聖書を教える人が聖書とは違う解説をするのは信仰の土台が砂だから | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

カトリックの質疑応答のサイト、書にはっきりと書いてあります。

カトリックが神の言葉と、神の記念日を変えたとはっきり宣言しています。

以下は全部人間の主張であり、神の言葉を曲げる冒涜を平気で語っているものです。
初代の教会とありますが、カトリックは、教会=イコール異邦人の
新しい群れという意味で書いていますが、そんな造語、異邦人だけの群れは、実は聖書には記されていません。

 

「初代教会は、安息日を土曜日から日曜日に移したわけではありません。最初の創造の完成を象徴する安息日は、キリストの復活によって始まった新しい創造を思い起こさせる日曜日に置き換えられたのです。カトリック教徒が守るべき日は土曜日ではなく、日曜日です。」

(カトリック教会の信条2190)

 

この声明、何が神の言葉、教えではないか、聖書から識別し、解説できますか?

新しい創造〜人がイエシュアを通して、父の元に戻り、聖霊が内側に住むということは、使徒2章で初めて起きたことではないのです。

使徒2章で、聖霊が使徒達の上に降ったと言うでしょう。

シナイ山のシャヴオートでは、天が神〜イエシュアが直接降りて来て

人の上に降りて来たのです。

そして神の声を聞いた!神はどんな時にも、どのような形でも人に

現れ出る事は自由自在なのです。

使徒達は、特別な力を受けて、これから世界へ神の教え、トラー

そして、トラー、預言書、諸書に記されている同じ福音、そして

メシアが地上に来られた事、そしてメシアが語られた通りの

トラーを人々に教える特別なミッションが与えられたから、特別な

力を受ける必要があったのです。

神の臨在は、最初からイエシュアを信じる人の内側に存在していたからです。

福音は永遠から同じです。新しい創造〜イエシュアの贖いの代価、

命は永遠の中に既に存在しているのです。

新しい創造と聞いて、それらしく聞こえるでしょうけれど、人の作った教理はその様に、意味不明、でも分かったように思い込まさされる説明が五万とあるのです。

新しくされた人が与えられている、何が歴史の途中に起きても、

神の創造の事実を塗り替えることは出来ません!

神の言葉、神の記念日も人間が塗り替える事はできません。

やってもそれは偽物、神に対する冒涜、それらの行為を、神ご自身を人間が汚している!と神が言われたでしょう。

神は、6日間に働き、創造し、人も同じように6日間働き、

神が創造の業を完了したので、第七日目に止まった通り、人も止まる

この神の時の創造を人間が塗り替えています。

それが、神の時と神のトラーを変える、神に敵対するものとして

ダニエル7:25に記されているのがそれなのです。

 

神の創造の事実を人間が塗り替えても、変えられません!

神は第一日目に止まり、2〜7日にこの世界を創造されのではないからです。

なぜなら、神の創造は既に最初から完結、永遠の中から完結しているから、人間が解説を変えても、神が時を造られ、聖別された時を

造られて、第七日目が一週間で、その日唯一、聖別された日、

神が祝福された特別な日と神が宣言していることが事実なのです。

人間が言い換えても、再定義しても、神の前には、創造の事実の前には、神が創造された時〜モアデイムに対しては、全部無意味な主張なのです。

エデンの園から同じ。アダムとハヴァが神に罪を告白して、神の前で何がズレた行動であるか理解した認めた時、即座に、神が彼らを許して、その証拠に、神ご自身が彼らに「義の衣」を着せたでしょう。

イエシュアそのものの義の衣〜贖いの衣を着せたことが記されています。新しい創造?そうです。新しくされた人をどの時代の、どの人種も同じように受け取って来たのです。

それらの人たちを、神の言葉では、「残りの民」聖なる民と呼ばれ、クリスチアヌス〜キリストにつくものという1世紀につけられたあだ名で呼ばれていないだけです。

2000年前に初めて聖霊が内側に与えられたというのは、聖書の

事実とは真逆な人間の思想、仮説です。聖書に記されたことを、

正しく理解しない、学んでいない人たちの主張なのです。

 

そして新しい創造を思い起こさせるから、日曜日に第七日目のシャバットを置き換えましたとしたのは、人間〜カトリック、ローマ帝国

皇帝、教皇、司祭であると、カトリックがはっきりとそう言っているでしょう。神ではなく、カトリックが変えました!と言っているのです。そうです。その通りです。

神は神ご自身が神の言葉を変えたり、神の記念日を変えたりしない。そんなこと絶対に言いません!言っていません。

これからも永遠に言いません!

