聖書には、宗教〜人間が編み出した思想、教理、哲学は記されて
いません。
「レフトビハインド」ある日突然イエシュア信者が地上から消える
という「フィクションストーリー」この書籍、映画が多くのクリスチャンの間で読まれ、視聴されて、それが最後に起こることであると、疑いもなく信じられているのですが、それは、そのお話を作った人の創作話、空想ファンタジーなのです。
聖書の物語を映画にする時も、聖書とは異なることが盛り込まれて、
画像として、人に聖書とは異なる教え、イメージが浸透して行くのです。聖書とは違うのに、聖書だと思い込む。
ノアの箱舟も、きよい動物7つがい、きよくない動物は2つがいだけが入ったのです。全部7つがいと思っているのです。
デイスペンセーション神学は、ユダヤ人は永遠に地上、クリスチャンは天で別々の2つの群れとして治めるなどと言っていますが、では
混血の人はどうなるのですか?しかも未来は、天と地が1つになり、神の名も1つ、神の家族は、全て1つとなると預言されているのに、人造空想ファンタジー神学は、聖書とは異なる思想を次から次へと
編み出し、肉に頭脳にアピールする教えをしています。
中世の聖画は、識字率が低い、一般の人は文字の読み書きが出来ない
しかも、16世紀まで印刷技術がないので全て手書きの書、手書きの聖書しかありません。手書きですから、一般の人が聖書にアクセスすることもあまりないし、そして識字率が低い。
プラス、ラテン語にされてしまって、司祭や教皇が解説する聖書解説が、聖書と思い込まされた。これはプロテスタントの世界でも同じです。聖書ではない教えを、教師が、牧師が解説する、正しくない
聖書解説が浸透している同じカラクリなのです。
この西洋教父達は、異教徒あがりであり、異教徒思想。幼い頃から
ヘブライ語のトラーに根付き親しんだいたパウロのようなヘブライ
聖書教授、トラーの深い学びや知識などない人達であり、神の言葉を変えて、聖書とは何も関係のない教理を編み出し続けて行ったのです。
背景が、異教徒、太陽神その他もろもろの異物の思想を持つ人たちなのです。だから、神の言葉を人間が変えることなどに罪の意識もない、神の言葉や記念日を人間が変えてはならないと、神に禁じられている行為であるとも理解していない人たちが教師となってしまったのです。
聖書を正しく学ばない、知らない、正しく教えられる教育がない人々に、異邦人達は彼らの編み出した思想、教理、哲学を教えられてしまったのです。本物、純粋な神の言葉ではなく、人間の思想が混じった宗教の教えを教えらてしまったのです。
その人達には、絵画で聖書の物語などを伝えるために聖画が書かれたのですが、それらは、全て西洋の西洋宗教、太陽神。
だから、頭の上に全て輪っかが乗っている絵画なのです。
神の教え、祭り、そしてイエシュア像が、完全にローマ化された、
聖書とは異なる別のイスラエルの神像、教えが、異邦人の世界では
伝えられ続けて今に至るのです。
これは、否定できない事実であり、この事実をはっきり知ることが
必要です。
そして、ローマ教により変えられてしまった神の教え、変えられた
どころか、オリジナルを生きること、教えること、実践すること、
イエシュアのシャバット、祭りをすることを法律で禁じたのです。
だから、聖書とは違うことを、今もやり続けていても、それが聖書の
記述とは異なることにさえ、聖書を読んでいても全く気がつけないのです。
神の言葉は廃れた〜、この思想の最初、大元は、モーセの五書を生きることを禁じるというローマの勅令です。でも、異邦人の世界では、「我々はユダヤ的な事とは一切決別する」というローマ教の教理が
浸透したから、律法は廃れた、破棄されたと聖書にない事を、
クリスチャンが今も言い続けているのです。
その思想の出どころの大元はローマ帝国の勅令、法律なのです。
そして、聖書を読み違えているので、昇天以降は、神が神の言葉を
記念日を、人間が自由に選択、変えて良いという教理を聖書であると信じ込んでいるのです。
これは、ローマ教教皇が代表して教えている教えであり、世界の全民族のトップに教皇はあり、全ての決定権〜神の言葉を変える決定権を持っていると主張しています。現人神と同じ。
人間が神の教え、言葉、記念日を変える事を神が禁じているのに
それが今の時代の義、正当、恵の時代などと、聖書とは何も関係のない思想、スローガンを信じているから違和感がないのです。
中途半端な宗教改革は、神の言葉に完全に戻らないまま、結局
パン種〜偽物の教えを膨らませる要素を残したまま、今に至っているのです。
