クリスチャンの間で教えられ、実践されている、西洋人が作った宗教の世界で語る礼拝というと、日曜の礼拝式、歌、賛美などを考えると思います。
もっとエスカレートした逸脱する場合は、ロックバンドショーのような派手で煌びやかなステージショー、神の教えではなく、人間が注目を浴びるエキサイトメント、感情を高揚させるようなショー、
人がバタバタ倒れるような様々な不思議、奇跡など、それぞれが考えるものが、神への礼拝だと思っているでしょう。
しかも、現象が大きいほど、集まる人が多いほど、聖霊が働いている〜などと勘違いしているのです。
そのようなずれた人間の教えの実践の中に、イスラエルの神は現れ出ません。宗教の霊が現れ出る。
でも、聖書に書いてある神の前にする礼拝とはどんなものなのか、
それは神の家の祭壇を巡り教えられているものなのです。
聖書は、モーセの五書を正しく理解して初めて何が書いてあるのか
理解できる書なのです。
なぜなら、モーセの五書=神の教え=トラーが聖書の土台、基礎で
あり、聖書の他の全ての書は、モーセの五書の解説をしているからです。逆に言うと、トラーを理解しなければ、聖書を正しく理解できません。
福音書以降は、モーセの五書、その解説の預言書、諸書の短い後書きです。
そして、西洋宗教〜ローマ帝国が作った人造宗教の教えや、伝統の
慣わしや、日曜礼拝や、クリスマス、イースターを想像して、聖書を読んだいたら、それは、ヘブライ思索で書かれたヘブライ聖書に記された神の教え、言葉とは異なる解説になり、それらの人造宗教教理を
通して解説される聖書解説は、神の教えを正しく理解するのに、
何の役にも立たない人間の教えの解説なのです。
クリスチャンは、神の家=神殿などは、昇天以降は無意味になった、
今は私達が神の宮だから、イスラエルの神の家、エルサレムの神殿は
不要だ!と、聖書とは異なる思想を様々に語り続けていますが、
それらは、全て神の教えを正しく理解しない人が考えついた人間の教えなのです。
聖書=神の言葉はそんなようなことは、教えていないからです。
未来、エルサレムに、イエシュアは戻り、そこには未来の永遠普遍の
神の家=神殿があり、そこからイエシュアは世界を治められることが
預言されているのです。
黙示録を、間違った読み方をしているので、未来は海も空もない、
神殿もないなどと考えているのです。
黙示録は、アプクリファ、啓示の書であり、ヨハナンは隠語を使ってこの黙示録を書いているのです。
文学、書物は、ジャンルに応じて使われている言葉、内容を正しく
把握しないとならないのです。
未来は、現在のような悪が支配する世界とは全く違う世界、誰も体験したことのない、エデンと同じ生き方、状態に戻るのです。
全ての人が、創造主を知って、創造主が伝えるトラーを生きる!
それがエレミヤ31:31の預言なのです。
今イスラエルはイランとの戦争にあります。イランの国旗は以前その真ん中にライオンの絵が記されていました。
イスラエル、イエシュアもユダのライオンと言われます。
ライオンと書いてあってメシア、イコール、ライオンだとは考えないでしょう。それと同じ事なのです。
その言葉、物、内容で示されている実態は何かを知れば良いのです。
ちょっと寄り道になりますが、大事なポイントなので、書きます。
クリスチャンの世界で空想されるイエシュアは、子羊イエシュアだと思います。
優しくて、柔和で、受け身で、おとなしいメシア。
でも、聖書には、ユダの獅子(ライオン)とメシアのことを表しています。どういう意味でしょうか?
黙示録 5:5 すると、長老のひとりがわたしに言った、「泣くな。
見よ、ユダ族のしし、ダビデの若枝であるかたが、勝利を得たので、その巻物を開き七つの封印を解くことができる」。
ユダ族の重要性を考えてみましょう。ユダはヤコブの12人の息子の
一人でした。簡単に言えば、これらの息子たちの子孫がイスラエルの12部族を形成しました。
ユダ族とは、メシアの人的、あるいは血統的な血統を指します。
系図はマタイ1章にあります。
イエシュアはユダの子孫でした。ユダ族にはダビデ、ソロモンも
含まれ、最終的にはイエスの地上の父(厳密に言えば継父)である
ヨセフにまで遡ります。イスラエルの王は全てユダ族出身の人々なのです。
ライオンに関するもう一つの言及は創世記49章にあります。
この時、ヤコブは息子たちを呼び集め、それぞれにこれから起こる
ことを告げます。ヤコブは明らかに預言的な言葉で語っています。
息子ユダに至った時、彼はこう宣言します。
創世記48:9−12にそれが記されています。
48:9 ヨセフは父に言った、「神がここでわたしにくださった子どもです」。父は言った、「彼らをわたしの所に連れてきて、わたしに
祝福させてください」。
48:10 イスラエルの目は老齢のゆえに、かすんで見えなかったが、
ヨセフが彼らを父の所に近寄らせたので、父は彼らに口づけし、
彼らを抱いた。
48:11 そしてイスラエルはヨセフに言った、「あなたの顔が見られ
ようとは思わなかったのに、神はあなたの子らをもわたしに見させてくださった」。
48:12 そこでヨセフは彼らをヤコブのひざの間から取り出し、
地に伏して拝した。
これらの聖句を考察すると、ユダ族のライオンへの言及は、ユダの
血統から生まれる征服者、勝利者、つまり王を指していることが分ります。
このライオンは、ただ一人の御方、すなわち人間の姿をした神、
イエシュアご自身を指していたことが分かります。
この真理は、神の言葉の約束と預言を成就するものであり、重要です。また、最終的に私たちの救い主となるこの方への希望と確信を
与えてくれます。
ライオン〜獅子とあって、イエシュアがライオンではないこと、
