パウロは14章の大部分を、「肉と野菜」の問題について論じることに費やしています。でも、特定の日を他の日よりも尊重することについては、数節を割いているだけです。
食物の問題に関連のことと、ある日を他の日よりも高く評価するか、すべての日を同じように尊重するかという考え方について、
この二つの問題を関連させて、パウロが述べています。
これは、1コリント8章にも同じように、並行することが記されています。
食規定に関してですが、前の記事で書いた通り、パウロもローマの群れのユダヤ人も、人の意見、判断で、なんでも食べて良い〜レビ記
11章に記された食規定を無視し、きよくない動物も今は食べて良いなどという、神の言葉、教えに真っ向から反する、異教徒あがりの
思想は誰も持ち合わせてなどいない事を、はっきりと理解してください。
繰り返しますが、多くのクリスチャンは、この箇所の「日」に関してパウロが語っている内容は、神の安息日や祭りを守らない自由を指していると考えています。
しかし、聖書〜パウロは本当にそんな事を言っているのでしょうか?
まず、この箇所でのパウロの発言は、神の創造された永遠に祝われるべきわたしの安息日や祭と神が言われたモアデイム〜レビ記23章の神が聖別された日に関してなど、全く一言も語ってなどいないことに注目してください。
ここで言及されているのは、ローマ人の群れ〜その殆どのメンバーはユダヤ人であったその群れの人々が住んでいる場所で、重要視されていた、「ある日を他の日よりも高く評価した」という内容であり、
神の記念日モアデイム、レビ記23章に記された神のアポイントメントの日の事は、1言も語っていないのです。
1世紀当時の、ローマの群れのユダヤ人は、どのようにして、何の日を、ある日を他の日よりも高く評価したのでしょうか?
どのような方法であれ、その日とは、神の仰せの日ではない、人の
意で、仕分け、分類、選択できるもの、方法であったことは明らかなのです。
そして、上で述べたように、神の戒めや教えを「意見」と呼ぶのは、完全に無理があります。神の仰せ、教えは絶対であり、神に造られた人が、勝手に付け足し差し引きできる性質のものではないからです。
ましてや、パウロはトラー学者であり、神の使徒、一般の人々に
トラーを神の意図通りに正しく教える任務を得ている人であること、絶対に忘れないで下さい。神のトラーに反する、神の教えを塗り替える教えをする人を、使徒として神は任命し、選びません!
そして、神の教えに反する教えをする教師は、当時のローマの群れのユダヤ人からは、偽教師と判定され、追放されます。
この文脈に於いて、何が意見と分類できるのでしょうか。
考えてみてください。当時のパリサイ人は週に2回、通常は月曜日と
木曜日に断食していたことはよく知られていることです。
これはルカ18:12のパリサイ人の祈りを思い出してください。
「私は週に二度断食をしています。」とあるでしょう。
ディダケーには、ほとんどの学者によって紀元1世紀後半のものとされている初期の教会の文書〜の両方によって確認されています。
偽善者たちは月曜日と木曜日に断食するが、彼らと一緒に断食してはならない。あなたは水曜日と金曜日に断食すべきである。
(ディダケ8:1)
興味深いことに、ディダケから、一般のパリサイ人が週の特定の日に断食していただけでなく、初期ユダヤ人イエシュア信者の間でも断食が一般的な習慣であり、特定の日(水曜日と金曜日)を断食のために取っておいた人々がいたことが分かります。このように、これらの日はそれらの人の間では「尊ばれていた」のです。
でも、これらの特定の日に断食することが聖書の中で、神によって
命じられているのでしょうか?いいえ、そうではありません。
したがって、それは意見の領域なのです。
トラーに記されていない事は、神の仰せではないのです。
特定の日に断食することは、ある日を他の日よりも尊ぶという意味であり、その人の手段です。
週に2回断食するのは間違っているのでしょうか?いいえ。
週に2回断食する必要があるのでしょうか?いいえ。
断食など、しても、しなくても良いからです。
神の仰せではないからです。
これと同じです。週3回、健康のためにジムに通う。
毎日、1キロ散歩して、散歩道すがら、主と語り合う。
朝5時に起きると決めている。夜は10時に寝ると決めている。
それらは、やりたい人が、自分の中で習慣にしているなら、やれば
良い。全ての人はそのようにやらなくても良いという事と同じだと
認識してください。自分の考え、意見で自由にそれぞれが決めて良いことだからです。それは、神の仰せではないからです。
パウロが1節で述べているように、それは、ある事柄に関しての、人の意見の問題なのです。
ローマの人々が断食のために特定の日を尊ぶことを望んでいたとしても、それは彼らの方が優れていたことを意味するのでしょうか?