そして、キリスト教で聞いている一般的な教え、伝統で教えられている教えは、異教の神々〜ローマ帝国が太陽神信仰に基づき、彼らの
思想、シンボル、儀式、そして人間が太陽神信仰に基づいた教えを
自分たちの宗教に作り変えた教理が取り入れられているという事実に気が付く人でも、大元〜神の言葉の、これ、あれ、それは今は無効などと、勝手に解説しているのです。その思想〜神の言葉を人間が変えて良いという、時代ごとに神の言葉は変わるという、その大元の問題ズレ、罪にはっきりと気が付く必要があるのです。
世界は、偽情報、混ぜ物の教えが蔓延しているのです。
キリストを信じていれば、それだけでいいじゃない?と教えられるしそう思うでしょう。でも、神は神の性質と異なる事、異なる教えや記念日を、一切排除忌み嫌う、姦淫の罪と言われているのです。
ローマ化した、別のイスラエルの神像と、神の教えとは異なることをクリスチャンは教えられてしまっているのです。
妬む神は、偽物と交わる事することを、妬むと言われたのは、
本物ではなくなる、偽物、混ぜ物を混ぜると、神との隔たりができて
しまうからです。神は、別物、偽物を取り入れる事ができない。
真実で、聖なる方であると教えているからです。
エデンの園でも、神の言葉とは違うことをしたから、壁、隔たりが
できて、神の内側、エデンの中から、外に飛び出したことと、同じことが起きるのです。だから、神の言葉とは違うことを信じたら、
神との距離ができてしまう。
そんなに難しい事ではないのです。シャマ、従うと訳されている
ヘブル語は、単純に聞く、聞いて!という、神の教えです。
神の言う通りに聞いて!そして、言われた通りに理解したら、
その通りに生きて、行動して!というシンプルな教え。
親が子供に、これこれしてね。これこれは、してはダメよと言われたら、その通りにする。でも、人間は神の言う事ではなくて、自分が
編み出した、金の子牛の方が、貴重、尊重、重要視しているのです。それこそが、律法主義、自分の編み出した教えが大事。
自分の編み出した教えで神を神が伝えた事とは違う日に、違う方法で礼拝する、それが律法主義です。ヤラべアムの罪と書いてあるそのものです。1列王記12:27-33
神はそんなことを人にしてほしくなどないこと、厳重に警告しているのです。神の言う通りにして!と。人間の手で編み出したもの、
思想、記念日、礼拝方法で、神に近づく。偶像礼拝。
異教の神々に近づく方法と全く同じ事をしているのです。
どうして、神が言われた通りをしないのか?それは、聖書ではなくて
人間の教え、伝統の教え、先祖の言い伝えを、神の教えだと信じ込んでいるからです。長い年月浸透し、恒久化し、大勢がそうしているから、聖書だと思い込んでいるだけなのです。
神の知恵は人間の知恵を遥かに超えているのです。神の知恵が一番
最善です。神が世界の全てを創造され、神が人を造られたから、
神だけが、人にどう生きるかの全てを教えられるのです。
神が神の言われた通り人が生きる時に、人は本当の意味で生きるが
できるからです。
神に近づく方法も、神が提示して教えているでしょう。
しかも、シャバット、新月、神の祭りは、神との関係にある印として
与えられているものなのです。福音の全てを網羅する預言的記念日でもあるのです。花嫁に与えられた婚姻指輪です。実際に生きて、
あらわれ出る、目に見える、表向きの印、内側の信仰の実態を生きて表すものなのです。だから、異教徒は、神の記念日など生きない、
祝わないのです。
日曜日に教会に行く、行かないの問題ではないのです。
それが、良いとか悪いとかでもない。
フェローシップは大事です。週のいつの日でも、誰かと共に話して、祈り合い、励ましあう事は大事、神の言葉を学ぶことも大事です。
主が内側に住むから、その中に主は居らます。
でも、神の呼び出した、モアデイム、アポイントメントの日は、
神が特別に設けた意味があり、聖別されている日なのです。
神が定めていない日は、普段の日なのです。いくら主張しても、
それらは神が聖別された日ではないのです。人間が勝手に決めた日。
それら神が聖別されていない日を主の日、聖日というのは、やめないとならないことなのです。それは聖書の真実ではないから。偽証。
ローマ帝国の伝統で変えられた別物、別の定義。人間が定めた日で
あり、神が定めた日ではない!それがどうしても通じないのです。
聖書に書いてないことを、聖書だと信じ込んでいるからです。
いつでも、モアデイム、いつでもシャバットや祭りではない。
復活〜日曜日〜春分の満月の最初の日曜日と関連づけたのも、ローマ帝国です。既存が、太陽神、日曜日だからです。
