レビ記を読む前提も、最初からズレています。
なぜなら、神の家、神殿で捧げられるコルバンは、罪の許しのためではないからです。
では、何のためにそれを、させているのでしょう?と、疑問に思うべきです。
ミシュカン〜神の家、天の中にある実在する神の家を、モーセは神に
見せられて、そっくりその通りに地上に作るように言われました。
それは、最初は移動式、ミシュカンでした。
これは、朽ちる体と、朽ちない体を表すものでもあります。
この世の地上での旅路〜朽ちる体でも、事実は神の臨在が私達の中に
存在し、私たちも神の中に存在する、天の現実の中にいることを
教えているものでもあります。
天にある目に見えない神の家を、地上で作らせたのは、その中に実際神の臨在があり、そこで神の子らの生き方、神の伝える聖別、神の
伝える修復の仕方、神の伝える許し、贖いの意味を全部教えたのです。
五感を通して、触れる、匂い、見る、聞く、食べる、全部を駆使して
体験的に学習する、神の家〜実体験型学習施設〜神の家です。
そして、実際に神の家は、天にあるのです。
やがて天と地は1つになり、天が降りてくるのです。
神の家には、神のお茶の間があり、親しく交わる場所があり、
神と人と顔と顔を合わせて生きる。
聖別された人の生き方を、全て神の家の中で教えられていたのです。
それが、トラーに記されているのです。
特に、レビ記には、神殿での儀式の意味の1つ1つ、そこに置かれた物、それら全て聖別され、意味があるものなのです。
時も、物も、人も全て神が聖別しているのです。
トラーを書いてある意味通りに正しく学べば、神の教えている教えの麗しさ、深さ、知恵、恵、愛が分かるようになるのです。
教えられないから、分からないだけなのです。
そして神の言葉を律法などという誤訳で、人の教えで、敵対心を
持たされているのです。古い、悪い、一時的、恵のないもの、縛り
厳しい、呪いなどなど。ひどいですよね。神の言葉、イコール聖霊
イエシュアなのに、神に対する敵対心を、異邦人はがっつり植え付けれてしまっているのです。
ずらずら意味不明なことが、ずっと書かれているくらいにしか、
見えないでしょう。
神のミシュカンの中に、神は臨在していたのです。神の神殿の中に
神の臨在があったのです。
だから、神の家が、聖別を破り汚す人たちで満ちて、神はそこに
住めなくなり、神はその神殿から離れたと書いてある、悲しい出来事
があったのです。
神は汚れた場所に住めない。それは神の宮である人も同じなのです。
汚れた生き方をし続けたら、神の栄光、神の現実はその人の生き方から現れ出ないのです。主よ主よという人でも、無法〜神のトラーを捨てて生きる人に、イエシュアは、「わたしはあなたを知らない、関係ない、去れ!」と言われたのです。
神の言葉〜契約が記された石の板です。
契約の板は、2つです。人間の世界の契約と同じ2つ。
両方に同じことが記されています。
そして、不思議ですが、その契約が箱の中に入れられて、神の臨在がその中にあったのです。
神は自由自在にご自身を表します。神が人の中に、人の間に共に住まう事実は、最初から教えらています。
イエシュアの業も、罪の赦しは、動物や人間が代替えできません。
誰も、動物も、人の罪など消せない!と書いてあります。
動物で罪消せたら、最初からイエシュアは要らないです。
こんな解説を聞きます。
イエシュアが処刑された後、神殿の至聖所の幕が2つに裂けた。
だから、今は誰でも神とアクセスできるのだという解説です。
至聖所には、契約の箱〜神の臨在〜神が刻んだ2つの石の板が入られ
金のチェラビムが、贖いの箱の蓋〜カポレットを覆う形のものです。
ここで、神は語ろうと言われた、神は神の言葉を通して、人と会見し語ると言われました。
神=言葉=聖霊=イエシュアです。
この至聖所には、大祭司しか入れません。
レビ族であり、さらにアロンの家系の男子が大祭司です。
これは、天の大祭司〜メルキゼデクの位に属する〜大祭司であるイエシュアを、地上で反映させる役割をレビ族が担ったのです。
この至聖所の幕は、その後修復されました。
詰まり、至聖所に、大祭司しか入れない、それはイエシュアが言われた言葉でも分かるでしょう。
「誰もイエシュアを通して以外、誰も父のもとに来ることはできない」と。
よく考えてください。昇天以降、その後、神殿の機能は、そのまま
継続し、毎日祭壇には、子羊のコバノートが捧げられ、シャバット
新月、祭りも同様に、この神殿中心に祝われていた事実があるのです。
使徒行伝を読めば、それがはっきり記されているでしょう。
書いてあることを、正しく把握し、空想で考えるのはやめないとなりません。聖書が語る真実だけに、戻ってください。
今神殿がないから、そこで行われることが、できないだけです。
イエシュア昇天以降も、神殿が存在している間は、ずっと変わらずに
コルバンを捧げられたのです。なぜなら、それらは罪の赦しのために
