シャヴオートは、ヘブライ語では、週という意味の名が付いた祭りです。
過越の祭りから7週後、出エジプトして、贖われた人たちが、新しくされ、聖霊を受けて花嫁とされた。正式に神の家の花嫁、聖なる民としての婚姻契約を受け取った祭りなのです。
7週の間新しくされた人を意識して7回のシャバットを過ごして、
新しい初穂〜小麦の初穂が捧げられるのです。
一番最上の小麦で、種を入れた2つのパンを捧げる。
小麦を最上の粉にするには、努力があるのです。
どんな努力でしょう?
意識を新しい人に切り替えて、意図的に新しくされた事実だけを
生きる!考える!以前の自分の生き方を捨てて、新しい人を生きる。
過越では、種無しパンの7日間を過ごしましたが、今度は種ありパン
です。家、イスラエルの国中から全部パン種を除去!
奴隷であった、パン種は、罪を表すもの、それを全部除去。
奴隷の意識を全部除去する事を、教えているのです。
シャヴオートは、新しくされた人で神の前に出ている事を教えているのです。
七週間、全ての思索をキリストイエスにあって虜にして、捉えて!
という生き方をずっと続ける。この週で、学んだことを、それ以降も
ずっと継続して生きるのです。
今迄生きた事のない、生き方〜イエシュアの性質通りを生きる。
イエシュアの性質通りの生き方が、トラーに記されているのに、
それを捨てたら、神に何を教えられているのか、理解できなくなります。これが、シャヴオートの祭りの醍醐味です。
7つの子羊、2つの種ありパンが捧げられるのです。
クリスチャンは、今度の日曜日にペンテコステを話題としますが
どのように祝うのでしょう?
その祭りの意味を、正しく教えられる必要があります。
その日は、聖霊降臨祭という主旨の祭りではありません。
この祭りは、シナイ山で婚姻契約〜トラーを文字で与えられた日
そして、これを婚姻の祝宴の日と考えています。
イスラエルという国家、民族が正式に誕生し、そして、そのイスラエルの中には、異邦人も一緒にいました。
それらの異邦人も、イスラエルと同様、神の声〜言葉、モーセを通して言われたこと、子羊の血を鴨居に塗り死が過越して、命がその家の
中に入ってきた人たち、同じ福音を聞いて、エジプトからイスラエルと共に一種に出てきた人たちです。
過越から、7週後、シナイ山で、神が直接降りてきて、この婚姻契約を与えられることになった祭りなのです。
約束の地に入ってから、この日は、小麦の収穫祭ともなりました。
シナイ山では、もっとすごいことが起きたでしょう。
天が直接降りて来た。使徒2章は、全世界へ、全ての民族に、神の
トラーが大々的に伝えられる幕開けでした。
イエシュアが来られて新しい教え、新しい福音、新しい別物の契約が与えられたという空想は捨ててください。そんなことは、聖書には
書かれていない、人間の作った宗教の思想、教理、神学です。
イエシュアの贖い、完了の業は、エデンの園の最初から教えられています。それを理解する人が、残りの民であり、聖別された人です。
ノアも、アヴラハムも、同じイエシュアを知っていたのです。
イサク、ヤコブも、ヨセフも。同じ福音、同じ教え=トラーだから。
神の教えは、最初の部分に全てが記されているのです。
福音の全ても、トラーに記されているのです。
イエシュアも、トラー、預言書、諸書に記されています。
イエシュアも、そう言われたでしょう。
それを理解できないのは、聖書を正しく学ばないからです。
そして神の教えは、警告は、神の伝えた生き方=トラー=婚姻契約を固くガードして生きよ!です。
ルカ 24:25 そこでイエスが言われた、「ああ、愚かで心のにぶいため、預言者たちが説いたすべての事を信じられない者たちよ。
