人の住む世界でも、情報や日程、標識などを、設置、設定した人とは別の人が勝手に変えてしまったら、元々伝えた本当の意味、情報は
消えてしまいます。
尚更、人間ではない神の考えを、神が直接人に伝えているのに、
人間が勝手に、神が言われた言葉を変え続けてしまっているおかげで、人間により変えられてしまった神の言葉が、神の言葉であると信じられてしまい、その嘘を信じる人には神の意図通りに神が伝えている、永遠普遍の教えは通じていません。ある部分は真実、ある部分は
嘘、そして、大元、土台が偽物の教え〜人間が神の言葉を終了とした思想。
偽情報は今世の中に反乱していますが、実はどの時代も同じだったのです。偽情報が正当とされている出どころから流されているという
事に、人が様々な他の情報に照らし合わせて気がついている。
そして嘘と、まことの区別をする手がかりを得られるようになった
嘘が暴かれて行くから、嘘、偽情報が流されている事が分かるようになったのです。
偽情報〜本当の情報を人に伝えたら、闇がやっている悪事の計画が
うまく行かなくなる、本当の事を知られたら困る何かの理由、事情があるからです。
神の教えでは、闇〜サタン〜騙すものが、神の言葉を曲げて伝えているのです。
1世紀のローマ帝国の事情、ユダヤ人は神の教えに忠実で、
ローマ帝国皇帝、勅令など聞き従わない、皇帝を、異教の神々を、
拝まない。
支配しづらい人々だったから、弾圧を続け、神の教え、記念日を
祝う事を厳重に禁じ続けたのです。
これは、ギリシャ帝国時代も同じ事を、ユダヤ人はされたのです。
反ユダヤ思想〜ユダヤ的要素の全部排除とクリスチャンの中で浸透している概念は、全てローマ帝国、それ以前のギリシャ帝国、荒らすいむべきものと、イエシュアも言われた人々の思想を聞いて、それが神の教えだと勘違いしているのです。
神が神の言葉を変えるとか、今は人が人間の意見で神の言葉を仕分けて良いという思想は、聖書とは全く関係のない、元がローマ帝国の
思想、勅令、宗教の教理です。
カトリックは、10の言葉、聖書のタイトル、目次、目録、神の仰せの2番目と4番目を無視しました。
2番目〜偶像を作る。
偶像とは何も銅像、形あるものを作る事だけではないのです。
もちろんユニバーサル教には、たくさんの偶像、死者が崇拝されたり
シンボルや道具、アイコンもたくさん作られています。
偶像〜形のない偶像は、人間が編み出した宗教、そして神の言葉を
曲げている教え、教理、様々な聖書にはない思想、それらは、完全に偶像そのものなのです。神の教えではない!
そして、プロテスタントも曲げている、4番目の仰せ、安息日を
覚えて聖とせよという神の言葉、仰せを人間が却下している。
シャバットだけでなく、シャバットは他の全ての記念日が繋がっている中心なのです。神の記念日の全てを捨てた!