捧げられていたからではない!と書いてある通りだからです。
未来もイエシュアが戻られたら、神殿の中で同じように、シャバット
新月、祭りを、コルバンを捧げて同じように祝うのです。
黙示録に書いてある、海もない、神殿もないなどという箇所を、
ヨハナンのコード化して書いている意味を、正しく理解しないとなりません。
悪が支配して来た今迄の世の中とは違う、新しい世界〜イエシュアが統治される世界が来るのです。
そして、エルサレムにイエシュアは戻り、そこに神の神殿が存在する。そして、そこで神の祭りを祝われると預言されているのです。
神の家の中で、様々な儀式を通して、何が教えられているかというと、イエシュアがされた業、神へどのように近づき、傷、歪みを修復するのか、人との和解の仕方を、コルバンを通しても教えられているのです。いけにえという言葉は、翻訳として相応しくありません。
本当の意味は、「近づく、引き寄せる」という意味です。
神の前に引き寄せられる、近づいて出るという時に、捧げ物を持って
いきます。
それは、最も親しい、最も愛している人に、形で自分の気持ちを表すものでもあるでしょう。
大事な人に、一番大事なこと、神が伝えているこれを持ってきてというものを持っていく。
でも、神はそれらが欲しいから、人にそうさせているのではないのが、分かるでしょう。
なぜなら、全ては神が創造されたもので、全ては神のものだからです。とすると、何を神が教えているのかということを、理解すれば
良いのです。
コルバンは、罪の許しのためと考えていると、レビ記を書かれている
意味通りに学ばないまま、知らない場合には、適当な考えをしていることが分かってきます。
捧げ物、コルバンの中には種類があるからです。
全焼の捧げ物(オラー)
オラーとは、立ち上るというようにも解説されていますが、
全焼なので、煙が立ち上がるのです。これはホロコーストの語源にも
なっているものです。
これらは、7つの子羊が、祭壇に24/7捧げられるのです。
このコルバンは尽きないのです。
この上に、全てのコルバンが捧げれるのです。
これは、神への完全な捧げ物として、祭壇の上で動物(雄牛、羊、山羊、または鳥)を完全に焼き尽くすことであり、献身と償いの象徴です。
芳しい香りとして受け取られている、そして煙が立ち上り、天の中に
消えていく様子を見て、神に受け取られていることを、目で見て
実感できるものなのです。
2)罪の捧げ物(ハタット 複数)
的ハズレを、ハターと言いますが、その罪のために、神との修復を
確信するために捧げられるものが、ハターのコルバンです。
これは偶発的な罪、意図的にしたものではない、知らない間に人の
気持ちを傷つけたり、不快にさせたりする違反に対して捧げられものです。一部は祭壇で焼かれ、残りは祭司によって食されるものです。
3)罪過の捧げ物(アシャム):
これは盗みなどのより故意の罪に対して捧げられ、部分的に焼かれて消費されるという点で罪の捧げ物に似ています。
4)和解の捧げ物(シェラミム):
これは共同の捧げ物であり、一部は焼かれ、一部は祭司によって食
され、残りは捧げ物を行った者とその家族や、仲間と共同の食事で食べることで、神との交わり、そして互いとの交わりを象徴しています。意図的にではなくても、相手に対して気分を害する事をしたら、
はっきり公に和解しないとならないでしょう。
これらは、全て人の生き方を、神が教えているものです。
どのように神に近づくか、人と和解するか。
そして、和解した人は、仲直りが成立し、再び食事を共にする
親しい間から、関係に戻るのです。
5)穀物の捧げ物(ミンハ):
これは小麦粉、油、乳香から成り、他の捧げ物と共に神に捧げられました。 贈り物、捧げ物、賛辞という意味の言葉です。
王の王であるお方に、忠実であり、感謝、賛美を捧げる事を意味する
贈り物なのです。
6)奉献物(テルーマ):
これは祭司たちの奉仕を支えるために捧げられた農作物の奉献物でした。
これだけ見ても、罪の赦し、生贄、動物捧げて許されたというのとは
違うことを、神の神殿、ミシュカンの中で教えている事が
分かると思います。神の対しての敬意、礼拝の醍醐味を教えているものです。もっと深く学ぶと、その1つ1つが、イエシュアの修復の業、人との和解、癒し、神と人との修復の仕方を様々に教えられているものなのです。
全ては、新しくされた人の生き方を、神が1から教えているのです。
それを、人間の教えにすり替えたら、そして、神の教えを学ばないなら、神が教えるイエシュアの命で新しくされた人、神の家に住まう人の生き方は、分からないままになります。
自分定義の聖別では、神の家のお茶の間には入れません!
詰まり、新しくされたのに、新しい生き方を理解しないまま、野放図に生きていたら、収穫〜成長はないという結果になり、古い人の性質のまま、生き続けて行くのは免れないという事です。