ローマ11章 口伝律法と生きて神の義を獲得できるとズレた思想を持つユダヤ人たちへの警告 | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

1世紀、ヘブライ思索で書かれたヘブライ語のトラーを、パウロが

解説しながら、ローマの群れの人にズレた思考回路を正している

それが、パウロの手紙です。

ローマの群れも、ユダヤ人が大衆、そして、その中に異邦人が混ざっていた群れです。パウロがこのような解説をしている事でも分かる通り、彼らは、トラーを正しく理解しない成熟した成人がたくさんいる群れではなかった事は明らかです。

 

現代の西洋宗教の教え、思想、神学、聖書解説に照らし合わせて、

パウロが語る意味を正しく読み取り、理解しないまま読むから、

パウロの手紙の内容を、神の言葉を変えた教えをしていると誤解、

勘違いしてしまうのです。

西洋宗教の教えが解説する聖書の内容と、パウロが解説している

トラーとの間には、大きな大きなギャップ、溝、違いがあるのです。

聖書を聖書で読み解き、聖書を、聖書の通りに生きなくては、

神が意図したオリジナルの意味、意図、教えは現れ出て来ません。

 

パウロの時代のヘブライ文化、文脈、慣用句、慣用句表現、言語

その他諸々の聖書の中に記されているオリジナルの情報が、聖書を

読み解く鍵、辞書であり、地図、ロードマップなのです。

異邦人が編み出した宗教思想をロードマップ、ナビゲーションにすると、聖書に書かれている本来の意味が消えてしまい、違うものになり、神が語る真実がぼやける、別の意味に変換されてしまう、見えなくなります。

パウロは、タナック〜モーセの五書、預言書、諸書だけから、全てを

話しているのです。新約聖書と異邦人がタイトルをつけてしまった

福音書〜黙示録の箇所は、全て100%タナックだけを指して語って

いる事実にはっきりと目覚め、認識、理解してください。

そして、聖書の中にある全ての書は、100%モーセの五書のみを

指して、土台として語っているのです。聖書の土台、トラーは永遠に

揺るぎません。変わりません。

だから、西洋宗教が唱える、モーセの五書が廃れたという思想自体が、聖書、神の言葉、神の教えなどではない!とはっきり聖書から

気がついて、聖書を読み直す必要があるのです。

進化論と同じく、神の言葉の進化論を、西洋宗教の教えが語り続けていますが、それは仮説〜聖書に根拠がない、真実であると永遠に

証明されない、人間の教え、偽情報に基づく解説です。

 

ローマ11章の中でパウロが話している内容を把握する事が必要です。

エレミヤ31:31で、トラー〜シナイ山で与えらえた同じ契約を

再更新される相手は、ユダの家と、イスラエルの家であり、異邦人ではありません。

イスラエルとは北王朝の10部族であり、ソロモン王朝で偶像礼拝

ソロモンの900人の女性との不品行により、BC722年、アッシリアに捕囚され、その後、切り離されて、異邦人の世界、世界の四隅に離散し、オリーブの木から枯れた枝は、切り離され、異邦人と同じく、同化して行きました。

一方、南のユダ王朝は、ユダとベニヤミンは、BC586年に、

バビロン捕囚に行き、その後ネヘミヤの指導の下、シラス王のもと、イスラエルに戻る事が出来たのです。

それが、バビロンがあだ名を付けた「ユダヤ人」と呼ばれる人たちです。軽蔑した意味でつけられた名前です。

クリスチアノス(クリスチャン=英語)と、1世紀当時呼ばれたのも

あだ名です。キリストに付くものという意味です。

それ以前にもメシアに着くもの〜残りの民は、最初から存在しているのです。そのようなあだ名がなかっただけで、残りの民、イコール

アヴラハムのようにイエシュアを知って、聖霊を内側に受けていた

人達は、最初から存在しているのです。

出エジプトした後、そしてソロモンの時代も、ユダヤ人と呼ばれる人たちは存在しなかったのです。

パウロが、ローマの手紙で解説している相手は、ユダヤ人の群れです。後で説明しますが、異邦人にも2つあります。

世界の四隅へ散らされて異邦人と同化したイスラエル〜異邦人と同じように生きている人たちも異邦人です。契約の生き方から外れて、

枯れて、切り離された枝です。

そして、異教徒である異邦人という人達がいるのです。

 

