ヨハネ 14:15 もしあなたがたがわたしを愛するならば、わたしのいましめを守るべきである。
<戒め、仰せ、さとし、みことば、知恵、それらは全て100%モーセの五書トラーに記された父の教えを指して語っていることを、はっきり理解して下さい。>
1ヨハネ2:4彼を知っている」と言いながら、その戒めを守らない者は偽り者であって、真理はその人のうちにない。
2:5 しかし、彼の御言を守る者があれば、その人のうちに、
神の愛が真に全うされるのである。
それによって、わたしたちが彼にあることを知るのである。
2:6 「彼におる」と言う者は、彼が歩かれたように、その人自身も歩くべきである。
<イエシュアが歩かれた通り!それは、イエシュアがトラーを生きた通りに生きる。これを、イエシュアが成就したから、神の教えを生きるな!人間の教えは辻褄合わないのが、聖書から識別できますか?>
2:7 愛する者たちよ。わたしがあなたがたに書きおくるのは、新しい戒めではなく、あなたがたが初めから受けていた古い戒めである。
その古い戒めとは、あなたがたがすでに聞いた御言である。
<太古から語り継がれた同じ神の教え=トラー=婚姻契約=イエシュアです。太古から教えられた神の教えを聞いて来た、それを生きよ!イエシュアがされた通りに生きて!と言っているのです。>
神の教えは、1つしかないという事実に、聖書から気がつかない人がそのようなことを言っているのです。
それは、聖書ではなく、人間の宗教、ダービー思想、デイスペンセーション神学の教えで、神の言葉の真実を覆い隠され、目隠しされ、
人間の教えで聖書〜神の言葉の方を人間が塗り替え、再定義し直した教えを聞き続けているから、何が聖書の事実なのか、何が人の教えなのか、聖書を正しく知らない場合には、人間の教えが聖書と思い込んでいるだけなのです。
神の教えの完全版は、モーセの五書=トラー=婚姻契約!これしか
ありません!
福音書以降には、トラーと違う教えなど、1つも教えられていません!昇天以降も同じトラーです。
使徒を読んでも分かるでしょう。そこに記されているのは、全ての
ユダヤ人イエシュア信者、イエシュアを知らないユダヤ人もイエシュア昇天以降も、変わらずにモーセの五書を熱心に探求し、学び、生きて、レビ記23章の神のシャバット、新月、祭りを祝った記録しか
記されていないのです。
パウロの手紙には、日曜礼拝をしていることや、クリスマス、
イースターを祝い、神の教え=トラーを破棄せよ!などと、パウロは
一言も教えてなどいません!勘違いした読み込みをしているのです。
全部、パウロの手紙、ヘブル書など、誤解して読み続けていることが
原因なのです。
聖書に書かれている意味を、書かれている意味通りに正しく学んでいない!これが問題の本当の原因なのです。
イエシュアが来られて違う点は、神の教えの中身が変更されたことではありません!
人類史上歴史の中で初めて、神が創造された人の本当の生き方、
トラーそのものをイエシュアが生きて、それを人が体験したことです。WWJD、という意味は、イエシュアが生きた通りの性質
トラーを生きる!ということでしょう。
誰も体験したことのない生き方、愛をイエシュアの生き様を見て
人は触れて、体験したのです。
新しいとは、神の教えが新しいのではないのです。
同じ神の教え〜その教えはずっと継承され、再更新し続けられているのです。そして、変わることは、神の教えを生きる人の意識が変わる
変わるのは人間=船の方であり、神の言葉=灯〜灯台の方ではありません。
クリスチャンは、神の教えを「律法」という誤訳と、ローマ帝国教の
教理により、神の言葉が悪い、古い、厳しい、呪い、縛りというような意識を、ずっと頭脳に植え続けられているのです。
パウロのような教師達に学んだら、神の教えがどれほど麗しいのか
詩篇の記者が賛美しているように、理解できるはずです。
詩篇119編は、詩篇で一番長い箇所ですが、その中に書かれていることは、トラーに対する賛美、慕う心がずっと記されていることに
気がついて読んでいますか?
クリスチャンも詩篇や、箴言を読んで励まされ、感動しませんか?
そこに書かれているのは100%モーセの五書=神の教えの知恵を
実際に生きることが記されていることに気がついて読んでいますか?
