コラフの反抗 民数記16:1−18:32 今週のトラーの箇所 | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

今週のトラーの朗読箇所は、民数記16:1−18−32です。

タイトルは、קֹרַח「コラッフ」。人の名です。

日本語翻訳ではコラと書かれています。

モーセ、神の選びに反抗した人々に何が起きたか記されている箇所です。

トラー箇所と関連する箇所は、1サミエル 11:14-12:22で、

福音書以降は、ローマ 13:1−7です。

 

民数記のヘブライ語のタイトルは、בְּמִדְבַּר「荒野の中で」です。

ここには、イスラエルと少数の民が荒野の旅路に上で何に直面したか、出エジプトした後も尚も古い自分=肉=エジプトで学んだ生き方

イエシュアと共に葬られた以前の自分のまま生き続けた多くの人が

直面する問題が記されています。

 

トラー=モーセの五書、そしてモーセの五書の解説である、預言書、諸書=聖書に記されている全ての事柄は、直接自分が、個人個人が

体験した事ではありませんが、それら神が歴史の中で選び出した人々、その人々が体験した出来事は、全ての人今の時代の自分に、

そっくりそのまま当てはまる神の同じ教え、教訓、訓戒、そして警告であることを、忘れないで、今も生きて働かれる、生きている神の

言葉を、自分に向けて神が語りかけているという永遠の事実から、

読む必要があります。

 

神の教え、言葉、人間の生き方は、何も変わりません。

時代を経ても、人種が違えど同じなのです。

西洋人〜ローマ帝国が作った人工合成宗教の教えは、永遠普遍の神の言葉を変えて、捨て去り、自分たちの考え=神学、教理を編み出して

神の教えを退けた違う教えを数々編み出し続けて来ました。

そして、今もそれをし続けていますが、それらは神の教え=聖書ではありません。

私が、ヘブライ語でイザヤ書を初めて学んだ次に、この民数記を教えられましたが、そこに書かれている内容があまりにも素晴らしくて

夢中になって惹きつけられて学び続けたことを、今も忘れません。

神の言葉は、安全帯、臍帯で、人を引き寄せ惹きつけ、神から離れないようにするものです。そして、神の教えは人を安全に神の中に保つ

鎧兜そのもの、神との関係にしっかり繋がる綱であること、これを

切れ!捨てよ!というのが、あの蛇の声なのです。

赤ずきんちゃんのオオカミの声がお母さんと騙されないように、しないとならない。声を聞き分ける。神の教えか人間の教えか、聖書から

識別する知識、能力を培う必要があるのです。

本物を知れば、偽物を見分けられます!

 

今週のトラーの素晴らしいパラシャには、私達も直接、再び神についての啓示を受けているのです。

神がどのような方であるか、そして何が神が伝える義であり何が義でないかという神の見解について語られています。

そして、この中に記されていることは、人間が編み出した宗教、

その思想=置換神学や、デイスペセーション神学と全く同じ、

神の教え言葉ではないものを、自分たちの主張が正しい!とし、

神の教え、権威を退けて、自分たちが神の場所に座り、自分たちの

主張、考えにスリかえている!神の座を人間の思想で乗っ取っている。神を退けて座ることをしている、その違反の性質そっくりそのままが 民数記16−18章に記されているのです。

 

いつものように、トラーは私たちが自分の考えで作り上げた神像に

異議を唱えます。なぜなら、人間が神について独自の見解を作り上げ、自分のイメージに神を似せて創造するのは自然なことだからです。これを、宗教の教え、個人個人がずっとやり続けているのです。

自分の中の脳内ジーザス、神。

 

ですから、トラーを学び、それに聞いて、神の言われる通りに実際に生きる時、私たちは神がご自身を啓示された真の姿を見る、発見する本物の自分で本物の生き方=イエシュアの性質通りの生き方を再取得する!という喜ばしい機会に恵まれます。

そうする時、私たちは神の聖性が私たちが通常考えるよりもはるかに偉大であるという事実に、常に直面する、実体験する、知るのです。

 

現代の私たちの物事の見方では、神の完全なる神聖さに関する真理を理解することは、神を私たちの弱さや欠点に対する愛や同情の心を

持たない、近寄りがたい支配者として描くことになるのではないかと

危惧しています。

でも神の教えが伝える真実な観点から目を背け、実際には別の存在である神をある特定の存在だと偽ることは、明らかに愚かな行為です。

 

