一般的に、異邦人クリスチャンの間でされている聖書解説は、
その大元の土台が聖書からズレたローマ帝国由来の教理、思想なので、おのずから、その聖書解説も、聖書の事実からずれて行ってしまっているのです。
それらの解説を、聞いていて分かることがあります。
それら全ては、モーセの五書終わり!というローマ帝国の勅令が土台であり、神の言葉が土台ではないのです。この事実を、歴史の史実、
そして聖書=神の言葉から突き止めて下さい。
ローマ帝国は、1世紀から既に、トラー=モーセの五書に記された
神の教えを実践することを禁じる!という勅令を布告し、ローマ帝国下の国々に住む全ての市民に、その勅令を刑罰、処刑、重税、投獄を持って執行していたのです。
だから、祭りの時はいつもエルサレムの神殿周辺は厳戒態勢でした。
ユダヤ人がいつ暴動を起こして、ローマ帝国に反乱を起こすのか
ローマ帝国は危惧し、全軍隊を神殿周辺に置いて警備したのです。
過越の祭りに捧げられる、ベツレヘムで祭司達により飼育されたコルバンの子羊達が、イエシュアがロバの子に乗って神殿に入った時と
同じ日に、過越の子羊達も神殿に入って行ったのです。
そして、シュロの葉を振りかざして、メシアを歓迎したユダヤ人達のことが記されているでしょう。あれも、ローマ帝国がユダヤ人が
シュロの葉をかざしても、ローマは彼らを取り締まれないためです。
シュロの葉は、イスラエルの国民を表す旗なのです。
天にまっすぐ伸びるヤシの木。70人のヤコブ=イスラエルの家族。
出エジプト15:27 こうして彼らはエリムに着いた。そこには水の泉十二と、なつめやしの木七十本があった。その所で彼らは水のほとりに宿営した。
12のオアシス〜イエシュアの水のほとりに根付く聖別された人々。
イスラエルの家族〜70、ヤシの木は、イスラエルを表すものなのです。ただの植物の葉を振っていたとしか、分からない。
これを、トラーを知るヘブライ人が読んだら、何を話しているのか、理解して読めるけれど、異邦人には単に数字にしか見えない。
偶然に70のヤシの木と、12のオアシスがあったとしか読めない。
70も12も、意味がある数字なのです。
12部族、12弟子、70人の家族、神の性質を生きる大家族。
シナイ山で、婚姻契約を受け取った70人の長老。
ローマ帝国では徹底的に、特にユダヤ色ある全てを実践することを
禁じる!としたのです。これ363-364年のラオデキヤ会議でも、
はっきり宣言しているでしょう。
このユニバーサル教の宗教会議は、何世紀にも渡り、何度も何度も
会議が繰り返し行われ、その中で非聖書的教理が編み出され続けて
行ったのです。クリスチャンが神の教えと信じて疑わない、モーセの五書は破棄されたという教理は、ローマ皇帝、教皇、司教、人間が
作った教えに過ぎず、神が言った仰せなどではありません!
偽情報のマンデラ効果を、全部排除して、嘘を嘘と認識しないとなりません!
「クリスチャンになったら、ユダヤ人がするようなことをしてはならない。安息日に労働せよ!日曜日を、聖なる日として尊重せよ!」
ラオデキヤ会議の決議ですが、これ神の仰せですか?ローマ、人間の
神に対する冒涜発言、神の名を汚す行為を、堂々と教理にしているのです。
その事実を、歴史の出来事と、神の言葉から何が本当か識別、認識できないなら、それは聖書を正しく知らないということなのです。
「律法に戻るのか〜! 信じたらユダヤ人やめなさい!」という
その主張は、全部人間の思想〜ローマ帝国由来の教理です。
そして、パウロが書いた手紙の内容を誤解して、このような人間の
思想を、間違った解釈でパウロの言葉を引用しているのです。
これが聖書学者、教師、牧師がし続けているのですから、それが真実と一般の人が信じてしまうのは、無理がないのです。
正しく聖書を教えられていない代償は本当に大きく、問題は深い。
今一般的に異邦人の世界で見聞きしてきた教えは、このローマ帝国の教えが土台の宗教の教理であり、純粋な神の言葉ではありません。
1)昇天の前後で神の教えが変わったという、偽情報!