もし律法、古い悪い廃れた呪いというならば、詩篇も箴言も同様に
古い、悪い、廃れた、一時的で無効、破棄された呪いの律法なります。誤解しているのは、神は人間の手柄、行い、努力で贖い、救いを受けるのではない!と教えているだけです。
そして、子羊の血の代価で贖われた全ての人は、神のトラー=婚姻契約の中に生きることに招かれていることを、正しく知らないとならないのです。
神の家、聖なる民には、聖なる民の生き方があることを、はっきり
知らないとなりません。クリスチャンの世界で教えられるのは人間
ローマ帝国の宗教の教え、それぞれが考えることを選んで生きて良い
分裂家族の分裂思想的、一致もなにもない、人間主体の宗教の教えを
信じて実践しているのです。
だから、聖書に書かれていない教理、思想が山ほどあり、イエシュアが教えて祝った神の記念日を祝わないのです。
全部は、偏見、偽物の教え、神の言葉に敵対するものの思想を
刷り込まれ、偏見の先入観で神の言葉を正しく学ばないことが問題なのです。
異邦人が別の教えに流れて行って、ユダヤ人の群れと、神のトラーと
そして、パウロのようなトラーと完全決別して行ったのは、2世紀
以降です。そして、今のような異邦人だけに群れになって行ったのです。
だから、今もこんなに情報、ネットが氾濫しているのに、異邦人の中では、パウロのような教師に代々、トラーを学び、イエシュアが生きて教えた、教えを実践などしない群ればかりなのです。
異邦人の世界で実践され続けてきたのは、ローマ帝国が作った人造
宗教〜太陽神=ミトラ教の教え、異教の神々、それらの宗教の偉人を崇拝し、死者との交流、祈りもする混ざった教えを実践し、
異教の神々の教え、シンボル、偶像、儀式、記念日を祝っているのです。1世紀のイエシュア、使徒、ユダヤ人達、聖書とは違う人造宗教の伝統を実践しているのです。
イエシュアが教えて、祝われたのは、シャバット、新月、過越、仮庵の祭りであり、日曜礼拝、クリスマス、イースターなどではありません。それらの記念日は、聖書に記されてもいません。
神が創造されたシャバットの醍醐味を、イエシュアはずっと教えられました。シャバットは修復、回復であり、その日にイエシュアが
人を癒した記録があるでしょう。
そして、人のためにシャバットが造られたことを、何度もイエシュアは教えているのです。
神は、神の暦を造られたのです。人の世界にも暦があり、
日曜日は月曜日ではないでしょう。
神のシャバットは、第7日目であり、第一日目ではありません!
永遠に祝われるシャバットは第7日目であり、この聖別された日を
中心に他の記念日、祭りが繋がっているのです。
それらは、全てイエシュアの業、福音を表し網羅する預言的祭りで
1つに繋がっているのです。
最初の到来があり、再臨があるのと同じ、途中できれません。
1つとして繋がっているのです。
いつ、何曜日に何の目的でも、誰とでも集まれます。
集まっても良いのです。私も定期的に日曜日にトラーの学びがあり、
毎週土曜日はシャバットのトラーの学び、交わりがあり、
その他の日も、他の聖書の書の学びもあるのです。
でも、シャバット以外は、普通の日に、学びをしているというだけのことであり、その日を安息日だとは言わない、安息日でない日に、
聖書を学んでいるということです。
だから、日曜日に集まろうと、賛美し、聖書を学ぼうと、それは悪いことではないのです。
でも、神が聖別されていないそれらの日は、安息日、記念日、祭りではない。神が聖別されていない日を、安息日、聖日ということが間違った発言であること、聖書ではないことを、人に伝えているということに、聖書から気が付かないとならないのです。
神が言われていないのに、普通の日=第一日目を聖日、主の日、
安息日と神に成り代わって、人間が神の記念日を勝手に再定義することを、それは罪であり神は人に許していません!いや禁じているのです。
何がズレているのでしょうか?真実では無いことを、真実であると
主張することです。そして、神が伝えている神の記念日を捨てて、
神の記念日を汚す、それを、「あなたがたに汚されている」と神が
言われているでしょう。
神が言われたこと、神がガードして祝ってと言われる日に神が言われた通りの取り扱いをせず、神との特別な出会いを無視し、神の子らと
共に一緒にその日を祝わない、それは神の子ら〜イスラエルの神の家の家族がすることではない。
聖別された人は神が伝えている生き方をする。
