異邦人クリスチャンの間で信じられている、定番の教えは、
以下のようなものが一般的です。
1)キリストが来られて、古い教え=トラー=モーセの五書は終わりその代わりに新しい教え、新しい契約が出現した。
又は、異邦人は神の古い教えを生きる必要がなくなった。
キリストは、今迄教えられた事のない新しい教え、キリスト教=
カトリック教、キリストが新しい宗教を伝えに来た。
そして、ペテロがその宗教の初代教皇である。
2)キリストが来られる以前の人は、救い主を知らない、内側に
聖霊を受けていなかった。許しもない。だから、生贄を捧げて一時的に許された、又は古い律法を生きて義とされた。
3)モーセの五書に記された教えは、キリストが来るまでの仮の
教えであり、それは人が生きれない程の厳しい律法であったから、
神はキリストを通してその古い律法を釘付けにして、葬り終了させ
人を古い律法から解放してくださった。
4)キリストが来られる迄は、律法時代、キリスト昇天以降は、
律法が廃れ聖霊時代、恵の時代、教会時代になった。
5)怒りの神と、恵の神。怒りの時代と、恵の時代。
律法時代と、聖霊時代。
書き出せばもっとたくさんありますが、これらの思想の土台は聖書ではなく、ローマ帝国皇帝〜人間が作った宗教の教えです。
その思想を、発展させたのが、ダービー教、デイスペンセーション
神学や、置換神学です。
その思想の根底は、トラー=モーセの五書に書いてあること、
ユダヤ的〜(メシアはユダヤ人である)こと全て排除。
ローマ皇帝は、イエシュアが誰で、神の教えが何かを正しく認識していませんでした。
ユダヤ的なことは、全て排除、そして、神の記念日も排除。
これは、反ユダヤ思想〜ユダヤ人なんかに教えられたくなどない!
という思想から来ています。
この時点で、コンスタンチヌスや、イエシュアに敵対している発言
行動をしているのに、その罪に聖書から罪が罪であるとも分からない
そんな人が作った宗教の教えを信奉させられているのです。
ローマ帝国と、ユダヤ人はずっとぶつかりあって来ました。
1世紀当時も、ローマ帝国に抵抗し、神の教えや記念日を実践する事を様々に妨害されて、その結果、第一ユダヤ戦争で、神殿をローマ帝国に崩壊され、110万のユダヤ人が殺害され、9000人のユダヤ人が奴隷となったのです。ずっと敵対して来たのです。
神の教えを生きる事を阻む、ローマ帝国!ローマ帝国に、イエシュアは処刑されたのです。
人造宗教〜ローマ教は、自分たちが考えた別の新しい記念日を、
ローマ教の記念日として、神の記念日や教えをすり替えたものが、
宗教の印、シンボル、記念日となったのです。だから、聖書のどこを読んでも、神が神の言葉、教えを終了!とか、神の記念日も終了!
新しい宗教の教えを生きよ!などと、書いてないでしょう。
そして、このローマ帝国皇帝〜人間が編み出した、異教の神々の教え
シンボル、儀式、記念日に作り変えられた思想を、異邦人は宗教として信奉するようになり〜それは、半強制的、政治的理由なのです。
なぜなら、ローマ帝国下の国々の人は、全てこれらはローマ帝国の
勅令、法律なので、それに従い生きなくてはならないと、強制的に
形、上辺だけ表向きだけでも、この宗教を実践させられたからです。
もちろん、ユダヤ人はそんなものはしない、家ではトラーを生きて
いたのです。神の教えなどよく知らない異邦人は簡単に流れて行ったのです。処罰が怖いから。
だから、ローマはユダヤ人に対して、財産を奪い、職業を奪い、
トラーの巻物、書を奪うという非合法を、ローマ帝国はずっと働いて来たのです。十字軍も、ポグラムもホロコーストも同じです。
神は、イエシュアが昇天された以降、トラーとは違う別の教えなど
人に教えてもいない、与えてもいない、そんな別の聖書=契約書は
この世に存在してもいないのに、ローマ教では、無いものがあるが
ごとくに語られ続けているのです。
どうして、同じ人間が、しかも、神ではない人間が神と同等の権威があり、神の教えを塗り替える権威があると教皇が言う。教皇の言う事、それが神の言葉だから、イコール全員が賛成しなくてはならないと主張しているのか。この点はプロテスタントも同意するでしょう。
それは、聖書ではないと、はっきり分かるでしょう。
でも、結局同じ事をしている。階級制、牧師の言う事は神の言う事などと言う人もいるけれど、どういう意識なのか?不思議です。
そしてプロテスタントが、聖書だけが絶対!と主張していても、
ユニバーサル教の教えからは離れたのに、プロテスタントも結局信仰の根、土台は同じ、神の言葉が廃れた!という思想を土台とした信仰を基準としているのです。そして、神の教え、神の記念日を捨てて
ローマ帝国が作った、日曜礼拝、クリスマス、イースターを変わりに
祝っていても、それがイスラエルの神から出たものではないという
認識さえないままなのです。人間由来の、神の記念日ではないものを
変わりに祝っているのです。
そして、聖書だけに戻ると言いながら、結局人間の意見で神の言葉を自由自在に仕分けて、やっているでしょう。
これは、今は関係のない教え、あれは異邦人には関係ない教えなどと
勝手に神になり代わり、言い続けている罪に気がつけないままなのです。
言動と、行動が一致せず、神の言葉に人間が手をつけているという
罪、ズレに聖書から気がつけないのは、ローマ帝国皇帝の思想が頭脳の中に浸透していて、神の教えが終了した!という、偽物の教えを
信仰の土台として、その間違いに全く気がついていない人が、
その思想を語り続けているのです。
聖書を語る時に、翻訳の中には、人に誤解を与える誤訳、不適切な訳、又は聖書にない言葉を異邦人が作り、それを翻訳造語にしたり
又は原典にない文章まで挿入している事を知った方が良いです。
犬なのに、猫と言われれば、犬が猫と思うでしょう?