捨てた理由は、ローマ帝国皇帝の勅令、宗教の教理、法律で、
全ての人が、神の記念日、シャバットを祝う事を禁じられ、神の
シャバットを汚すように教えられて、そのように実践しなくては
ならなかったから、変えられてしまったのです。
人間の編み出した教えを身にまとい、その偽物の教えという服は
雪だるまのように、どんどんどんどん膨れあがって今に至るのです。
聖書は誤りのない神の言葉です!永遠普遍!聖書だけに戻ろう!と
プロテスタントは言いながら、実はローマ帝国ユニバーサル教の
教理を、神の教えとして人造宗教の教理を信仰の土台としています。
聖書に戻ろう!と言いながら、完全に戻らず、中途半端な戻り方をしたまま、パン種=人間の教え、偽物の教理を完全には捨てないままになって、神の言葉の方を曲げているのです。
別物の神像〜イスラエルの神ではない、ローマ化したイエシュア、
変えられた神の言葉などという宗教の教えを教えています。
半分本当、半分嘘。
でも偽ものを土台とすると建物が歪み、別物になるのです。
宗教の教えは、人を縛り、神の語る真実を見せなくさせます。
神の教えの、それ、あれ、これが終了!と一言でも人間が言うとするならば、その思想は、聖書ではない!とはっきり聖書から知って下さい。神は神の言葉を変えないからです。
問題は、神の座に人間が座っている事。これはプロテスタントもしています。神の言葉を塗り替える解説をしているでしょう。
それらは、聖書〜神の言葉ではない!という事を、神の言葉、
聖書から正しく認識していないからです。神学校で、教えられる教師から、聖書ではない人造宗教〜ローマ皇帝、教皇、司祭たちが作った教えを教えられ、聖書とは異なる教理を継承し続けて、非聖書的教え宗教教理、神学を教えられ続けているからです。
オリジナル聖書に記された、預言者たちが書いた事、イエシュア、
パウロ、使徒達が教えた神の教えを、異邦人は正しく教えられていません。
聖書ではなくて、人間の作った神学の教えに熟知し、長けていても、それは聖書〜神の伝える真理=言葉=教えではないのです。
知らなくてはならないのは、聖書〜オリジナルには何が記されているか、その事実を正しく学び知る事なのです。
創世記2:1 こうして天と地と、その万象とが完成した。
2:2 神は第七日にその作業を終えられた。すなわち、そのすべての作業を終って第七日に休まれた。
2:3 神はその第七日を祝福して、これを聖別された。神がこの日に、そのすべての創造のわざを終って休まれたからである。
神の創造を神が発表、表明しているのが、この第七日目で止まった事
なのです。
全ての創造を神が完了させ、神が止まられた。だから、人もこの日に
神がされた通りに止まる!と教えています。
そして、ユダヤ人でも、異邦人でも、イエシュア=ユダ族のメシアを
通して、イスラエルの神の元に戻った人はもれなく全て、神が提示する神の家の家訓を生きる事に招かれた、加えられたのです。
この理解がクリスチャンの間ではない、いやズレた思想を信じています。
1)神の教え、契約はイスラエルだけのもので異邦人は関係ない。
2) 今は聖霊時代で、神の古い教えは終了したから、関係ない。
このような思想〜ローマ帝国皇帝、教皇の教えを聞いて、神の言葉を正しく理解しない欠落した教育を受けるから、聖書に記された事実が
見えないままいるのです。
神は一人の人=アダムをアダマ=土〜同じ要素から造られたのです。
神が創造された人は、人種により中身、構造、DNAが別物の人間を
造ったのではありません。
元が1つで同じで繋がっている。一人の人から人類の全ての人が出現した事実があり、1つとして繋がっているのです。
だから、アダムとハヴァが神の言葉を無視して、退け、違う教え〜
蛇の声を信じて行動したから、罪が入り、全人類に死が
入り込んだのです。
エデンの園で犯した、食べてはならない!!あなたはこれを食べるように造られていないと言われた知識の木の実を食べたから、今今日生きている人々も同様に、アダムとハヴァが犯した罪の影響を、直接
受けている事実をはっきり考えてください。どうして?人は1つとして繋がっているからです。それが神の創造のデザインだからです。
だから、一人の人の違反が、全て周りに影響を与えるでしょう。
覚えて〜ザハルという言葉は、記憶に留めるという意味ではなく、
覚えている〜実際に行動に移して生きるという意味です。
