2日前のシャバットのトラーの箇所は、レビ記21:1-24:23、
トラーの箇所に関連する預言書は、エゼキエル44:15-31でした。
福音書以降でしたら、1ペテロ2:4−10です。
この箇所には、祭司、コーヘン(コハニム複数)祭司として選び出されたレビ族、天の国、神の国、神の家を地上でそっくりそのまま
神が言われた通りを人に教える聖なる民として選ばれた人たちは
神の教えを正しく理解し、人に教え、導く役割を与えられたことが
記されています。聖別された一番高い聖別された生き方です。
全世界の民族の中で、創造主であるイスラエルの神が教えられることを、そっくりそのまま地上に反映することを教える人たちです。
特にレビ族であり、アロンの家系の人々は、天の大祭司〜メルキゼデクの位に属する男子であるから、イエシュアが傷のない子羊であったように、彼らには特別のインストラクションが与えられています。
22章を読むと分かります。
レビ族の祭司、アロンの家系の大祭司ではないから、しかも異邦人
だからそんな教えは関係ないと考えて、その中に記されている意味を知らない場合に、神が教える永遠の真理はその場合、その人の中には浸透しなくなります。知りたくないなら、神の教えなんて追求しないからです。神を求めよ!とは、神の伝えるトラーを求めよ!と
言っているのです。神の教えを知らないなら、空想を求めることになるからです。
聖書に書かれていること、特にモーセの五書に記された内容は、
神の教えの完全版です。その中に記されている全ては、人にとって
知らなくてはならないこと、神が伝えている永遠の真理なのです。
契約の書は、神の大家族全体、個人で、コミュニテイ、国民、神の
国の国家として生きる全てが記されています。
割礼は女性にはありませんが、割礼を通して教えている様々な深い
真理があるのです。
もし、神の言葉のどの箇所でも捨て去るならば、それは、海を水面
水際だけをみているだけなのと同じです。
宝が眠っている海の中〜水の中にある世界〜エデンの園の中に入らないまま、神が創造された世界を知らない、見えないままになります。
そして、23章には、神の創造されたモアデイム〜全国民が神が呼び出しているアポイントメントの日の暦、サイクルが記されています。
神の前に、神の民として神の前に出て、祝い、祝宴する日は、
神が創造されたものです。
そして、モーセはコハニム〜祭司達に対して、神から聞いた言葉を
直接教える役割を与えられました。
祭司達は、神の言葉を聞いて、それを人々に教える役割を与えられたのです。
マラキ2:7 祭司のくちびるは知識を保ち、人々が彼の口からトラーを尋ねるのが当然である。彼は万軍の主の使者だからだ。
祭司達は、神のトラーを教える教師のモデルでもあります。
そして、神に選び出された国民は、神が定義し伝える聖別された
生き方から、ライフスタイルをガードして生きるのです。
その目的は、他の民族がイスラエルの生き方を見て、まことの神、
イスラエルの神、創造主に導かれるためです。
神に聖別された人は、神の名を汚して、破壊してはなりません。
日本語でピッタリな表現、神の顔、親の顔に子が泥を塗るな!です。
神の名をみだりに唱えるなとは、名=実態、評判、それと違うことを
して、神の実態を虚無、間違ったこと、偽の神像を人に伝えては
ならない!生きてはならないという意味なのです。意味なしに、
神の名をベラベラ口に出して唱えるという意味ではないのです。
コハニムは、聖なる民、聖別された生き方の重要さを、生きて
そして、人々にそれを教えと、生き方を通して示す役割を与えられています。
そして、モーセが神から受け取った神の教えを、その通りに聞いて、理解し、人々に神の教え=トラーを教える役割がある、それが聖別された祭司の役割でした。
神はこの箇所でずっと、「わたしが主である」と宣言されています。
レビ記22:31 あなたがたはわたしの戒めを守り、これを行わなければならない。わたしは主である。
22:32 あなたがたはわたしの聖なる名を汚してはならない。
かえって、わたしはイスラエルの人々のうちに聖とされなければならない。わたしはあなたがたを聖別する主である。
22:33 あなたがたの神となるために、あなたがたをエジプトの国から導き出した者である。わたしは主である」。
神ご自身は、明らか、クリアーにご自身が宣言していること、神ご
自身がされていることを、よくごご存知で宣言し、行動しているのです。
だから、私達は神の言われることを、その通りに聞いて、神が言われる通りに生きる!という、シンプルな選択があるのです。