24:26 キリストは必ず、これらの苦難を受けて、その栄光に入るはずではなかったのか」。
24:27 こう言って、モーセやすべての預言者からはじめて、聖書全体にわたり、ご自身についてしるしてある事どもを、説きあかされた。
24:44 それから彼らに対して言われた、「わたしが以前あなたがたと一緒にいた時分に話して聞かせた言葉は、こうであった。すなわち、モーセのトラーと預言書と詩篇とに、わたしについて書いてあることは、必ずことごとく成就する」。
24:45 そこでイエスは、聖書を悟らせるために彼らの心を開いて
聖書と聖書に書いてあれば、それは100%モーセの五書、預言書
諸書だけを指して、聖書と書いてある事実を考えてください。
福音書以降で語っている全ては、タナック=モーセの五書、預言書
諸書だけを指して、語っているのです。
聖書のどの箇所も、全てモーセの五書=トラーを指して語り、トラーを解説し、そしてトラーから外れて生きた人たちへ、警告しているものなのです。
でも、人間が作った宗教の教えは、神の言葉を捨てて、人間の編み
出した教えを代わりに生きてよいと教えます。今はなんでもあり!LGBTも祝福しますなどという、とんでもない罪、ズレに、人をいざない、暴走しているのです。
神の教えを、どの箇所でも捨てる、違反する、無視する場合は、
罪に扉を開いているのです。このように不品行、道徳的違反と考えられるものだけではなく、神の教え、神の記念日、神の伝える聖別を
人が破り、神の宮である自分、神の名=実態を地上で表す人が
神を汚す行為をしている全て、それを神がどれほどずれているか、
忌み嫌われると言われる行為と言われているのか、神の伝える罪の基準、聖別の定義を捨てる場合には、神の教えなど、その人の耳、
頭脳には全く届いていない、通じなくなっているのです。
自分よがりの聖別で、清められたと考えているとあるでしょう。
祭司たちでさえ、きよいものと、きよくないものの区別を知らない
教えないと警告されています。
神の前に汚れた生き方をしてていも、それが何か分からない状態なのです。
LGBTなど、人類を破壊する汚染そのものです。命の根源、神のデザイン、人の性質そのものを塗り替え、歪め、腐敗させ、美しいものをおぞましいもの、悪魔の手に渡している。
サタンの推奨する生き方に賛同している。
サタンは、神の創造を全て曲げる、逆をさせているからです。
LGBTも、結婚を禁じることも、その他諸々神の創造のデザインと
逆、違うことを主張し、することは、破壊への道、悪魔の教えと神が警告しています。
神の教えを捨てる生き方は、神が教える恵などではありません!
それは、1世紀から続く、ローマ帝国の勅令であり、モーセの五書
捨てよ!生きるな!という皇帝の思想の上に、人間が作った宗教の教え、思想なのです。
神の教えを捨てる行為は、神の言葉によれば、神に対する敵対行為
反逆であり、バビロン、大淫婦の行いです。
パウロが語る神の定義の「恵」とは、神が与えた完了の業、子羊イエシュアの贖いの血により新しくされている事実、それが神の与えた恵です。
新しくされている事実を与えられ、それを生きれる、それが恵です。
恵とは、自分がそれを受けるに値する何もしていない、値していないのに、受け取ること、それが恵の意味です。
誰一人、イエシュアがされた贖いの血の代価を支払う能力、術、
方法はないからです。古代は神の律法を生きて、義とされたという
聖書とは、真逆の教え、聖書ではない教えを、排除しないとならないのです。
律法の下にいないとは、「罪と死の法則の支配の下」にはいない!