ローマの群れにいる人達、殆どがユダヤ人であり、そして一方異邦人がいたのです。その中にも北王朝のイスラエル、切り離された人も

含まれているのです。

ここでパウロが問題にしているのは、1世紀当時、彼らユダヤ人の中にあった、口頭トラー、口伝律法を生きていたら、神に近づける、

神の国の座を獲得しているのだというズレた、プライドと思想が

あったのです。

これは、クリスチャンの中にも、実は同じようにあるのです。

キリスト教の礼拝に出れば、あれこれ奉仕やっていれば、献金していれば、宗教活動していれば、それで自分は安全、神がOkとしていると考えている。そして普段の日は、イエシュアが内側に住まわない生き方をしても、何も考えもしない。そして、宗教の伝統の教えや習わし儀式や記念日をやる事を、神の教えだと思っている事も、1世紀当時の口伝律法を生きる思考回路と全く同じなのです。

 

これは、別の解説が必要ですが、イエシュアも言われた通り、

「先祖の言い伝え、伝統の教え」に固執して、神の教えを退けている

と戒められていたでしょう。宗教が作った教えの伝統に固執している事、ユダヤ人の場合も同じく、口伝律法〜人間の編み出した伝統の

教えに固執している!同じなのです。中身は違っても、両者の中に、神の教えではないものがあり、それに固執しているという事は同じです。

ローマ11:1 そこで、わたしは問う、「神はその民を捨てたのであろうか」。断じてそうではない。わたしもイスラエル人であり、アブラハムの子孫、ベニヤミン族の者である。

<パウロは、ユダ王朝の出身者、ベニヤミン族に属する血筋です。>

 

11:2 神は、あらかじめ知っておられたその民を、捨てることはされ

なかった。聖書がエリヤについてなんと言っているか、あなたがたは

知らないのか。すなわち、彼はイスラエルを神に訴えてこう言った。

 11:3 「主よ、彼らはあなたの預言者たちを殺し、あなたの祭壇を

こぼち、そして、わたしひとりが取り残されたのに、彼らはわたしのいのちをも求めています」。

11:4 しかし、彼に対する御告げはなんであったか、「バアルにひざをかがめなかった七千人を、わたしのために残しておいた」。

11:5 それと同じように、今の時にも、恵みの選びによって残された者がいる。

11:6 しかし、恵みによるのであれば、もはや行いによるのではない。そうでないと、恵みはもはや恵みでなくなるからである。

 

パウロがこのような説明をしている理由は、このユダヤ人の群れは、

口伝律法〜人が編み出したトラーをどう生きるかの伝統的な人間の

解説、ルール、教え、様々な掟をやる事により、神の義を獲得する、

神の座に梯子で自分の努力で上り続けるという、ズレた意識がある

人達へ、パウロは話しているのです。この人達は、新生体験がなく

神の教えを正しく理解していなかったのでしょう。

又は、神の教えではないものをやっている事自体、それがズレていると気がついていない事は確かです。

 

神の契約〜神の伝えた教えを生きることは、マスト〜必須なのです。

でも、その中心である、神の元に戻る、エデンの園の外側、神の内側から飛び出た外側の隔離された場所に閉じ込められている状態、

神との関係に戻る事は、人の行いで得られないという事を、正しく

把握していない人々に対して語っているのです。

神の契約=トラーは恵そのものです。

なぜなら、人はズレたら神の元に戻る方法、神の義、許しを得る方法は人は持っていない、だから「恵」と書いてあるのです。

神にしかできない、それを人間が受けるに値しないのに、受け取っている、だから「恵」なのです。

その点を、はっきり理解してパウロが何を言っているのか、

理解しないとならないのです。

 

ローマ11:7 では、どうなるのか。イスラエルはその追い求めているものを得ないで、ただ選ばれた者が、それを得た。そして、他の者たちはかたくなになった。

11:8 「神は、彼らに鈍い心と、見えない目と、聞えない耳とを与えて、きょう、この日に及んでいる」と書いてあるとおりである。
11:9 ダビデもまた言っている、「彼らの食卓は、彼らのわなとなれ、網となれ、つまずきとなれ、報復となれ。
11:10 彼らの目は、くらんで見えなくなれ、彼らの背は、いつまでも曲っておれ」。
 