それと同じ事をし続けています。
これでは、翻訳読んだだけでは、元の意味が見えないどころか、
本来の元の言葉の意味を全然反映しない言葉で訳されたら、更に真実を知る手掛かりを失ってしまっているのです。
新約聖書、旧約聖書というタイトルも、神の言葉に対して、完全に
誤解を与えているタイトルであり、これらは異邦人が編み出した
タイトルであり、神がつけたタイトルではありません。
神の言葉は、トラー=教え、インストラクション、ハエデゥト〜証
という言葉で、神が説明しているものであり、神の言葉は1つです。
神の言葉、教えの完全版は、モーセの五書=トラー=婚姻契約だけです。ヨシュア〜マラキは、モーセの五書を解説している書です。
そして、福音書以降は、預言者が書いた最初の箇所を塗り替える別の新しい教えなどでもなく、最初の部分を解説する短い後書きであり、使徒達が書いた書簡なのです。
聖書の中には、神の言葉同士が互いに相反し、矛盾し、敵対しあう事、変更なども1つもありません。
使徒やパウロが、モーセの五書を塗り替えた新しい教えをしていると
勘違いしているのは、パウロの手紙や使徒の手紙、書簡を書いてある意味を正しく理解せず、言語の意味を理解せず、知るべき当時の世界の情報、知識に欠け、ローマ帝国教の教えを通して考えているから、書いてある真実からズレた聖書解説ばかりが、異邦人の中でされてしまっているのです。
パウロの書簡が特に誤解されていますが、パウロはクリスチャンが
誤解しているように、モーセの五書を否定する教えなど1つも
していません。パウロが議論し、正していることは、人間の編み出した教え〜口伝律法、人間の編み出した間違ったトラーの解釈、
異邦人に対しての改宗儀式や、手洗いの儀式その他諸々、神の教えではないユダヤ人が編み出した無数のルール、神秘主義、グノーシス
主義、禁欲主義、結婚を禁じる思想、etc etc etc etcそれらの人が編み出した教えに対して、ノモス〜戒めの律法、伝統の教え、先祖の言い伝えとイエシュアも言われた通り、神の教え=トラーとは違う人間の教えに対して、それは神の教えではない!と正しているのです。
それを、クリスチャンは「割礼」と読んで、それがユダヤ人の編み出した異邦人に対する改宗儀式=割礼という名をつけているという知識がないから、即座に「アヴラハムの割礼を禁じている!」と聖書を教える教師が以前私に、そのように教えてくださいましたが、それこそが、聖書を正しく理解していない証拠なのです。
パウロは、使徒21:21にある通り、100%モーセの五書=トラーに忠実に生きているという証明を、神殿での請願の儀式を通して
パウロが自分で世間に表明しているのです。
どうして、クリスチャンは聖書に書いてある記述を、書いてある意味通りに理解しないまま、ただ字面を読んでいるのか疑問に思わないとならないのです。
しかも、パウロがユダヤ人議会、サンヒドリンで、証言しているでしょう。国会証言です。ヘブライ人であり、パリサイの子、パリサイの中にパリサイ。その証言は、100%モーセの五書に忠実に生きています!という宣言である事を、理解すれば良いのです。
又は、クリスチャンはパウロは、ギリシャ人、ユダヤ人に対して
言う事をカメレオンのようにコロコロ変えるなどと、解説していますが、パウロはペテン師、詐欺師、嘘つき、偽教師ではありません!
勝手に、人に対しての偽証、偽物のパウロ像を語っているのです。
ペテロはもちろん、ローマ教の初代教皇などではありません!