これが一番大きな問題の根です。時代ごとに神の業、救いの方法が
違うと教えられ、そう考えて、信じている。
イエシュアが到来する前は、律法を生きて義とされ、神とかろうじて
関わりがあり、生贄捧げて一時的に許された。聖霊が人の内側に住まわない、律法時代〜怒りの神の時代などど、解説していますよね。
でも、これは聖書に書かれたことを正しく知らない人が、人間の教えを信じて、勝手に解説している非反聖書的思想です。
神の言葉は永遠に固く立ち、廃らない、変化しない!と神が伝えて
いることが真実であることを、再確認し、そこからずれないで考えれば良いのです。
聖書の中に登場する、預言者や、使徒、その他残りの民は、現代の
異邦人クリスチャンが聞かされているローマ帝国が作った宗教の教えなど、1つも知らない、そんな冒涜的な教え〜神が変化し、神の言葉も変化し、今はなんでも自由に選べる恵の時代!?
そんなこと、考える、発言し、行動する人は誰もいません!
なぜなら、それらは神の教えではなく、人間が作った宗教の教えだから、聖書ではないからです。聖書に書かれてもいない。
2)律法主義という直接の言葉は聖書に書かれていませんが、
クリスチャンが、2つの事柄を混同しているのは明らかです。
偶像礼拝という言葉があるでしょう。偽物の神々に仕えるように
イスラエルの神に近づいてはならないと教えています。
偶像礼拝とは、異教の神々、人間の手で編み出した思想や像を
拝むことですが、それは別物の神々に対して行う、神々への近づきかたのことを、言っているものです。
関係の世界ではない。ギブアンドテイクの世界。利用の世界です。
罪深さをずっと卑下、懺悔、自己虐待のように自分はどんなに悪いのかということを、神に言い続けて、神に許しを請い願う。
たくさん何かをして、祈ってご利益を期待する。
神との深い親しい関係を求めるのではなく、何か欲しい、繁栄の神学と同じ意識。
これ通じるかどうか分かりませんが、イエシュアの贖いの血の代価で新しくされたという事実を言わないで、ずっと罪人罪人罪人の集まりなどと、以前の自分の自己像を復唱し続けている人たちが
いるでしょう?害毒な発言はやめないとなりません。
神が命と引き換えに与えた、新しくされた人の現実、事実を発表し
続け、そして、その新しい人らしく生きるということに、集中すれば
良いのです。
罪人宣言し続けていることは、謙遜などではなく、神のされた業に
対しての、不遜、不敬、不真実を発表しているのです。
ズレたら、こう考える。自分はイエシュアの性質通りから、ズレた!
飛び出た!戻る!神の教えている性質通りを生きることに、
瞬時戻る!それでしょう。
救われた罪人の群れなどと言うのは、やめないとなりません。
異教の神々は、イスラエルの神とは決定的に違うことがあります。
1)人との関わりなどない、人への保証、約束がない。イスラエルノ神のように責任持たない、人を愛してなどいない。
2)神に対して何かをやり、犠牲を捧げさせることを求められる。
それがモレク神に、子供を生贄として捧げていたことでも分かります。
イスラエルの神が、人に伝えていることは、神の創造された神の性質通りに造られた実態通りを生きること。デザインからズレたら、
傷つく、破壊される、壊れる、神との関係に隔たりができ、
本来体験でいる祝福の関係に留まれない場所に飛び出すからです。
偶像礼拝とは詰まり、神に喜ばれるために、神を動かして自分に
何かをしてもらうために、その目的の為に一生懸命努力することです。そして、自分の一番大事なものを犠牲にするという意識、
これが偶像礼拝から来ているものです。
クリスチャンも言われませんか?大事なものを犠牲にせよ!と言われる。時間、家族犠牲、自分の職業まで他人に言及される。
それ異教の神々に対しての近づきかたです。
イスラエルの神は、偶像の神々に近づく意識、やり方で、イスラエルの神に近づかないで!と教えているのです。ズレているからです。
本来の関係、顔と顔を合わせて、エデン=喜びの中で育む関係から
飛び出してしまうからです。神が伝えているのは、神に造られた性質通りを、生きて!シンプルです。
口伝律法〜ユダヤ人が編み出したトラーの解釈の中に、異邦人は
契約の民ではないので、完全にユダヤ人=契約の民となるためには、
彼らの編み出した改宗儀式をしないとならないというものがありました。
これは、使徒15章でも取り沙汰され、同時に、パウロもペテロに
改宗儀式をしない異邦人への態度が区別していると戒められたように、1世紀当時のユダヤ人の間では、改宗儀式をしない異邦人とは