イエシュアが地上に戻られたら、全世界が神のトラー=エレミヤ31にある通りに生きて、そして、神の記念日、祭りを祝う!全世界

イスラエルに敵対した国々の人も祝う!と預言されているのです。

どうして、今の時代だけ、神の教えを捨て、神の記念日を汚して

捨てているのでしょう?不思議に思わないとならないのです。

 

カトリックは、教皇が神の言葉を塗り替える、再定義する、時代に

あった教えに変えても良い!と宣言していることを知って下さい。

だから、LGBTQ、同性婚祝福し、教皇もゲイでOkなのです。

勝手に人間が神になり代わり言っているだけで、それらは神が禁じた冒涜そのものです。

これが神の教えとは異なる、人間が神の教えに付け足し、差し引きする、違反行為〜罪!であると、神の教え、言葉から正しく理解して下さい。

カトリックの教理を信じる人達の中では、人間の教え=ローマ帝国皇帝教皇の勅令〜日曜日を守ります!と言っているのです。それに

プロテスタントも同じく賛同しているのです。

神の創造された記念日を汚す、神の教えを人間が否定する事は、神の伝える罪の定義では、ズレ、重い罪です。

そして、プロテスタントもカトリックと同じ教理、同じ記念日、

人間が作ったものを継承し、神が創造された「わたしの記念日」と

神が宣言した記念日〜モアデイムをユダヤ人だけの記念日と言い変えて、捨てているのです。

つまり、カトリックが神の言葉を退けて、人間の教え〜先祖の言い伝え、伝統の教え〜イエシュアが警告、戒めた、神の言葉を退けて

人の教えに固執している!ということをやった、やり続けているのです。

カトリックも同様に、日曜にシャバットが変更されたという根拠として、以下の箇所を取り出して解説をしています。

聖書を書いてある意味通りに正しく理解していない人たちが、

パウロの書簡や使徒の書簡を、自分たちの読み込みで解説している

それが浸透しているだけなのです。

使徒20:7 

週の初めの日に、私たちがパンを裂くために集まったとき、パウロは翌日出発することになっていたので、彼らに話しかけ、夜中まで語り続けました。

 

これは、基本的な知識が抜けていることを、前に書きました。

日という言葉はギリシャ語にはない、翻訳で挿入された言葉です。

それ以前、この箇所はいつの話ですか?

6節に、除酵祭が終わってとあるでしょう。

 20:6 わたしたちは、除酵祭が終ったのちに、ピリピから出帆し、五日かかってトロアスに到着して、彼らと落ち合い、そこに七日間滞在した。

除酵祭とは何ですか?イースターでも、聖餐式でもありません。

これは、第一日の月の14日日没〜15日になる時から始まる、

過越の祭りその日から7日間、除酵祭〜種無しパン、マッツアを食べる7日間の祭りのことであり、それを祝っていたと書いてあるのです。

その意味は、レビ記23章にある、神のモアデイムの全て、アポイントメントの日、シャバット、新月、そして春の祭り、過越、種無しパン、初穂、シャヴオートの4つの祭りと、秋の第7の月の1日、

ショーファーを吹く日、王の到来を告げる日、して、10日の大贖罪日、15日から7日間の仮庵の祭り〜3つの祭りの全てを祝い続けている!

トータル7つの祭りを祝うという意味、証拠なのです。

全部7なのです。意味があるのです。完全、完了、修復!最後は神の創造エデンに戻る。

そして、パンを裂く〜イコール、カトリックが、過越の祭りの儀式を

塗り替えて種ありパンでする儀式に変えた、聖餐式というものに

変えてしまったでしょう。

毎週日曜日、又は月一回の日曜日?種ありパンと、葡萄酒でする儀式に、変化させ、過越の祭り〜イエシュアが永遠に祝ってと言われた

祭りを祝わず、カトリックが変えた儀式だけしていますが、

それだと、大事な意味が抜けるのです。

種ありパンで、過越の祭りを祝わず、過越の祭りではない普段の日にやる。こういう変形を、たくさんカトリック、そしてプロテスタントもしているのです。オリジナルを変形させ、神の教えとは別物に

