神の創造された世界を人間が別物に解説してはならない | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

聖書の他の箇所、イエシュアの言葉や使徒10、20章なども同じですが、クリスチャンの世界で、神がイエシュアが地上に来られた後

神が神の言葉を終了、破棄、教え変えた根拠が書かれている箇所として、特にパウロの手紙の内容が、誤解された解説で紹介され続けてしまっています。

神の言葉が変わったとクリスチャンが信じ込んでいる本当の理由は、ローマ帝国の政治的理由、ローマ帝国が4世紀に作ったユニバーサル教、教理と帝国の法律、勅令で、神のトラー〜モーセの五書=神の

教え、ユダヤ的独特な色があるもの全部廃止とされた、法律により

禁じられて来たから、それが本当の理由です。

 

それ以前イエシュアが地上に来られる前の、紀元前160年代の

ギリシャ帝国支配下でも、同じようにトラーを禁じ、聖書に記されているおぞましい行為、ゼウス神を拝み、エルサレムの神殿を乗っ取り

豚と豚の血を祭壇と神殿の中に撒き散らして汚し、ギリシャ帝国の

勅令、法律で全ての人が豚の肉を食べ、ギリシャ神ゼウス神の偶像を拝み、神のシャバットを汚し、神の祭りを祝ってはならないという

同じ法律が全ての人、特にユダヤ人に課せられたのです。

それに抵抗したのが、マカバイ族、マカバイ戦争、ハヌカの祭りの

由来なのです。

クリスチャンは歴史の中で、反キリスト、ダニエル11章に記された

ギリシャ帝国に起きた同じ反キリストの行為が、歴史の中でずっと

繰り返され続けている事をはっきりと理解して、知り注目しないとならないのです。

1世紀のローマ皇帝達も同じように、神のトラーを生きる事を、法律、勅令により人々に禁じたのです。処刑、重税〜カリギュラ皇帝(37−41年)による法律でトラーを生きる人たちを、重税、処刑で弾圧し、皇帝ネロもユダヤ人、そしてユダヤ人イエシュア信者をおぞましい方法で殺害し続けてのです。

タールをユダヤ人の体に塗り火をつけて自分の庭に設置した人間たいまつとして、その灯で夜の、パーテイを楽しむ。

そして、コロシアムでは、ユダヤ人を縛り、猛獣に襲わせるなど、

そのような迫害が起きたのです。(54-68年)これは患難そのもの、

患難は歴史の中でずっと起こり続けているのです。

神に敵対するものの手により、人はずっと苦しめられているのです。

クリスチャンの世界の教えは、複雑です。歴史線上にあれこれ説明しますが、ユダヤ人の教えはシンプル。悪が統治する時代と、イエシュアが統治する時代が来る。この2つ!

歴史は繰り返され、反キリストの思想、弾圧、迫害もずっと繰り返し

歴史の中で起きている、これからも続くからです。

1世紀ローマ帝国は、その後の皇帝ウェスパシアヌス統治の時代、

トラーを生きる事を禁じ、ユダヤ人を処刑弾圧する事に抵抗した

ユダヤ人による第一戦争が起きて、70年にローマ帝国がエルサレムの神殿を崩壊し、110万人のユダヤ人を処刑し、9000人の

ユダヤ人をローマ帝国の奴隷としたのです。

そして、皇帝ウェスパシアヌスは息子達、ティトゥス、ドミティアヌス皇帝(81-96年)に、ユダヤ人に対して、トラーを生きることを

厳重に禁じ、締め付けるよう、反モーセの五書、反ユダヤ思想を

きつく言い渡したのです。

そして、他のユダヤ人は、神殿崩壊以降、再び世界へ散らされて行ったのです。ローマ帝国下に生きたユダヤ人達は、様々な迫害、重圧、

トラーを実践する、シャバットや祭りを祝うことを禁じられ、これは

ユダヤ人だけではなく、ローマ帝国下に住む市民全てに対して

トラーを禁じる!という勅令が敷かれてしまったのです。

クリスチャンは、昇天以降、神が神の教えを終了し、神がシャバットや祭りを、日曜礼拝、クリスマス、イースターに変えたと聖書に

根拠も記録も神の仰せとして書いてないものを、神の仰せだと本気で

信じているのです。それらは、人間、ローマ帝国の勅令、宗教。

事実に目を開いてください。神の教え=トラー=モーセの五書を生きる事を、反キリスト、ギリシャ帝国、1世紀以降のローマ帝国も

ずっとやり続けて、プラス西洋教父達はローマ帝国の意に沿った思想=反モーセの五書、反ユダヤを語り続けて行ったのです。

 

