聖書のテーマは神の国 家 天の国  | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

シャバットが終わり、又新しい一週間を迎えました。

シャバットでは、世界のどの国に住んでいても、ユダヤ人は1年に

渡りずっとトラー朗読、学びをします。

どの国にいても、ヘブライ語で聖書を学んでいるのです。

 

どうしてでしょう?

彼らイスラエルは、神との関係を大事にする自覚がある人、無い人に関わらず、イエシュアが大家族の長子、筆頭とするイスラエルの神の大家族の長男として、代表として、神が選ばれた民だからです。

唯一イスラエルという民族だけと契約を神は結び、唯一、神が創造

された世界の中で、イスラエルというあの特定の場所にある国、

世界の中心で、全ての人がそこを通り、旅や商売で通過するという

場所を、神はご自分の栄光、実態を表す人が生きる約束の地とされ、

イスラエルの民に土地所有権を与えたのです。

神は他のどの民族にも、そのような地上の国の所有権など与えていません。

今イスラエルは大変な危機に面していて、シャバットから今日迄の

様子がずっとイスラエルの友人たちにより、ニュースにより伝えられています。これは、別の記事に書きます。

 

アヴラハムが、全世界の民族の父と任命されたのは、同じイスラエルの神の大家族の家訓〜人間の生き方=神の教え=トラーを全世界へ

神が伝える通りに伝える役割を与えられたからです。

そして、異邦人も同様に、同じイスラエルの神にイエシュアを通して

取り戻された人は、神の伝える同じ神の家の家訓=トラー=婚姻契約に根付いて生きるという事を、教えられている事に、神の教えから

気が付かないとならないのです。

異邦人もイエシュアを信じたら、同じようにアヴラハムの子孫であると

はっきり聖書に書いてあるでしょう。どうして、神の教えを無視して

人間が作った、神の言葉を否定、破棄した宗教の教え、教理、聖書解説に固執し続けているのでしょうか?

神の教え=言葉、聖書に書かれている事を、書かれている意味通りに

正しく把握しないから、人間が作った人造の宗教思想の教えが聖書とは違う事を識別できないまま、分断思想の聖書解説を、聖書だと

疑いもなく信じることができるのです。

 

トラーを学べば、それは神の言葉の完全版であり、神はイスラエルを

代表として、神が創造された同じ人間に対して同じ事を語っている事はクリアーに理解出来ます。

イスラエルの神は、クリスチャンが教えられているような7変化する神、神の契約や約束教えを時代ごと、人種ごとに変える神、神の性質を歴史の途中で変化、変身する神、そして神の救いの業を時代ごとに変化させる神などではありません!

聖書を正しく読み取っていないだけです。

そんな事、聖書に1つも書いてもないローマ帝国が作った空想の思想なのに、クリスチャンは、それが神の教えだと教師に教えられるから、神の永遠普遍の神の言葉を勘違いしているのだけなのです。

聖書ではない、人間が編み出した教えを、2世紀以降異邦人はずっと聞かされ続けている弊害があるのです。

ローマ帝国が作った人間由来の宗教の教えは、純粋な神の教え、

言葉ではありません!

レビ記の冒頭に書かれている事、イザヤ53に書かれている事、

その他の箇所にも、誰でも〜と訳されている言葉は、「アダム」

人です。誰でも、イスラエルの神=創造主と本当の関係を結びたい

近づきたいと願う人なら誰でも=人と書かれています。

 

イスラエルだけなどと、聖書には書かれていないのです。

長男=イスラエルに託した同じ神の教えを、弟妹の異邦人も同じようにイスラエルの神を愛する人は、同じ神の家の家訓を生きる!

至極シンプルな事実なのに、異邦人は神の教えを、別物の教えに解説し続けているのです。

しかもその神との関係に入る神の言葉、招きは、それは強制的な命令ではないのです。

その個人が本当に神との関係、本来の関係を持つ事、育む事を願う人なら誰でも!と神は言っているのです。

人間の教えに遮られ、そして神の教え=聖書=トラーを正しく書かれている意味通りを学んでこなかった異邦人は、聖書を自由自在に曲げて解説する人間の教理を語るから、聖書を正しく読み取れないままに

なってしまっているのです。

 

翻訳だけでは、聖書に書かれている本当の正しい意味は、実は見えません。しかも、翻訳聖書を人間が編み出した教えで解説されてしまっているから、それでは正しい解説など聞けない状態なのです。

だから、正しく聖書を教える事をする教師が必要なのです。

聖霊が教師!そうです。でも外国語を聖霊だけに頼り習得、学べますか?そんなの不可能でしょう。普通に考えてください。

それならば、世の中何もいりません。教科書もいらない!