そして、神の記念日を捨てて、人間が作った教えを、人間が作った
記念日を、主の日、聖日、安息日と言い換えている、再定義していること、これは罪であり、嘘であり、神に対しての偽証、神を汚す行為であると書いてあるのです。
本物ではない、偽物でイスラエルの神を礼拝する、それこそが
高きところの礼拝と神が警告していることであり、神が造られた
モアデイムを人間由来の別ものにすり替えている。
だから、そのような嘘に気がついた人は、神の記念日では無い日を
神が聖別された日だとは言えなくなってしまうのです。
クリスチャンが、人間は猿から進化したという嘘を、一旦真実を知ったら、それ以降2度とそんな人間の作った嘘の仮説を言えなくなるのと同じ事であると理解して下さい。
本当のことを知ったら、真実ではないのに、真実だという事ができなくなるからです。
神が伝えている真実を知る妨害を、イエシュアを信じる人がしてはならないからです。
日曜礼拝も、クリスマスも、イースターもローマ帝国が作った人造の記念日なのです。イスラエルの神が創造された聖別された日ではない。それらに、教皇や司教が、後から聖書を取り出して意味付けを
しただけです。
裏にあるのは、全て異教神、女神の記念日、祭りです。
イエシュアの実態、聖別を地上で表す役割を与えられたら、濁った
歪んだ鏡ではいられなくなるのです。
神が伝えたことと違うことを、人に伝える〜偽情報を伝え、神の名=実態を汚すことをしている行為だからです。
この意味は、神の言葉、教えを正しく理解することができれば、
はっきり神の言われる言葉が頭脳に響いてきます。
似たようでも別物をしてはならない。高きところの礼拝は、偽の神々異教の神々の場所で、彼らのやり方、シンボル、儀式に交わり礼拝することだからです。
それがされてしまって、それが本物だと思われている、悲しい事実。
キリストの誕生は事実です。
でも、それを祝えと神が教えていないのは、どうしてでしょう。
神は永遠から永遠に存在しているお方だからでしょう。
人間とは違う。そしてイエシュアもひっそり生まれました。
パンの家、ベツレヘムで、生まれた。そこは、神殿の祭壇の上に捧げられる子羊が飼育される場所であり、そこにいた羊飼いは、レビ族の祭司たちです。
どの場所に、生まれた子羊が収容されるのか知っていた。
その場所でイエシュアが生まれたのです。全部偶然ではない。
そして、その時期は、羊飼いが羊が生まれる様子を外で見守ることが
できる時期であり、12月などではない。
これら、全部ローマ教が勝手に後付けした日付だからです。
ミトラ教〜太陽神の祭りに重ねて、それが、12月25日キリストが
生まれた日にしよう!そのような嘘に耐えられなくなるのは、真実を
発見して、神が何を言われているのかを理解した人たちです。
初穂〜イエシュア、呪われた土、命を生み出さない大地から、命が
再び生まれ出る、新しくされた事実は、最初から初穂の祝い日、
過越の祭りの7日間の種無しパンの真ん中、イエシュアが復活された日を、神は最初からその記念日を創造されて、それを祝うように人に教えられているのです。
イースターは、異教の女神、多産の女神の祭りであり、春の春分、
満月の時期に女神の祭りがあるのです。だから、それに便乗して、
ローマ教は、その日を復活の日=イースター祭りにしたのです。
だから、いつも満月の後の日曜日と日が固定されているのです。
でも、最初から、神はイエシュアの命を表す記念日を創造され
それを神の子らはずっと祝い続けてきたのです。
異教の女神の名が、イスラエルの神の祭りに付いている、イースター、イシュタルアシェラがついている時点で、聖書ではない、
混ぜ物!と分かるでしょう。
異教の女神の祭りと、イエシュアの復活は何も関係ありません。
神が創造された記念日を祝わないで、人間の作った宗教の記念日を祝う、これって違う!変だと理解できませんか?
自分の嫁いだ家のしきたり、夫が伝えることをしないで、何の関係もない、隣の旦那に言われたことをしているのと同じです。
そして、その時から7週間が過ぎる50日目、シャヴオートに
婚姻契約が与えられた祭りがあるのです。
それが、今年は、6月1日日曜日の日没から始まる祭りです。
イエシュアが祝われたモアデイムは、レビ記23章にある神の記念日
です。
そしてイエシュア昇天以降も神殿が存在していて、そこでコルバンも
捧げられ、シャバットや新月、祭りの時は、神殿で様々な儀式を通して、祭りが行われ続けていたのです。