なぜなら、ペテロもユダヤ人であり、生涯100%トラーに忠実に生きて、人に教えた使徒だからです。
使徒とは神から送られた人であり、神のトラーを忠実に教える役割を与えられた人です。その人たちが、どうして神のトラーをローマ皇帝のように勝手に塗り替える教えを、人に勅令として生きる事を強要するなどと考えているのでしょうか?
そんな人は、使徒とはなり得ません、
もし人がある企業に勤めていて、その企業の社長が売っている商品、
サービスを売るために雇われたら、その会社のセールスをするのに
会社の商品にケチつけて説明したり、会社に被害を被るような事を
言ったりしたりするなら、その人は首になりますよね。
それと同じ事を、言っているのです。
神のトラーを教えるユダヤ人は、全世界へ神の契約=トラーを伝えるために選び出されて、しかも、使徒やパウロはその代表として
派遣されているのに、その人たちが、神の教え=トラーは廃れた!
などという、まやかしの教えをしたら、その時点で首です。
そんなこと、あり得ない事でしょう。だから、異邦人の世界に伝えられてしまった教えは、救い主が来られて、処刑され、罪赦され、
永遠の命を頂いた、その点は事実でも、その後、神の言葉、教えが
廃れたというのは嘘、ローマ帝国皇帝の勝手な思想で、宗教が作られた!という事実を、ぜひ自分で調べて真実を突き止めてください。
そして、神が人に伝える通り、昇天以降も神の教えは永遠に変わらない、何一つ変わっていない!同じです。
福音書以降を、書いてある意味通りに正しく読み取れれば、その中に書いていあるのは100%モーセの五書の解説だと理解できます。
聖書の中には、4世紀にローマ帝国により作られた別の宗教の教えは
書かれていません。それは神の教えではない、人間が作った神の言葉に反する教えが盛り込まれている宗教であり、しかもその土台は太陽神、ミトラ教〜ローマ皇帝が信奉していた土着信仰がふんだんに混ぜられている
コピー品、偽造品です。
使徒20で、パウロが次の場所に旅し、移動する前に、皆とお別れ会を夜中までしていた事が記されています。
これは、日曜礼拝の事などではなく、除酵祭り〜つまり過越から7日間の種無しパン、その中にある「初穂」復活の命を祝う祭りの7日が
終了して、次の祭りのシャブオートまでの7週に入る最初の週の
出来事である事が記されています。
過越の祭りを祝うという意味は、シャバット=第7日目に祝っているという証明、証拠なのです。神の使徒は、ローマ皇帝のように罪を犯しません!神の教え、記念日を勝手に作り変えたる罪を人にさせません!
こんな箇所を、日曜礼拝していたと、勝手な解説をしていますが、
もしこの日が土曜日であったら、この時は土曜の日没なのです。
グレゴリオ暦の日曜日ではありません。
日曜日の夜に集まるなら、それは既に月曜日です。
これは、安息日が終わった時であったとしたら、その安息日を閉じる
パンを裂いて、皆で食事をする晩餐を兼ねて集まった事が分かります。
安息日〜日曜に変更された!という神話を捨ててください。
それは、ローマ帝国皇帝が4世紀に勝手に言い出して、それに皆が
強制的に従わされ、その結果ずっと安息日が日曜日という主張を人間がしているだけで、神は、シャバットは第7日目!という事は、永遠に変更しないのです。それは、神がこの世界を創造された宣言であり人は神が創造された全ての中だけ、それ以外の生き方ではない、神の
提供する生き方に根付いて生きる事、神が神である事を宣言しているのが第7日目のシャバットなのです、
聖書を正しく読み取る人には、聖書のテーマはずっと7であることを
理解して読む事ができます。
神の命のサイクル、暦は7を中心に全てが繋がっているからです。
春の祭りも、新月から7日が2回 2週繰り返された15日
それが過越の祭り。7日間の種無しパン。
その時から、7週間、7回のシャバットを生きて、シャヴオートの
祭りがあるのです。
秋の祭りも同じ。第七の月。1日=新月の日=角笛を吹く目覚ましコール。王の到来を告げるものです。10日、大贖罪日。そして、15日から7日間の仮庵の祭り。
全部7です。シュミタ年7年目。そして、ヨベルの年。7年を7回繰り返し、全ては本来の所有者の手に戻る。
神のメッセージは、神の言葉を捨てる人には、見えないままになります。
神の言葉、教えを尊重して生きる人〜契約の命をガードして生きる人、聖なる民は、神の言われる事を愛し神の教えに忠実に生きる人と
神が伝えているのです。
宗教の教え〜人が作った教えに熱心、固執する、しかも異教の神々の教えやシンボル、儀式を混ぜたもので、別の日にイスラエルの神を
礼拝することを、聖書では、「高きところの礼拝」とずっと警告しているのです。神は人を惑わし、永遠と言いながら、途中で変わったなどという嘘など言いません!