これには、自分の意識を常に神の教えに留めて、そして、それを
意図的に意識的、努力を持ってそれに努めるという全てが含まれる
行動、生き方を言っているのです。
誰かと約束したことを、忘れないように、手帳、スマホに書いて、
その日に向かって準備するという努力を伴う行動を普通にするでしょう。
神が言われた通りに人が意識を集中させることを、教えていることでもあります。
そして、その日は、イスラエルだけでなく、イスラエルと共に出エジプト〜私達イエシュアを信じた人も、もれなく全て出エジプトしたのです。偽物の神々、偽物の教え、偽物の人生目標から脱出し、
本物の神〜主人の元にもどった。それが、出エジプトが表す出来事です。
そして、永遠の中に屠られた子羊イエシュアの血の贖いを、神が言われた通りに子羊を屠り、鴨居に塗った人、その人の家の中に、神〜
イエシュアご自身が入ってきたのです。
同じ福音です。
そして、シャバットは、正式に神の花嫁とされた人たちに与えられた
婚姻指輪〜印であると、神が言われたのです。
ユダヤ人だけの教えという人間が作った思想で聖書を読んでいるから神が直に語りかけている言葉全てが他人事に聞こえるのです。
その場にいなくても、そこで起きた出来事を神が選び出されて聖書に記している意味は、全ての神の子らに同じ真理を、誰かが体験した
出来事を通して、同じ真理を教えているからです。
とにかく、異邦人〜ローマ帝国皇帝が作った宗教の教えではなく
神の言葉は、神が永遠の中から選び呼び出した子ら全てに与えられているもの、語られているものであるという正しい理解に戻して下さい。
これは、あれは関係ない、ユダヤ人だけの教え、ユダヤ人だけの祭りなどという思考回路は、こういうことを言っているのです。
ユダ族のメシア=イエシュアと私は関係ありません。
神の家族、メンバー、神の花嫁とはされていません。
神の家族ではなく、別の家族〜宗教が伝える宗教の神々に繋がりました。そういうことなのです。
神との関係がある土台、証拠は、神が提示した婚姻契約に基づいているのです。神が提示した婚姻契約〜神の家の家訓を花嫁は生きる!と
神が教えている、神の言われることに、クリスチャンが真っ向から、
結構です!それは私には関係ありません!と言っているのです。
それは、人間の教えを信じて、神の言葉を信じてない、神の与えた
婚姻契約は全ての神の子らに与えられているという正しい理解が欠落しているからです。
その様な教えを教えているのが、人間が作った宗教の教理であり、
そこから出てきた置換神学や、デイスペンセーション神学、聖書とは異なる人間が作った思想を信じて、神の言葉を退けていることに全く
気がついていないからなのです。
ユダヤ人だけの教えという主張は、直にローマ帝国皇帝の言った言葉であることを覚えておいて下さい。
ユダヤ的なもの全て実践することを禁じる!という勅令を、宗教会議で中世に至るまで、ずっと主張し続けてきたことを知らないとなりません。
人間の教えを信じて、神の言葉を退けている冒涜にはっきりと聖書から気がついて下さい。そうすれば、人間が神の言葉を退けて、しかも、人間が作った教えの方を尊重し生きていることが、何を意味しているのかはっきり神の言葉から理解できるようになるからです。
イエシュアも言われたでしょう。人間の伝統の教えに固執して、
神の仰せ=教えを退けている!!!と。クリスチャンにはこの意味が
通じていません。イエシュアが神の教え〜モーセの五書を否定していると勘違いしているでしょう。イエシュアは人間の伝統の教え先祖の言い伝えを、神の言葉を退けて尊重している人に対して警告していることを、理解していないからです。
イエシュアは人間が編み出した口伝律法を尊重して実践し、神の教えの方を退けている人へ、警告していることを正しく理解しないとならないのです。
神の教えを退ける行為〜神を愛していないことを行動で表明していることなのです。
人間が作った教えを、神の教えであるなどと、騙されるなかれ!
なのです。
カトリックは、教皇が神と同等の権威があり、神の言葉を変える、自由に解釈する権威があるとしていますが、それは人が勝手に言っているだけです。プロテスタントも全く同じことをして、神の言葉を勝手に塗り替え、終了だ〜とローマ帝国皇帝の主張を復唱し続けていることに、全く気がついていないだけなのです。聖書ではない、人間の
続く