復活がどの日でも、シャバットは永遠に第七日目であり、神は神の
聖別された日を変更したなどと、一度も語っていない、聖書にも
書いていない事実にはっきり気がついて、真実を真実と認めないと
ならないのです。
神は神の時と、神のトラーを変えることをする、それを神に敵対するもののすることであると、ずっと警告しているのです。
いつでも良い、なんでも良いと考えるのは、神の言葉を正しく理解していないからそのような主張を違和感なくしているのです。
いつでも良い、なんでも良いというならば、最初から神は人にそう
教えるでしょう。そうではないから、厳重に神の記念日を聖別し
ガードして!と神は人に伝え続けているのです。
黙示録の最後にもある通り、神のトラーを書き換えるものに対しての
厳しい警告があるのです。黙示録22:18-19
いつでも、シャバットなどと言う場合、それは聖書を正しく理解していないから、そのような人間の思想を主張して、聖書と矛盾している事にも、聖書から全く気がつかないのです。
人の世界に暦、時刻表があるように、神が定めたアポントメントの日の暦を、神が人に与えているのに、それを無視したのが、ローマ教です。
イースターも異教の女神の名前です。異教神、悪霊の名前をイエシュアの復活の記念日に付けていること、それ自体考えても異様です。
失礼でしょう。なぜ、神が造った記念日〜祭り、初穂を捨て、
異教の女神の名をつけた別物に変える、不敬でしょう。
復活の命を表す記念日は、過越から3日目の「初穂」の日に、
新しい命を祝う日を神が永遠の中からデザインし創造されたのに、
その神が創造された日を、人間ローマ教が捨てよと法律で決め、
更には異教の女神の祝い日春分の満月の最初の日曜日に、異教の女神の名をつけて祝うと法律で決めたのです。
気がつけば、違和感出るはずです。神が吐き出そうと言われたのは
「混ぜ物の教えのこと」なのです。
ローマ教の記念日に裏には、異教の神々の祭りがあるのです。
日曜礼拝、クリスマス、イースター、ハロウイン、バレンタインデー、これら全て裏には既存の本物の異教の神々、女神の現存する祭りがあるのです。異物。それを、ローマ教的な意味に作り変えただけです。それらは混ぜ物であり、これが姦淫の罪の根なのです。
復活された事は、事実です。でも神は、最初からその事実を、
初穂、7日間の種無しパンの祭りの真ん中の日に祝うように、
創造されているのです。それを捨てさせて、別物を作ったのが
ローマ帝国、ローマ教であり、その人造宗教の祭りを法律で強制的に祝い、オリジナルの、過越、種無しパン、初穂を祝う事を同じく法律で禁じたのです。
ローマ帝国が、神のトラーと記念日をすることを法により禁じた
悲しい、歴史。人間が人間に対して、政治的権力により、神の教えと記念日を祝う事を禁じたのです。
ダニエル7:25 彼は、いと高き者に敵して言葉を出し、かつ、いと高き者の聖徒を悩ます。彼はまた時とトラー変えようと望む。
聖徒はひと時と、ふた時と、半時の間、彼の手にわたされる。
過越の祭りの前の日まで、パン種除去する掃除をしました。
これは、神の命じた教えです。「レント」というものは、聖書にない教えです。神の言う通りに実行すると、色々な事実が神の教えから
分かってきます。その時その時、新しい事を教えられて行くのです。
神の創造された記念日は、実態に生きて、神が実際にその日に特別な出会いを約束している日なのです。そして、大事な事を一人一人に
神の教えを生きる人に教えてくださるからです。
神の記念日はそのようなデザインなのです。
だから、詩篇1章を読むと、神のトラーに根付いて生きる人、生ける水〜イエシュア=神の教えに根付いて生きる人は、時がくれば実がなるとあるのは、1年をめぐり、神のシャバット、新月、祭りから祭りを生きることをする命のサイクルを生きる人は、神の性質通りに
実がなることを教えているからです。
詩篇1:1悪しき者のはかりごとに歩まず、罪びとの道に立たず、
あざける者の座にすわらぬ人はさいわいである。
1:2 このような人は主のおきて=トラーをよろこび、昼も夜もそのおきてを思う。
1:3 このような人は流れのほとりに植えられた木の時が来ると実を
結び、その葉もしぼまないように、そのなすところは皆栄える。
1:4 悪しき者はそうでない、風の吹き去るもみがらのようだ。
1:5 それゆえ、悪しき者はさばきに耐えない。罪びとは正しい者の
つどいに立つことができない。
1:6 主は正しい者の道を知られる。しかし、悪しき者の道は滅びる。