そう考える人もいるかもしれませんが、パウロはその議論に終止符を打ったのです。パウロは、日を尊ぶ者は主に対してもそれを尊んでいるのであり、日を尊ばない者は主に対してもそれを尊んでいないのだと、はっきりと述べています。
これと同じです。ある人は、2時〜3時に起きて1日をスタートし、
一時間祈るのが良い、霊的だ、それが良いとしている人がいます。
でも、同時にそれを人に強要するのは、神の仰せではないので
ズレいるのです。そういう事、神の仰せではない事を、神の教え、
霊的に優れた行動のように人に伝え、それができない人が、罪悪感を感じるという、結局人間の編み出した教え、宗教に縛られていくというカラクリなのです。夜11時に帰宅し、12時に寝る生活の人は
2時などに起きられません。しっかり朝まで寝る方が、良い。
考えても分かることを、人は、これこれするとより霊的などと、
そんな教えを編み出しているのです。
ローマ14:5 また、ある人は、この日がかの日よりも大事であると考え、ほかの人はどの日も同じだと考える。
各自はそれぞれ心の中で、確信を持っておるべきである。
14:6 日を重んじる者は、主のために重んじる。また食べる者も主のために食べる。神に感謝して食べるからである。
食べない者も主のために食べない。そして、神に感謝する。
上記も同じです。この日〜かの日とは、レビ記23章の神のモアデイムではない事、そんなことパウロは一切考えてないし、話してもいません。
ここに書いてあるギリシャ語の日は、普通の日を指す、定冠詞がない
聖別された日以外の、普通の日のことを、パウロが話しているのです。
普通の日〜第七日目のシャバット、または月の第一日目の新月、
又は、過越、初穂、シャヴオート、角笛、大贖罪日、仮庵の祭り、
それ以外の日〜普通の日のことを、パウロは話しているのです。
クリスチャンは、神の記念日をパウロが、人の意見でどの日も大事に考え、または他の日も同じように大事と考えるから、それぞれが考えた意見通り神の記念日を、いつでも、どうにでも取り扱って良いと、パウロが言っているという根拠にしていますが、完全に、パウロが
書いている意味を読み違えているのです。
これが神の祭りに当てはまるという証拠は全くありません。
もしそんなこと、パウロが言ったら、パウロは人を罪に導く教えを
施していることに、気がついてください。神の教えや記念日を人間が変えることを神が禁じているでしょう。ダニエル7:25にある
神に敵対するものの、思想、行動など、パウロは人に教えなどしないからです。
事実この箇所には安息日も祭りについても、一切触れられていません。さらに、前述のように、ローマのユダヤ人の群れは、パウロの
教えを、聖書〜トラー=神の教えの確固たる基盤に照らし合わせて検証し、神の安息日と祭りを守ることの重要性と祝福について、神の仰せが語る箇所を幾度となく読み、聞き、理解していたからです。
ここで、思い出して下さい。神のシャバット、祭り、割礼や食規定
その他トラーに記された教えを生きる事、実践すること、教える事を
禁じたのは、ローマ帝国とローマ帝国が作った宗教、そのリーダーが
皇帝〜後に教皇、司祭達であり、宗教会議で決議し宗教と国一体化した勅令、法律でトラーを生きる事を、全てのローマ帝国に住まう市民に禁じたからである事実に、はっきり目覚めて下さい。
クリスチャンは、神の教えではなく、ローマ帝国の勅令を神の仰せだと、勘違いしているのです。神の教え、記念日を否定、塗り替える教えは、神から出たものではない。
神のお教えに真っ向から反し、人間が神の言葉を捨て、人々にも
神の教えを生きる事を禁じた、神に敵対する行為、業をやり続けてきた事、その事実をはっきりと、聖書と宗教歴史の史実から知って下さい。
神が、神のモアデイムの重要さを人に何度も伝えている、これらの
箇所はトラーだけでなく、預言者にも見られます。
さらに、それらの将来的な重要性、未来預言、未来に全ての人が
神の創造された記念日を生きる事を語る箇所もあります。
イザヤ書56章6-8節を考えてみましょう。イザヤはそこで、神の契約に身を委ね、信じ、実践し、安息日を守る異邦人に、神が直接語りかけています。
彼らは、未来イスラエルの集められる事が起こる時、エルサレムの
神の祈りの家〜イエシュアは、それをはマタイ21:13で引用されています。異邦人も同様に神に招き入れられのです。