三度聖なる神は、ご自身を啓示されたとおりに、ありのままに

ご自身の本当の実態を知られ、受け入れられるべきです。

そして、神の神聖さに関する真理を、人が喜んで心に受け入れる時

私たちは、メシアの死によって神が私たちのために成し遂げてくださった贖罪が、いかに尊いものであるかを、改めて理解するようになります。

さらに、私たちは自分の罪を益々忌み嫌うようになり、こうして神に対する正しい見方が、私たちの聖化の基盤となるのです。

だから、西洋人が作った宗教思想は、神の言葉から意識を逸らせ、

神が伝える聖別、神ご自身に関すること、罪の定義、人の生き方の

全貌を人間が勝手に改ざんし続けているので、神が伝える本当の真実を隠されてしまっているのです。

 

聖書が神の聖性を強調することが、人の神への礼拝、関係を曇らせたり、病的なほど恐れられる主権者の前での礼拝を、ある種のぎこちない儀式にしてしまうなどと考えてはいけません。

 

そうではなくて、むしろ、神の絶対的な聖性の啓示を理解し受け入れることは、約束を決して破らない愛である父、御心を果たすために

全能の力を最大限に発揮する父、それゆえ愛する者の一人を滅ぼすことを決して許さない父を見出すことになるのです。

 

ここに、神の愛と優しさの全て、すなわち揺るぎない聖性、揺るぎない永遠の性質の根底があり、それが確かな信仰の基盤を形成しています。つまり、私たちが神ご自身に対してに何の疑いもなく、全き信仰を置くことができるのは、まず第一に、神が聖なる方だからです。

神が変わらないお方であり、神が神の言われた契約、約束を決して

変えない、破らない方だからなのです。

神が伝える神ご自身の性質〜永遠普遍、神の言葉も永遠普遍!という

事実を、人間が編み出した宗教は全く違うように解説しているのです。神の伝えている言葉に基づき、その通りに考えれば分かることなのです。何が本当で、何が嘘=人間の作り物の教えなのか、見分けられます。

この安息日のパラシャに描かれている状況は、理解しにくいものではありません。それは、コラフと彼に従った人々の心境を描写したもので、私たち一人ひとりが直接、その意味を体験的に知っているものだからです。

なぜなら、私たちは皆、人生のどこかの時点で、多かれ少なかれ全能者への反逆に参加したことがあるからです。

しかし、私たちにとってしばしば馴染みのない、そしてこのパラシャがはっきりと浮き彫りにしているのは、反逆が醜い顔を見せたときの神の示す視点なのです

ここに、反抗が醜い顔をのぞかせた時の神の視点が、はっきりと浮かび上がっていることが記されています。

ここでもまた、私たちは一般的に知っていて理解しているものの、

あまりにも頻繁で、忘れがちなことがあります。

神は反抗を好まないけれど、私たちが反抗に陥った時は、理解してくれると信じたいものでしょう?

神は親として「してはいけない」と語りながらも、反抗は人間のやる事であり、学び成長の過程にあるからこそ起こるものだと、

神は真に理解していると信じたいものです。

私たちが信じたくないのは、神が反抗を忌まわしいもの、つまり偶像崇拝の最高峰と見なしているという事実があるのです。

『高き所の偶像崇拝』と、神はなぜ人に伝え言うのでしょうか?

いわゆるモレク崇拝における子供たちの虐殺は、内なる反抗心よりも重いはずです!

しかし、ここに反逆の狡猾な本質があります。放っておくと、あらゆる種類の偶像崇拝が育つ肥沃な土壌となってしまいます。神の権威への反逆は偶像崇拝の温床そのものであり、まさにその始まりからそうでした。

ですから、私たちは改めて、このパラシャと、神の権威に反抗し続ける者たち、悔い改め〜神が伝える通りの生き方に戻らない人に必ず訪れる、この恐ろしい死の光景の事実を与えてくださった神に感謝すべきです。危険!元に戻れ!という警告。元=神の教え通りに戻る。

私たちが警告を受け、そうでなければ自らの滅びに至るであろうものから守られるのは、神の慈悲です。

神の忍耐は長いのです。でも、それは期限、リミットがあるのです。

いつまでも、神の言われたこととは違うこととをし続け、神の聖別

記念日を汚し、神の顔に泥を塗り、イスラエルの神の実態ではないことを世界へ伝え続け、別物を生きている、それには期限がある!

ということを覚えておかないとならないのです。

猶予期間〜それが神の恵、忍耐、憐れみですが、そんな嘘ものをずっと永遠に蔓延らせない、神の栄誉、栄光のため、神はご自分の名=

実態を人に汚され続けていくこと、ずっとは許さないと言われているからです。

このパラシャをもっと詳しく見れば、私たち自身にとって役立ち、

聖化のための永続的な原則を導き出せるかもしれません。

 

この反抗は、一体私たちのどこから始まるのでしょうか?