誰にも何も教えられなくても分かる?そんなあり得ない事を考えているから、神の言葉を平気で曲げる事ができてしまうのです。

人が学ぶ、何かを知るには、色々な手がかり=正しい情報が必要なのです。手引き、導き手が必要。教える人がいなくて、どうして分かるだろう?!と書いてある通り

当たり前、常識、普通に考えてみてください。

正しく神の教えを教えられて、初めて、聖霊が記した神の言葉の意味を、そこから深く深く知っていく道に入れるのです。

間違った教え=それは聖霊が記した神の言葉ではありませんから、

そこには神の真理はありません。

 

異邦人は、ローマ帝国支配の1世紀以降、イエシュアが昇天された

以降、ユダヤ人と完全決裂し、パウロのようなトラー学者とも完全に

決別し、正しくトラーを教える教師を捨てて、西洋人が編み出した

宗教の教えを、皇帝、西洋人教師、教父、教皇に教えられて来て

しまったという代償があるのです。

それは、聖書ではなく、人間の思想がふんだんに混じる、不純物の

教え、聖書とは違う聖書解説がされ続けているのに、気が付かないままなのです。

イスラエルと異邦人と別々の2つの家族に分け、別々の2つの教え、

イスラエルは神のトラーを生きて、異邦人は神の言葉を破棄して

人間の考えを自由に生きると教える西洋宗教の教えや、デイスペン

セーション神学や置換神学は、聖書ではない!!という永遠の事実にはっきりと目覚めないとならないのです。

神の家〜大家族は1つの礎しかありません。それがイエシュアです。

2つ別の礎の、2つ別の建物〜神の宮など聖書には書かれていません。

それらは、聖書ではない人間が編み出した宗教を解説している、

教理思想であり、聖書を利用して人間の考え、教えを解説し、

人に正しくない聖書解説を伝え続けて今に至っているのです。

それらは、聖書を正しく理解するには全く邪魔な異物であり、

無効、神の教えを正しく理解するのに、何の役に立たない、不必要

いや有害な教えなのです。

古い教え=旧約聖書、新しい教え=新約聖書という間違った聖書理解をしている時点で、これは神の言葉を正しく理解できない、

神の教えではない、別の教えのチャンネルを傍聴しているという事に気がついてください。

 

申命記 6:4 イスラエルよ聞け。われわれの神、主は唯一の主である。

6:5 あなたは心をつくし、精神をつくし、力をつくして、あなたの神、主を愛さなければならない。

6:6 きょう、わたしがあなたに命じるこれらの言葉をあなたの心に

留め、

6:7 努めてこれをあなたの子らに教え、あなたが家に座している時も、道を歩く時も、寝る時も、起きる時も、これについて語らなければならない。

 6:8 またあなたはこれをあなたの手につけてしるしとし、あなたの目の間に置いて覚えとし、

6:9 またあなたの家の入口の柱と、あなたの門とに書きしるさなければならない。

 

ここで、ユダヤ人全員がそうしているわけではないのですが、

それが一般的な慣わしなのです。

イエシュアがシャバットに会堂でご自分の事が書かれたイザヤ書の

箇所を、読み上げたことでも分かると思います。

トラー=モーセの五書、トラーの箇所に関連する預言書、諸書を読むのが慣例だからです。

しかも、朗読箇所は1年に渡り決まっており、それを読む担当の人も

決まっているのです。

だから、イエシュアがあのシャバットで、ナザレで、ご自分の預言の箇所を読んだのは、全く偶然ではなく、神の計画通りだった事が分かると思います。イザヤ61:1-2

 

トラーをヘブライ語で記されている事、言語の意味、当時の古代中近東諸国に関しての様々な情報、知識、イスラエルだけではなく、

古代中近東の人々の宗教や礼拝、そして古代のヘブライ人がどのように神の言葉を理解していたのかを、書いてある通りに学ぶと、西洋人の作った宗教の世界で語られる聖書解説とは、丸で違うものである事が顕著に見えて来るのです。