メシアが、エルサレムから全世界を統治する終わりの日、新しい時代に入る時について語る、イザヤ66:22-23をもう一度考えてみましょう。
イザヤ 66:22-23
主は言われる。「わたしが造る新しい天と新しい地がわたしの前に永遠に残るように、あなたの子孫とあなたの名も永遠に残る。新月から新月へ、安息日から安息日へと、すべての肉なる者はわたしの前に
来て礼拝する。」と主は言われる。
エゼキエル45-46章を考えてみましょう。そこには、神の栄光が神殿に再び戻った時、将来建てられる神殿における祭りと安息日の守り方が詳細に記されています。聖書全体を見れば、神に取り祭りと安息日は大変
重要であり、真剣に受け止めておられ、それらの価値を最終的に判断するのは私たちではなく、神の判断であることが分かります。
これは、長いのでペーストしませんが、ぜひ未来預言を読んでください。そして、クリスチャンの間でされている、それらを、抽象、象徴、寓話や、たとえなどという考えにすり替えないで文字通りの
未来預言が書いてある事を、はっきり把握してください。
そして、神の家、神殿の中で捧げられるコルバンは、罪の許しのためではない事をはっきりと知ってください。
全ては、イエシュアがされた業を表し、人々に体験的に繰り返し学習、インプット、そして神の前にどう近づくかを教えているものだからです。
昇天以降、神殿が存在していた70年迄、変わらずに神殿中心で
コルバンが毎日捧げられ、そして、シャバット、祭りは神殿で同じようにコルバンが捧げられて、聖別された日を祝い続けていたのです。
未来預言
エゼキエル45:17 また祭日、ついたち=新月、安息日、すなわちイスラエルの家のすべての祝い日に、燔祭、素祭、灌祭を供えるのは、
君たる者の務である。すなわち彼はイスラエルの家のあがないのために、罪祭、素祭、燔祭、酬恩祭をささげなければならない。
45:21 正月の十四日に、あなたがたは過越の祭を祝え。
七日の間、種を入れぬパンを食べよ。
45:22 その日に君たる者は、自身のため、また国のすべての民のため、雄牛をささげて罪祭とし、
45:23 祝い日である七日の間は、七頭の雄牛と、七頭の雄羊の無傷のものを、七日の間毎日、燔祭として主に供えよ。また、雄やぎを罪祭として日々ささげよ。
45:24 また素祭として麦粉一エパを各雄牛のため、一エパを各雄羊のためにととのえ、油一ヒンを各エパに加えよ。
45:25 七月十五日の祝い日<仮庵の祭り>に、彼は七日の間、罪祭、燔祭、素祭および油を、このように供えなければならない。
46:1 主なる神は、こう言われる、内庭にある東向きの門は、働きをする六日の間は閉じ、安息日にはこれを開き、またついたちにはこれを開け。
46:2 君たる者は、外から門の廊をとおってはいり、門の柱のかたわらに立て。そのとき祭司たちは、燔祭と酬恩祭とをささげ、彼は門の敷居で、礼拝して出て行くのである。しかし門は夕暮まで閉じてはならない。
46:3 国の民は安息日と、ついたちとに、その門の入口で主の前に礼拝をせよ。
未来預言
ゼカリヤ14:16 エルサレムに攻めて来たもろもろの国びとの残った者は、皆年々上って来て、王なる万軍の主を拝み、仮庵の祭を守るようになる。
14:17 地の諸族のうち、王なる万軍の主を拝むために、エルサレムに上らない者の上には、雨が降らない。
14:18 エジプトの人々が、もし上ってこない時には、主が仮庵の祭を守るために、上ってこないすべての国びとを撃たれるその災が、彼らの上に臨む。
14:19 これが、エジプトびとの受ける罰、およびすべて仮庵の祭を
守るために上ってこない国びとの受ける罰である。
14:20 その日には、馬の鈴の上に「主に聖なる者」と、しるすので
ある。また主の宮のなべは、祭壇の前の鉢のように、聖なる物となる。
14:21 エルサレムおよびユダのすべてのなべは、万軍の主に対して
聖なる物となり、すべて犠牲をささげる者は来てこれを取り、その中で犠牲の肉を煮ることができる。
その日には、万軍の主の宮に、もはや商人はいない。
人間は、神の言葉、神の預言される未来を覆せないのです。
神が言われた通り、未来はエレミヤ31章にあるように、全ての人が
主を知ろうと言わなくても良い、裏も表もトラーを知り尽くし、
神の教えを生きて、神の創造された記念日を祝い、偽物の教え〜宗教の教えや記念日はなくなる未来が来るのです。