おそらく、神が実際に私たちの道を定め、私たちの道を備えてくださったことを信じることができなくなったことから始まります。

これを、不信仰と呼ぶのですが、神が神であり、神が人を個人個人の

人生に目的を持って創造され、永遠の中なら、人の歩み、目的を

定められていることを忘れてしまことでもあります。

 

あるいは、私たちがしていることや神が私たちを置かれた立場が、

私たちの可能性に見合っていない、あるいは、私たちの現在の立場が自分より劣った状況に陥っているかもと感じたことから始まります。

 

いずれにせよ、神に対する心の反抗の最初の種は、感謝の気持ちの

欠如、つまり、神が私たちに与えてくださった人生の立場に感謝することを拒むことです。なんでも当たり前と思ってしまう。

いつもあることが、全部当たり前にあると思うから。

先日友人と話していて、「ありがとう」という一言は大事だね、

なんでも当たり前と思うから、恵で全て与えられていること、忘れてしまうねと。

その代わり、ああだこうだ、いつも文句を言う、そういう状態は、

本来の自分の状態ではないものを、作り出してしまうからです。

文句言い続けて、不平不満言い続けて、自分にはこれがない、あれがない、こんなんじゃ嫌だ!!!これもあれも不満と言いながら、

幸せ〜なんてならないからです。

どんなことでも感謝すること、ユダヤ人の祈りは、朝起きたら今日も息が与えられて生きていた!生きる命を今日も与えられたことに感謝する、1日は、感謝から始まると言います。

1つ1つ感謝してみたら、喜び溢れて来ます。

神に愛されていること、分かります。神がどんなに良いお方か分かる。クリスチャンの讃美歌にも、数えてみよ主の恵みとあるでしょう。

いつも感謝しなさいというのは、いつも文句言い続けるということとは違う、私たちの性質そのものであり、それが神との関係を深く親しく育てていく要素であるから、そう神が教えているものなのです。

実際の生活の中でそれをやると、潤滑油のように関係が親しくなり

喜びがその中に出て来ます。

逆に、反抗心に対する主要な解毒剤の一つは、神の摂理が私たちの

人生において働いていることを認め、つまり、神に全幅の信頼を置いて、見た目で判断せず、神の目から見ることを学び続ける。

そして神が私たちを任命された地位、場所、時代、環境に置いたことに感謝を捧げることです。人と比べない。人は自分の人生しか歩めないからです。同じではない。

神が私たちに現在の人生の課題を与えてくださったのであれば、

私たちが神の御心を達成するための手段を備え、神の命令に聞いて

神が伝える通りを生きる。

それを実行するときに祝福を与えてくださると信じるべきです。

この「感謝」の精神の中でこそ、私たちは反抗という病に対する霊的な免疫を培うことができるのです。

「すべてのことに感謝しなさい。これは、メシア・イェシュアにおいて、神があなた方のために望んでおられることなのです。」

テサロニケ第一 5:18

これは、患難を通った人たち、賢人の生き方が聖書に記されていますが、それを通しても理解できるのです。

ヨセフの投獄。しかも全てが裏目に出て、あたかも神から忘れ去れれたように見えることが、実は神の壮大な計画〜イスラエル〜ヤコブ

の家族を救い出す為の神のプランであったこと、同時にエジプトの国を飢饉の時代から安全に乗り越えられる為、ヨセフは立てられたこと

後になって分かるのです。パズルのピースと同じ、人生の通過点には

乱気流や、気流の悪い場所を通過するように、揺さぶられることが

あります。人生、乗り越えなくてはならない問題が何もない人なんて、誰もいません。表から見て、恵まれていると見える人も、実は

大きな深い悩みの中にいたりするのです。

通過する、それが、神の中に安全に守られて患難を通過することでも

あるのです。

そして、それがあるから、そのような時に神と直接出会う体験をするでしょう。神がどんなことをして下さったのか、人間ではできない

方法で救い出してくださることを、体験するのです。

一番大事なことは、何かを手に入れることではない。神との深い親しい関係、神と出会う直接の体験。

それらは、預言者やペテロ、パウロ、ステパノ様々な人が問題の中に

放り込まれても、尚も神との近しい関係に喜び溢れて賛美していた

あの実態を得ていること!エデン=喜びの中から飛び出さないこと。