分かります。
頑張らせる世界、パフォーマンスの世界、犠牲の世界、自分が
何かをして神を喜ばせる、神に何かをしてもらえる、そして
神との親しい関係が分からないまま、生きる道に導かれるのです。
これは前回書いた通り、放蕩息子の兄の姿で描写されていることでも分かります。
クリスチャンの世界では、ジーザスをとにかく伝えれば良い!
地獄に行くから〜などと考えていますが、聖書に書いてあること
は、異教徒思想で考える世界、地獄、天国とは全く違うことが
書かれています。
全ては、神との本来の関係の戻りエデンの根付く、本物の自分を
再所有して生きる。
ジーザス信じるというのは、出エジプトのシナイ山の出来事と同じです。
結婚式さえすれば、それで夫婦になれる。神は人との関係を、
人が体験する中で最も親密な関係、夫婦の親しさの関係を通して教えています。これ以上の親密さはないからです。
結婚している、イコール、皆が親しい親密度、仲が良い、分かり合える
関係にあるのとは違うことでも分かるのではないでしょうか。
形だけ、一緒にいる。でも、相手のことが見えない。関係の中の実態が希薄。
これが、神と出会った後に起きる倦怠期です。
それは、神が導いている本当の関係や生き方ではなくて、
人間が編み出した別物の生き方〜宗教の教え、人間の教えに導かれてしまい、神が伝える本物の自分の性質、神が用意された本来の親しい関係、神に愛されている自分の事実から生きることが
分からない、愛されるということが分からないまま、パフォーマンスして生きてしまうのです。
神から切り離されてエデン〜喜び、神の中に留まり愛されている
事実から生きるということが、初めから分からないまま、
マリアとマルタのように、マルタは一生懸命パフォーマンス、
仕える、奉仕することは知っていても、マリアのようにイエシュアの膝元にぴったりくっついて神を求め、愛を受けるということがどういうことなのか分からないままであることが、書いてあります。
それが宗教の教えの世界です。
それが、神が語る偶像礼拝の本質なのです。
偶像礼拝とは、何も偶像を作ることだけではないのです。
偶像を作る、それは形であれ、宗教の教えであれ、神が伝えることではない、人間の考えで編み出した全てのもの、教え、生き方です。
何かをして、神を喜ばそう、神に一生懸命やっていること見せて認められよう、それによってお恵みもらおう、特別に目をかけて
もらおう。
神の愛に安息して、委ねて任せて共に歩むより、自分の頑張りでやる方が慣れているからです。
イエシュア、イコール生きるトラーであるのに、神の言葉自体を
律法という捉え方をしている時点で、既にエデンの外、神の内側の外側、神の声の中で神の言われる通りを聞くことからズレた
別の声がする周波数の下に飛び出している危険に気が付いた方が
安全です。
神の言葉を拒絶するイコール、イエシュアご自身を拒絶していることに、クリスチャンは全く気がついていないのです。
神が創造されたシャバット、新月、過越や仮庵の祭りを捨てる
とは、婚姻の印、婚姻関係にある証拠であるもの、神が神の子らと会見するアポイントメントの日を捨てている
夫の与えた贈り物を捨て、別の旦那がくれた偽物を大事に尊重し祝う
ことをしているのです。
おかしいと気がつけば良いのです。聖書、神の言葉から。
神が警告しているでしょう。偽物のに染まるな❗️と。
民数記25−30章は、イスラエルがモアブ人の女性に誘われて、異教の
神々の礼拝にハマってしまうことが書かれています。
これは、人間が作った宗教も同じなのです。
異教の神々の教え、シンボル、慣し、イスラエルの神の創造された記念日ではなく、異教神の記念日をパクったものを祝う
別物をやらされて、偽物生きさせられ、コピー品を祝っていても、聖書に書かれているのに気が付けないほど、盲目度が深く深刻なのです。
読めば分かるでしょう。聖書に書いてないこと、どうしてやってるのか?それは、伝統で長年浸透した人の作り出した偽物、それが本当だと思い込み、そして神は混ぜ物だろうが、別物だろうが、気持ちさえあれば何でも受け取ると勘違いしているのです。
聖書を読めば、クリアーにそれらの偽物、紛い物に染まることが
どれほど危険なのか、教えています。
例の生物兵器、人の遺伝子や構造を破壊するものと同じです。
そんなものを、人は取り入れてはならないのです。
神の伝えることは全て愛。神が創造された人の生き方から、ずれたら破壊される、偽物の教えに染まること、イコールそれが
偶像礼拝そのものなのに、人間の作った西洋宗教は、主の名を
唱えながら、本質、実態は人間の宗教で偽物なのです。
民数記25−30章をぜひ読んでみてください。
イエシュアも人にモーセの五書=トラーだけを教えたのです。
キリスト教は、神の言葉、教えを否定した土台に作られた所詮
人間の編み出した不純物思想、宗教であり、そのような混ぜ物の教え、異物を
全部排除して、聖書=神の言葉だけに戻れば、神が伝えている
永遠不変の真実、人を生かす生ける神の言葉=イエシュアご自身を受け取ることができます。
大事なのは、婚姻した後、関係を育み、エデン=喜びに住うことを日々、神の言われた通りを生きて知って行くことです。
信じた、それで終わり、後は人にメシアを伝える活動をするだけ?そんなのは宗教の教えであり、神が伝えていることとは違います。
人は、この世の旅路で、様々な場面、事件、出来事を通して
本物の自分を生きることを再所有し、神と出会う体験をし続け
成長して行く過程があるのです。
神の教えを捨てる人は、神が伝えた通りの本物を生きることを
妨害され、分からなくなります。
だから、宗教の教え、人間の教理こそ、破棄されないとならないものであり、
神の言葉が廃れた、破棄、終了と蛇の声を復唱し続けるのを
神が伝える永遠の真実=言葉=イエスシュアに気がついた人から、地の塩、世の光として本物を映し出して生きることに
軌道修正するのです。
塩も塩気がなくなり、光も光がない、本来の性質が失われた状態であるのです。神の教え=トラー=イエシュアを捨て去れ!と教える人には、永遠に通じない事実になるのでしょう。