交わらないという、ルールが口伝律法の中にあったのです。
これは、手洗いの儀式にもつながることなのですが、異邦人は野蛮人
豚、犬、けがれた動物程度に考えていたのです。
今もそれは、ある一部の正統派ユダヤ教徒の中にも根強くあります。
どういうことかというと、異邦人は契約の民ではない、神の教えを
知らないから、異教徒と同じく、平気で神の目には汚れた生き方を
普通にしているからです。
使徒15章に書かれている異邦人イエシュア信者は、イエシュアを
信じますと言っていても、神の教え=トラーを知らなかったのです。
だから、神が伝える神の家の生き方を知らないまま、以前と同じ汚れたライフスタイルを続けていたのです。
気持ちは熱心であっても、何を生きたらよいのか知らないままでした。今も同じでしょう。神の言葉に違反してよいと教えられているからです。そして、その人達は、何をしていたかというと異教神の神殿で礼拝していたのです。
異教神の神殿では、必ず多産を願う儀式をしなくてはならない。
異教神の神殿には専属の神殿娼婦〜多産の儀式を行う娼婦がいて、
その人達と不品行をする儀式があったのです。
これって悪魔教とも繋がっているものです。
イエシュアを信じる人が、そんなことをしていたのです。
そして、トラーを知らない異邦人は、何を食したらダメなのか知らない。これは今も同じです。神の民、聖なるものとされた人は、
神が伝える聖別の意味を知らないとならないのです。ローマ教の教えの人間由来の聖別の定義は、神の前には汚れたものであり、受け入れられないものなのです。
それは、日常生活の中で簡単に普通にすることなのです。
エデンの園で、知識の木から食べてはだめ!と言われたことと同じことを神から言われているのに、クリスチャンは、これらの教えは
昇天以降は廃れたと、聖書ではないことを信じているのです。
使徒10で、ペテロがもし、神が神の食規定〜レビ記11章を破れと
教えたなら、それは神ではない。そして、1ペテロ1:16で、
聖別=レビ記11章に記された食を通しての聖別を、ペテロが
引用していることが、辻褄合わないと気がついてください。
聖書と、一般にされている聖書解説が辻褄が合わない理由は、
人間の教えを通して、神の言葉を曲げて解説しているから、辻褄が
合わない、聖書とずれている、聖書と一致しないのです。
でも、人間が編み出した教理が神の言葉だという偽情報を信じるから
辻褄合わないのに、こう解説するのです。昇天以降神の言葉が廃れたから!これ嘘でしょう。神はそんなこと、1度も言わない。
いや神が神の言葉は永遠に変わらない!と言っているのに、ローマ
帝国が編み出した宗教の教理をクリスチャンが神の教えだと、勘違いしている、常にこれに戻り、堂々めぐりになることに気がついて下さい。
クリスチャンが混同して、誤解していることは,これです。
イスラエルの神の教えを生きることが悪いと、錯覚されているのは、
神の教えを、掟リストのように考え、1つ1つクリアーしなければならない、そこから解放されたのだ〜と考えているでしょう。
そして、神が言っているのは、救われるために、何かをしなければ
ならないというのは、ズレている!と教えているのです。
これをパウロは当時のユダヤ人の群れ、ローマやガラテヤの中に
あった問題を言及しています。
改宗儀式をして、異邦人は正式に神の国に入れる、神に認められる。
これは、神の仰せではないでしょう。何かをして神の国のビザが
発給されるのではないのです。信仰により受け取った瞬間、その人の
中にある扉を開けて、イエシュアが入って来てくださるだけでしょう。それは、どの時代のどの人種も、同じです。
イエシュアの方から自分が開けた扉を通して入ってくださるのです。
鴨居に塗った子羊の血でも分かるでしょう。その人の家は、死が
過越て、代わりにイエシュア=命が入って下ったことを表しているのです。同じ福音がずっと最初から、エデンの園から教えられていること見逃しているだけなのです。古代の人は今よりもっと、イエシュアの贖いの血の代価の意味、聖霊が内側に住み対話して生きていた、
それがずっと聖書に記されているではないですか。
人間の努力で救いを獲得しよう!その意識がズレていると言っているのです。
それを、クリスチャンは、古い神の言葉を生きてはならないなんて、言い変えて、神の教えとは違うことを言っているのです。
イエシュアを信じた人は何を生きると教えられていますか?
神を愛する人は、神の仰せ〜トラーを生きる!と言っているではないですか?神を愛する人は神のトラー=教えを捨てよ!とクリスチャンはローマ帝国の勅令を吹聴しているのです。