という意味です。それが、ローマ6,7章は文脈、内容を正しく捉えれば、翻訳でもパウロが語る意味が、読み取れます。
律法=ノモス=神の教え=聖霊の下にいない、その状態は、危険な状態、無法地帯を生きることと、聖書では教えているでしょう。
ローマや、ガラテヤに書かれている、ノモス=律法を全て「神のトラー、教え」というように読み違えている事を、文脈と内容から逸脱していることを、翻訳でも、気がつくべきです。
しかも、なぜ神の言葉=トラーに対して、パウロが捨てよ!破棄せよなどと、ローマ皇帝たちのような、反キリスト思想を人に教えたなどと言っているのでしょう?パウロは使徒なのです。
神により送られた人=神のトラーを神の意図通りに人に教え
生きて伝える人として、召された、それが使徒の意味です。
異邦人の間に浸透した教えは、根本、土台が、人間の教え〜神の言葉は神が破棄し、廃れた!という、聖書に書いてもいない、神の言われることとは、真逆の思想なのです。
そして、聖霊=言葉=イエシュア=神であることを理解しないまま
神の言葉イコール、神であるのに、神に敵対する思想をもちながら、
律法は廃れた!と言い、同時に、神を愛しますという同じ口から発言している、その違和感に聖書の記述から、気がついていないだけなのです。これが、冒涜、神に敵対する行為と気がついていない。
神の言葉を破棄すること、イコール正義!と思っている。
なぜなら、イエシュアは、神の厳しい教えに縛られた人を、解放するために来られた!と、神の言葉、教えが、完全に悪者とされて、
ウルトラマンは、その悪者〜ゴジラを撃退している。
それより酷いのは、ゴジラではなく、ウルトラマンが、ウルトラの父を撃退しているのです。内部分裂思想です。
こんな、空想話=人間の作った宗教を土台として、聖書を読んで
神の言葉が終わりという思想を信じる人が翻訳した聖書を読めば、
元には何が書かれているのかの意味、言語の知識がないまま読んだら、それこそ、なんとでも、誤訳から別の聖書解説などできてしまいます。
神の教えが廃れたという、ダービー教のような思想を信じる人が、
聖書翻訳したら、スコッフィールドチェーンバイブルのような、
人間の思想を聖書のページ、1節ずつ、人の思想を書き込んで
それが聖書と思わされた人たちに、神の純粋、オリジナルの言葉とは違う教えを教えられてしまった負の代償があるのです。
それは、聖書ではなく、人間の作った宗教と、人間の考えた神の教えを曲げる思想を解説しているものなのです。
大きな誤解、勘違いがあるのです。変わるべきは神の教え=言葉ではなく、人間の内側、中身、思考回路、意識なのです。
これを、クリスチャンが完全に誤解しているのです。
神の言葉が絶対であると、結局口で聖書は完全なる誤りなき神の言葉と言いながら、変わるべき神の言葉と実際は信じている。
神が言ってもいないこと、聖書に書いてないことを信じているのです。
エレミヤ31:31も同じです。未来に全ての人が生きるのは、
神のオリジナルの教え、トラー、婚姻契約です。
その時、未来は、出エジプトして頭脳に割礼がはっきりされない
新しくされた人で、神の教えを受け取る理解する頭脳ではない人の
状態ではない!と書いてあるのです。
未来は、皆が裏も表も神の教えを知り新しくされた人として、
イエシュアの性質通り、トラーを生きる!という未来預言が、
エレミヤ31の、新しく更新される契約の預言なのです。
クリスチャンの間で語られる、新しい〜モーセの五書とは違う契約
教えのなど、聖書に1つも記されていません!
しかも、置換神学のように、異邦人に与えられた別の契約書や、
モーセの五書を分解し、人間が付け足し差し引きして良い契約も
ない!
神との関係にある証拠、証明、保証は、このトラー=モーセの五書以外はない!という、正しい理解がない人が、勝手な思想を編み出し続けて、ないもの〜裸の王様の衣装と、空気椅子を語っているのです。
読めば分かるでしょう。契約は、イスラエルを代表として、イスラエルだけに与えられました!そして、異邦人は、この同じ1つの契約にイエシュアを通して、イスラエルの神のもとに戻った人は漏れなく
この契約に加わり、同じ家族として、生きる、それが神の教えていることなのに、ローマ帝国の編み出した宗教を土台とする思想は、聖書に書いてない空想話の教理を今も編み出し続けているのです。
ユダの家と、イスラエルの家に与えられた再更新され続けた同じ
シナイ山で与えられた契約しか、この世に存在しません!
ノア、アヴラハムの契約もこの婚姻契約の中に、包括されているのです。そして、異邦人も、この唯一の契約=神が人との関係を証明
保証する土台、これに異邦人も加えられる!と説明されているのに
どうして、それが分からないまま、別の契約出現した!と聖書に
書いてもないことの方を、信じられるのか?
それは、人間の思想を信じて、神の言葉を正しく理解していないからです。