でもライオンは、最後に偽物を全て破壊し、正しい裁きをし、
そして世界を修復させる獅子なのです。
イエシュアがご自分の神殿の中で、商売の巣に変化させていた商人たちの商売の台に対して、怒りそれらを破壊した箇所があるでしょう。
マタイ21:12 それから、イエスは宮にはいられた。そして、宮の庭で売り買いしていた人々をみな追い出し、また両替人の台や、はとを
売る者の腰掛をくつがえされた。
21:13 そして彼らに言われた、「『わたしの家は、祈の家ととなえらるべきである』と書いてある。それだのに、あなたがたはそれを強盗の巣にしている」。
21:14 そのとき宮の庭で、盲人や足なえがみもとにきたので、
彼らをおいやしになった。
この箇所では、柔和、柔軟で受け身のか弱い子羊はない、獅子、
悪に対して吠えるライオンのメシアの性質が現れています。
神の家は、祈りの家、神の民が神と集う家なのに、それを商売の巣に
しているとあります。
ここで、両替人、鳩を売る物と書いてあります。これらは、エルサレム以外から、神の神殿に訪れて来る人たち、特に祭りの時、その時に
高額な為替レートで両替し商売し、そして神殿の祭壇に捧げる
コルバンも高額で売っていたからです。
トピックを元に戻しますが、神は神の家=ミシュカン=神の神殿を
中心に礼拝、人の生きる全てを教えているということを、念頭に
おいて聖書を考えて下さい。
神と人との1つの大家族には、共に住まう場所があるのです。
天に実際に神の家があることを、教えているでしょう。
そして、モーセは、その天の神殿を、神の栄光、神ご自身の中で、
神の目が見ている通りを、見せられ、それをそっくりそのまま
地上に作りなさいと神に言われたのです。
目に見えない天の家を、地上で物理的に見せて教えるためのものです。
そして、神の家には、神の家の家訓があるのです。これは、人が
勝手に再定義したり、塗り替えることはできません!
それをローマ帝国はやりましたが、その教えは神の前に何の意味もない、真実ではない、所詮人間が作り出した宗教の教えであり、イスラエルの神に属さない教え、生き方です!
イスラエルの神は、イスラエルにも異邦人にも同じ1つの家訓しか
与えていません。
神の与えた契約〜婚姻契約ですが、婚姻と言われるのは、それは婚姻契約用語で表されているものであり、人間の関係の中で一番近い、
親しい関係は夫婦、夫と妻という関係であるから、神と人の関係も
それ以上に近しさがない関係であることを、教えているからです。
クリスチャンの中で教えられている教えは、西洋人〜異邦人〜
ローマ帝国皇帝が作った宗教の教えであり、ヘブライ聖書ではないです。翻訳聖書を使って利用し語りますが、語られている教えは、人が作った宗教の教え神の教えを否定した土台とする思想であり、
それらは聖書ではないのです。
そして、西洋宗教が編み出した数々の教え=聖書とは違う教えと、
シンボルや、彼らが編み出した宗教儀式や記念日を想像して、
聖書を読んでも、それは、聖書に書かれていることとは違う解釈に
なっているのです。
礼拝と書かれている中心は、全て神の家の中、祭壇を巡る出来事で
教えられているのです。
しかも、神の仰せは、神からの強制ではありません。
もしその人個人が、イスラエルであれ、異邦人であれ誰でも=アダム
人が神との関係を持ちたい、近しい関係を育みたい、神を知りたいと
望むならば〜という、人の願望が優先されています。
自由意思尊重です。だから、神の教えとは違うことも人は出来るのです。
愛は強制ではないと伝えているのです。神のことなど知りたくない人は、神を求めないし、神が教えていることを熱心に知ろうともしないで、人間の考えで勝手に生きることを推し進めているのです。
その代わりに、人間の教えを求めて、宗教を実践し、神との本来の関係の入ることが何か分からないまま、神との間の隔たりを作りながら、宗教の教えをやって生きてしまうということになるのです。
だから、神が伝える通りに、神に近づいて!と人に教えているのが
神の教えであり、その詳細がトラーに記され、特に神の家の中の
出来事、イエシュアの実態、神の子らの性質と、神と人とどのように
修復し、和解し、本来の姿で関係を持つのかを、レビ記の中で教えているのです。
礼拝とは、歌とか踊りとか、西洋宗教で体験することとは異なるものなのです。
神の伝える礼拝、神への近づき方は、コルバン(コバノート複数)を
通して、神に近づくことを教えているのです。
翻訳で、生贄と訳されていますが、神の祭壇の上に捧げる動物、
穀物は、「コルバン」と呼ばれるものです。
「近づく、引き寄せる」という意味で、その語源は、カローブ
内側、近いという意味、腹の中、これ以上の近さはないという意味の
言葉なのです。
そして、クリスチャンが勘違いしているのは、このコルバンは罪の
赦しのために、イエシュアが来られるまでの仮のものなどという
解釈をしていることなのです。
コルバンには、そんな意味は1つもありません!なぜなら、動物の血や、捧げ物で人の罪は消せないからです。
そうすると分かると思いますが、聖書を読む前提が最初からずれているのだ!ということに気がついて下さい。
人の編み出した宗教の教えや思想が、正しい聖書理解に全く何の役にも立たないどころか、神の伝える真理を知る妨害そのものであることも、知って下さい。
だから、人間が編み出した教えを通して聖書を不正確、曲げて解説されたら、神が人に何を伝えているのかさえ、全く見えないまま、空想=人間の教えで神の言葉を勘違いしたままになってしまっているのです。だから、人間の編み出した教えの方を一掃して、神の言葉で何が
語られているのかだけを、知れば良いのです。
続く