塗り替え、すり替え、作り替えているのです。

そして、パンがキリストの体に実際に変化する、葡萄酒がキリストの血に変化するというこれこそ、オカルトチックな教えに変化させているでしょう。

シンボルは、実際のものではありません!影です。

実態を表す、影であることを覚えておいて下さい。

イエシュアの体に、マッツアは変貌しません。ブドウ酒はイエシュアの血に変身しません。

これを、カトリックもクリスチャンも理解しないとならない点なのです。神のモアデイムを理解していれば、そんな読み込みはしないからです。

日本人が正月を祝うと言えば、仕事納め、忘年会、大掃除、

飾り付け、おせち料理の準備、そして、大晦日を年越しそばで祝い、

夜中に除夜の鐘を聞き、元旦、三が日を過ごす、初詣出に行くと

一連の行事を知っている、やっているのと同じなのです。

 

神の除酵祭を祝うとは、シャバットを祝うことから始まるのです。

毎週一度週7日目のシャバットを祝い、毎月一度新月を祝い、そして、過越の祭り〜除酵祭の最初の日は曜日に関わらず、シャバットとして扱い止まり祝う。その7日間の中に来る、シャバットも祝う。そして除酵祭の最後の日を曜日に関わらず、シャバットとして祝い、閉じるのです。

そして、7日間の、真ん中の日は、「初穂」の日であり、その日に

イエシュアが復活されたのです!イエシュアに属する人は、永遠に

神の記念日の「初穂」を祝うと神が教えているのです。

 

このような理解はクリスチャンの中にはないです。なぜ?神の教えと

神の記念日を捨てて、ローマ帝国が作った宗教の伝統の教え、教理を学び、聖書〜神の教えを学び、生きていない。

それら人間の作った教えを生きて彼らが作った人造の記念日、日曜礼拝、クリスマス、イースターそして、レントやその他カトリックの

教えを実践しているから、聖書に記されたイエシュアや使徒やパウロその他ユダヤ人が生きていた、トラーの実践の世界が見えないまま、聖書をローマ教の教えに照らし合わせた、空想の読み込みをし続けているから、事実が見えないのです。

 

さて、週の初めとは、過越から最初のシャバット〜この数え方は色々な解説がありますが、シャヴオートの祭り迄の7週間の間の日々、

穂を数える7週間を過ごすのが今の時期なのです。今も同じです。

 

新しくされた人の実態を数えて生きる。あなたの齢は数えられているとあるでしょう。それと同じく、新しくされた人をこの世の旅路で

生きて学習する日々を教えているものなのです。

そして、注目してください。たとえ、その日が、週の最初の日と日を

入れたとしても、分かることがあります。

 

1)ユダヤ人の間では、今も、シャバット〜土曜日が閉じる夕暮れには集まり、パンを裂き、聖別された日と、普通の日を分ける儀式を

するのです。クリスチャンには、馴染みがないから、知られていないものですが、それを今もしているのです。

ハヴダラという儀式です。

 

2)聖書で言うところの、週の最初の日の夕暮れだとしたら、これは土曜日の夕暮れ時から始まる時であり、第一日目=日曜の夕暮れ、

晩は、私達の今の暦では、土曜日の夕暮れにスタートします。

そうすると、もし週の最初の日の日没であるとするならば、

この7節は、土曜日の夕暮れの話なのです。

事実、諸外国にいた人たち=ユダヤ人たちは、土曜日でも労働させられる人はいたのです。だから、土曜日の日没に集まることはしていたのです。

そして、パウロが次の日に出発するから、送別会をしていたのでしょう。

3)もし、クリスチャンが想像する日曜日〜グレゴリオ暦、今の暦の

日曜日の日没だとするならば、聖書では既にそれは、月曜日!

聖書の暦では、週の第二日目のことである事実を知って下さい。

 

いずれにせよ、勝手な読み込み、ローマ教の宗教の暦、記念日で

考えているから、、キリスト教の解説がヘブライ聖書の世界の記述とずれてしまうのです。

 

 

続く