パウロは、詩篇69:22−23のダビデの言葉を引用しています。
これは、エジプトのパロと同じ事です。神がパロの目を見えなくし、パロの心を頑なにしたのではないのです。
彼らの中にある考えは、もう決まっている、パロは、イスラエルを
去らせまいと決めていた、悔い改めて考えを変える気も微塵にもない。だから、そのパロの決意はさらに強められる事を、神は許可しただけです。絶対に決意が変わらないからです。それと同じ事を、
ダビデの詩篇を引用して、解説しています。
 
神の契約に違反した生き方をした人達は、70年のバビロン捕囚を
通りました。
ユダヤ人イコール全体ですが、全ての人が神を求めて、神の意図通りを生きようなどと考えていないのです。過去も、今も同じです。
異邦人も同じでしょう。個人個人、神を求める人、神の教えに根付いて生きようと考える人〜それが神に選ばれた残りの民です。
神は、神の仰せに応答する人を知っているからでしょう。
神を拒絶する、神の言う事を聞かないで、勝手な事を生きる事をする人も、神は全部お見通しだからです。
そして、ここでパウロが語っているユダヤ人が何を考えていたのか
はっきり理解する必要があります。
死海文書が見つかった場所、クムランの洞窟にカトリックの修道士のように、結婚せず、世間から隔離して生きていた群れがエッセネ派です。彼らの中の口伝律法があり、それを忠実に生きて神に近づこうとしていた、そのような事を考えて生きている、それと同様の意識、生き方をしている、ローマ人の群れのユダヤ人に向けてパウロは、語っているのです。
イエシュアが言われた通りです。

 

マタイ5:20 わたしは言っておく。あなたがたの義がトラー学者や

パリサイ人の義にまさっていなければ、決して天国に、はいることはできない。

ある一部のトラー学者や、ある一部のパリサイ派の語る義とは、

口伝律法に記された義です。これらは、行いにより獲得する事でありイエシュアが提供する、贖い、救いにより得る義とは異なる義であると、イエシュアが話している内容、それをパウロが言っているのです。つまり人間の行いや手柄では、子羊の血の代価に匹敵する負債を払う術を、人間は持っていないからです。

だから、彼らの口伝律法の義に勝るもの〜イエシュアの贖いそのもの

でなければ、ならないと言ったのです。

元は、シンプルなのに、人間が複雑な教えを編み出して、シンプルなものを、複雑にしているのです。

これは、クリスチャンの世界にも同じようにハラハ〜口伝律法が

あるのです。それが宗教の教え=人間が編み出した教えなのです。

でも、それらは神の教えとは全く異なる性質の教えなのです。

 

パウロが異邦人と言っているのは、異教徒異邦人も含まれますが、

異教徒と同じように世界に散って、オリーブの木から枯れて切り落とされた、イスラエルのことでもあるのです。

契約の民でありながら、そこから切り離されて世界へ散り、異教徒

異邦人と同じように生きて来たイスラエル、失われたイスラエルの羊

たちです。彼らは、つまづいた、でもそれは彼らが完全に倒れるためではありません。

 

ローマ11:11 そこで、わたしは問う、「彼らがつまずいたのは、倒れるためであったのか」。断じてそうではない。かえって、彼らの罪過によって、救が異邦人に及び、それによってイスラエルを奮起させるためである。

 

ユダヤ人がつまづくだけであり、倒れるのではないのです。

イスラエルが転んで倒れたので、異邦人が契約を受け取る民となると言う、置換神学はこの箇所を読み違えているのです。

エレミヤ31:31は、ユダの家と、イスラエルの家=異邦人に同化し、切り離された人々と、同じ契約を再更新すると言われたのです。

 

エレミヤ31:31 主は言われる、見よ、わたしがイスラエルの家とユダの家とに新しい契約を立てる日が来る。

<異邦人に対する契約など、存在しません。それなのに、置換神学は、イエシュア昇天以降、異邦人が契約を受け取る代表となったという、聖書にない空想思想神学を語り続けています。

この解説が、聖書とは全く関係のないことは、この後の11章の

パウロのトラー、預言書の解説でも分かるのです。>

 

続く