これは何度言っても、事実を見ようともしない人、知ろうともしない人、確かめようともしない人、そして事実を受け取らない人には、

全て頭上を素通りするでしょうが、イエシュアが警告していた、

預言書に警告されている、荒らす、いむべきもの〜反キリストの特徴は、神の言葉、トラーと神の記念日、神のデザインに反する事をする人たちの事であることを、警告されていることを、聖書からはっきり理解すれば良いのです。

2000年前に初めて、イエシュア=救い、子羊の血の贖い、救い

許し、恵、祝福、永遠の命、聖霊が内側に住まう事が始まり、

それまでの人は、福音=神の元に戻り、本来の姿で生きる、永遠に

イエシュアと統治する大家族に加えられるという事を、人が教えられていなかったと思っているでしょう?

だから、キリストが来られて、新しい教えが伝えられた、初めて

救い、購い、許しが人に伝えられたという、聖書とズレたことを

考えているから、新しい教えが出現したという創作話を信じてしまうのです。

永遠から同じ。エデンの園から、同じ、救い、購い、許し、恵、癒し

同じなのです。

それを、聖書〜モーセ、預言書、諸書から読み取っていないだけで

タナックには、イエシュアが至るところに記されているのです。

だから、それを知っていた残りの民は、未だ地上に来られないイエシュアを知っていたと書いてあるでしょう。

そして、イエシュアも弟子達に、イエシュアがタナックの至る所に

記されている事実を、今一度教えたでしょう。

ルカ24:27 こう言って、モーセやすべての預言者からはじめて、

聖書全体にわたり、ご自身についてしるしてある事どもを、説きあかされた。

人間として最も難しいことの一つは、自分の生きている文化の世界と

そのパラダイム〜「あるひとつの時代の人々の考え方」を根本的に

支える概念から脱却し、物事を客観的に見ることです。

信仰に関して言えば、クリスチャンの世界で浸透した教えは、

人間ローマ帝国皇帝、司祭、教父達、教皇が作った宗教の教え、

神の教えを人間が塗り替えた宗教の教えが、神の最新式の教えだと教えられてきたものなのです。

その教えが、聖書だという、聖書には書いてもいない事なのに、

そのパラダイム〜既存の思考回路から抜け出すのは困難なことなのです。純粋な神の言葉、イエシュアやパウロ、使徒、当時の人が生きていたトラーとは違う教え〜人間の作った混ぜ物の教えなのに、神の

純粋な言葉、教えとは異なるものであることにも、聖書を読んでも

気がついていないでしょう?私は17年前まで、全く気がつけませんでした。

人に刷り込まれた、人が作った教え〜神の教えは昇天以降廃れた、

破棄、終了、無効、古い悪い呪い恵のない生き方に戻るな!という

人間が言っているだけの嘘、神の言葉ではないことから、一変に白紙の状態になることは不可能です。

特に、聖書を人造宗教思想、デイスペンセーション神学や、置換神学、神の言葉は終了〜と教えられてきた人たち、そしてそれを教え

続けている教師達の方が、その思想の脳回路が頭脳にがっちり蔓延り

その考えから出て考えることは、より困難なのです。

なぜなら、私達は自分が体験してきたこと、学習してきたこと、

既存の固定概念が頭の中にあるからです。それを、「箱」と読んで

箱から出て考えるのは難しい、箱から出て考えて!と英語では表現されますが、自分が考えていること、信じていることが、全部真実とは限らない、いやたくさん嘘、偽情報に騙されている!ということにも