神が主であり、人間は主〜神ではない!人は神に聞くという選択肢があるだけで、人間は神の教えではない教え=宗教を勝手に作り出してはならないのです。神の言葉に付け足し、差し引きする!それが
宗教の教えなのです。
人は神の領域に踏み込めません。人は神が伝えることを、勝手に塗り替え、削除、破棄できないのに、それをやって、神を無視し、神を
汚しているのです。
イスラエルと書いてあるから、異邦人の自分は関係ありません!と
いうならば、その時点で、その人はユダヤ人であるイエシュアとも
何も関係ありません!と言っていることに、はっきりと気がつかなくてはなりません。
聖書は、イスラエルを代表として書かれているのです。イスラエルの神は1つであり、同じ1つの契約、同じイスラエルの神の民の大家族に異邦人も加えられているだけ!その事実しか、永遠に存在しないのです。パウロの書簡、手紙さえ、宛先の群れは、ユダヤ人が主体の群れなのです。
ヨハナンの黙示録に書かれた、7つのカハール=エクレシア=群れも
今のトルコ周辺に住んでいた、異教の神々の文化と、多民族が住まう場所に住んでいたユダヤ人の群れであることを理解して、黙示録を読まないとなりません。教会という造語で新しく出現した異邦人だけの
群れと考えているでしょう。聖書を空想で誤解して読んでいるのです。
神はイスラエルを全民族の代表として選び、イスラエルを通して全民族に同じ契約、贖い、救い、約束、保証、祝福を与えると神がそう
されているからです。2つ別の救い、2つ別の神の契約、2つ別の
イスラエルの神の家族はありません。それは人間が作った宗教の教えであり、聖書が伝えている事ではありません!
イエシュアが筆頭、頭、長であり、イスラエルという国民が地上で
天の国をそっくりそのまま反映する民〜聖なる国民として選ばれたのです。だから、イエシュアはユダヤ人であり、フランス人や韓国人ではないのです。
コーヘン=祭司は、イスラエルの民にトラーを教え、そして、イスラエルは神のトラーを、異邦人へ教えるために、聖別されたのです。
聖別という言葉のヘブライ語の意味は、神の目的通りに分たれて
神に呼び出され、選び出され、神のプラン、目的通りに神に仕えること、それが聖別の本当の意味です。
それは、人だけではなく、物も動物も、そして「時」も神の目的通りに聖別されているのです。
イスラエルが、神の教えに生きることからずれて、異教の神々の慣わしに同化し、カナン人のような生き方をし、刈り取る結末、厳しい
訓練を受けた記録が聖書には記されています。
聖別された生き方を教える国民が、神の名=実態を汚す生き方は
してはならないからです。
人に、イスラエルの神を、そのままの実態を地上で反映する鏡の役割が、偽物の教えで濁り、曇り、別物を人に伝えたら、神が汚される
からです。
異邦人にも同じように、イスラエルの神が伝える聖別された生き方を
イスラエルは異邦人に教える役割があるのです。
それが選びの民のミッションだからです。
神に聖別された人は、神が伝えることとは違うことをして、神の名=
実態を人の前=全民族の前で、汚してはならない!と厳重警告されています。
レビ記22:31 あなたがたはわたしの戒めを守り、これを行わなければならない。わたしは主である。
22:32 あなたがたはわたしの聖なる名を汚してはならない。
かえって、わたしはイスラエルの人々のうちに聖とされなければならない。わたしはあなたがたを聖別する主である。
22:33 あなたがたの神となるために、あなたがたをエジプトの国から導き出した者である。わたしは主である」。
エゼキエル36:19 彼らを諸国民の中に散らしたので、彼らは国々の中に散った。わたしは彼らのおこないと、わざとにしたがって、彼らをさばいた。
36:20 彼らがその行くところの国々へ行ったとき、わが聖なる名を汚した。これは人々が彼らについて『これは主の民であるが、その国から出た者である』と言ったからである。
36:21 しかしわたしはイスラエルの家が、その行くところの諸国民の中で汚したわが聖なる名を惜しんだ。
36:22 それゆえ、あなたはイスラエルの家に言え。主なる神はこう言われる、イスラエルの家よ、わたしがすることはあなたがたのためではない。それはあなたがたが行った諸国民の中で汚した、わが聖なる名のためである。
36:23 わたしは諸国民の中で汚されたもの、すなわち、あなたがたが彼らの中で汚した、わが大いなる名の聖なることを示す。わたしがあなたがたによって、彼らの目の前に、わたしの聖なることを示す時、諸国民はわたしが主であることを悟ると、主なる神は言われる。