西洋人が語る聖書の中身とは、異なるものである事が、はっきり

分かって来ます。

どんな世界の学問や研究でも同じですが、必要な情報、文献を破棄する行為は、情報を捨てるので正しい理解など出来ないという事は

誰でも分かると思います。

ましてや、神の言葉が廃れた、不要と言い学ばない人には、聖書に

何が本当に書いてあるのかは、永久に真相が葬られてしまいます。

白やぎさんと黒ヤギさんのお手紙交換のように、読まずに食べているような事をしているから、何が書いてあるのか知らないまま、何が

書いてあるの?と相手に聞いても、その中身を知らない相手に聞いて質問しても、正しい答えなど返って来ないのです。

その代わりに返ってくる答えは、聖書ではない、人間の教えの聖書

解説、聖書ではない教えを解説されてしまっているのです。

神の言葉、聖書に関して異邦人はそんな事を知らないまま、してきてしまって今に至ります。

異邦人クリスチャンの世界で語られる聖書解説は、聖書に書かれている事を聖書で解説しているのではなく、人間が作った聖書とは関係のない神学、教理、宗教の教えで紐解いているから、聖書に書いてある

真実が丸で浮きあがって来ないのです。

クリスチャンの世界で礼拝というと、歌や踊りや礼拝式などそのような事を想像するでしょう?

でも、聖書に書いてある礼拝の醍醐味は何と神は伝えていますか?

神は神に対してどのように神に近づくのか、教えているのです。

それはどこに書かれていますか?

トラーに記されているのです。特にレビ記には、神の家の中での礼拝の意味が、詳しく記されています。

 

神の家族には、場所=家があるのです。肉眼では見えない天の家が

ある!と神は教えています。

神の教え=トラー、聖書のテーマ、中心は、神と神の民、神の家族

そして神の家族が神と共に住まう場所です。

それが、天の王国、神の国など、そのような言葉で福音書以降にも

記されています。

そして、その神の家の中心は、「契約の箱」なのです。

神の臨在がある場所〜神の言葉です。神=言葉=イエシュア=聖霊と聖書に書いてあります。。神の言葉で世界の全ては物理的に出現した。そして、神の家の中にある様々な物も重要なのです。

これらは、モーセが天に実際にある神の家のレプリカを、地上で

そっくりそのまま目に見える形で作られた事が、書かれているのです。

出エジプト25章には、天にある神の家、天の中でモーセが神から

見せられた通りを、地上に作られせたのです。

モーセはシナイ山の山頂にまで登ったとあります。

高い場所に登る事は、神の啓示を受けるプロセスの1つでもあるのです。

シナイ山の山頂は、天の現実の中、神の栄光の中にモーセが入って

神から天にある神の家をそのまま見せられたのです。

山の上に登ると分かるでしょう。そこはまだ、地上なのですが、

高い場所に登ると、辺りが見渡せますよね。

自分が地面にいた時とは違う、視界が広がっているのです。

この意味は、神の目線と合わせて、詰まり神の考え〜思考の中に

自分が入って神が見る通りを見る!という事を、させられる事を

教えている事でもあるのです。

自分の肉の目で、全てを見ている場合、それは神の思索とはズレているものの見方のままで留まってしまっているのです。

出エジプト19章以降、シナイ山〜ホルバとも呼ばれていますけれど

神の山に登って、雲に覆われている、火に覆われている、山の上に

登る、神の栄光の中に入っているという事は、神の栄光の中にモーセはすっぽり入って行った事が書かれているのです。

このヴィジョン〜神の栄光の中、イコール神の中で、神の見ている

通り、神ご自身を見て、神からモーセに啓示を与えたのです。

地上に居たイスラエルは山を見上げて山頂を見ていますが、モーセはそうではなく、実際に神の栄光〜神の中に入って、神の中で神が見ている通りを見たという事なのです。

物理的な世界と、そして、神の中=見えない世界〜神の中=〜神の栄光という2つの概念を教えています。

眼に見える世界と、目に見えない世界。

 

その事を念頭において、出エジプト31章を続けて考えます。

 

 

続く