気がついて下さい。

簡単にいうと、神の言葉を、人間の編み出した宗教、思想、置換神学や、ダービー教のデイスペンセーション神学などに照らし合わせて

読んでいる、考えているから、聖書とはズレた聖書解釈を編み出しているのです。

聖書を聖書の通り読み、理解し、聖書の通りに生きる!ということに

戻らないとならないのです。

聖書は、聖書、神の言葉を神の言葉で理解、解釈しないとならないのです。

私たちは聖書に記された内容〜テキストに解釈を持ち込む前提〜

人間の思想宗教の思想であることを認識し、その前提が間違っている可能性があり、誤った解釈につながる可能性があることを進んで認めるよう努めなければなりません。

そうしなければ、聖書に書かれた内容〜テキストの正しい意味を見失ってしまいます。残念ながら、ローマ書を研究する多くの人々は、

まさにそのように解釈をしてしまいました。

パウロが言ってもいない意味に、人の思想でパウロの書いた内容を

歪め、曲げて、別の解説〜パウロが神の記念日や食規定を否定しているなどという、解説がクリスチャンの中で平気で語られているのは

間違った聖書の読み込み、無理な解説を施し、聖書を教える人が

トラー=神の教えを知らないまま、何を言っているのかも分かっていないという状態だからです。

 

1テモテ1:6 ある人々はこれらのものからそれて空論に走り、

1:7 トラーの教師たることを志していながら、自分の言っていることも主張していることも、わからないでいる。

1:8 わたしたちが知っているとおり、トラーなるものは、法に従って用いるなら、良いものである。

 

2ペテロ3:16 彼(パウロ)は、どの手紙にもこれらのことを述べている。その手紙の中には、ところどころ、わかりにくい箇所もあって、無学で心の定まらない者たちは、ほかの聖書についてもしているように、無理な解釈をほどこして、自分の滅亡を招いている。

 

クリスチャンの間では、パウロという人物を完全に誤解しています。パウロが何者なのか、正しく理解されてもいません。

パウロが、ラビ・ガマリエルのもとで、トラー、預言書、諸書の最高峰の高等教育の訓練、学問を受けたユダヤ人とは見なされず、神が

イスラエルと結んだ契約〜トラーから離脱した者として誤解、違う

解釈されてきた人物であると、クリスチャンは解説しています。

 

これは主に、今日の聖書学者、教師たちが、聖書に記された神の教え

〜トラーと、人間が作り出した律法を付け加えたラビ的ユダヤ教を区別していないことに起因しています。

さらには、キリスト教宗教の歴史、そして、原典聖書を学ぶという

ことに欠如していることなど、様々な要因があるのです。

クリスチャンの世界では原典聖書ではなく、人造宗教神学を学んだ

教師に、西洋宗教神学で解説される翻訳聖書の世界が教えられてしまっている、それも大きな要因、問題なのです。

パウロはトーラーに反対したわけではありません。むしろ、人間が

作り出した口伝律法、そしてユダヤ人の異邦人に対しての分離主義に

断固として反対したのです。

さらに、多くのクリスチャンは、聖書的ユダヤ教は行いに基づく宗教であり、ユダヤ人は神への従順、行いを通して救いを得ようと努めると考え、そう主張し続けています。

まず、聖書にはユダヤ教もキリスト教も書かれていないことを、

はっきり知ってください

パウロが言及しているのと同じく、当時ユダヤ人の間には、

人間の教え=口伝律法〜神の教えをどう生きるのかの掟、ルールが

あり、それは神の教え=トラーとは異なるものであるということを

まずしっかり認識し、それら人間が作った教え、掟は、ユニバーサル

人造宗教の教理や勅令と同じく、神の教えではないのです。

クリスチャンはこう考えているのです。

イエシュアが来られる以前は行いで、義を獲得、イエシュアが来られた後に初めて、恵の時代になり、罪告白するだけ、信じるだけで許される、楽な時代が訪れたいう教えが出てきたと、勘違いしているのです。

神は最初に先ず行いに基づく救いを定め、その後キリストの死後、

恵みに基づく救いへと切り替えたわけではありません。

これこそが、西洋宗教の思想、教理である!ということ、聖書の教えではないということを、はっきり聖書から把握してください!

 

救いは常に恵みにだけによって、信仰を通して得られるものであり、行いによるものではありません。アヴラハムの譲渡契約を通して

そのことが最初から教えられているでしょう。創世記15章。

これは、エデンの園から同じ、アダムとハヴァに罪告白後義の衣を

神ご自身が着せたことでも、分かるとおり、最初から同じ!

永遠の中、この世の礎が築かれる、造られる前から、屠られている子羊と書いてあることが事実だからです。

 

 

続く