パウロの手紙を、人造宗教思想〜人間の思想であるデイスペンセーション神学や、置換神学、聖書ではない人間の教えで、聖書を読み解く間違いをしているので、聖書とは異なる間違った聖書解説が世間一般にクリスチャンの間で流通してしまっています。
人間の教えなのに、神の教えであると勘違いするのは、それは20世紀に、デイスペンセーション神学のような思想が爆発的に受け入れられ、既存にある、反モーセの五書思想の土台の上に、更に聖書にはない
様々な思想が盛り込まれて、それらを牧師や教師が大絶賛し、
神学校で、そのような神学が教えられるようになったからです。
そして、聖書とは異なる、反モーセの五書思想を土台とする、時代ごとに神の性質と、業、神の言葉が変化するというデイペンセーション神学を宣伝、普及させるために作られた、スコッフィールドチェーン
バイブル〜聖書の1つ1つの箇所に、聖書とは異なる人間の思想の
註解、解説が同等に書かれたものを、聖書として売り出して、それが爆発的に受け入れられたから、それが神の教えだと、読んだ人が刷り込み教育をされたせいなのです。
そのような書は聖書というタイトルで、出版されてはならない、
リコール商品であるのに、世に出回り教師の間で受け入れられ、
そして神学校の講壇から、聖書ではない人間の神学が教えら続けてきてしまったのです。
聖書を聖書で正しく読む、聖書=神の言葉という辞書を土台に
聖書を正しい読み方で読み、神の言葉は永遠に揺るがないという
大前提に戻って、パウロの手紙を読み直す必要があります。
クリスチャンの世界では、神の言葉の方が悪魔化、デビル、デーモンの如く、悪者に仕立て上げられてしまっています。
「人が生きれない厳しい呪いの人を縛る廃れるべき律法」〜とクリスチャンは異口同音に、神の言葉に対してそんな不遜な事を言い続けていますが、何言っているのか、その発言の意味を理解していないのです。
神の言葉に敵対するという意味は、イコール、イエシュア=聖霊ご自身に敵対する意識、行為であり、神が警告する反メシアのする行為であるのに、全くその意味に気が付かないまま、エデンの園のあの蛇の声〜神の教えを疑わせ、曲げる、捨てる、蔑ろにして良いと教える、そんな教えを信じ続け、教え続けてしまっているのです。
パウロも解説しているでしょう。トラーは、霊的なものであり、
善〜良い=トオヴ=神の意図通りであると。
パウロは、普通の人ではなく、1世紀当時最高峰のトラー学者であり100%トラーを支持し、トラーを根拠に手紙を書いているのです。
普通の人がよく理解していない、トラーを裏も表も知り尽くし
暗記しているような、そのような学者が解説するから、普通の人には
分かりにくい話し方になっているのです。
8:4 これはノモス=トラー=神の教えの要求が、肉によらず霊に
よって歩くわたしたちにおいて、満たされるためである。
8:5 なぜなら、肉に従う者は肉のことを思い、霊に従う者は霊のことを思うからである。
8:6 肉の思いは死であるが、霊の思いは、いのちと平安とである。
8:7 なぜなら、肉の思いは神に敵するからである。すなわち、
それは神のノモス=トラー=教えに従わず、否、従い得ないのである。
神はご自分が言われた言葉を帳消しにし、否定し、変更そして、
神が言った言葉の意味を歴史の途中で変えません。
それが、神ご自身の性質であり、神の言葉=聖霊の性質だからです。
神=イエシュア=聖霊=言葉は一体であり、内部分裂、内部紛争、
互いに敵対し挑み合うことなどしません。
神の言葉、神はシャローム、エハッドの性質だからです。
神は、完全であり、途中で訂正するような事を、最初から言いません。神は人間ではないのです。
変わらなくてはならないのは、神の教えではなく、人間の性質の方である事が、ずっと書かれているでしょう。でも、クリスチャンの教え=西洋人が4世紀に作った人造宗教は、人間の内側が変わるのではなく、神の言葉が変更になれ!などと、反モーセの五書、反メシア、
ダニエル7:25にあるように神のトラーの方を変えろ!ということを、ずっと主張し続け、やり続けて来たのです。
異邦人クリスチャンの中に植え付けられた、聖書ではない教え、解説
反モーセの五書思想、キリスト殺しのユダヤ人〜反ユダヤ思想、
この思想は欧米では顕著に分かりますが、日本人にはユダヤ人に対する偏見がありません。ユダヤ人が誰であるか分かっていないし、
又接触する機会もないからです。でも今は、報道で、イスラエルが
悪者に仕立て上げられいますから、マスメデイアだけを信じる人は、一方的に報道されていることが真実だと思い、イスラエルを憎んでいます。
パウロの手紙を、このように取り扱っています。
福音書以降の箇所も同じですが、聖書は全て、タナック、モーセの
五書、預言書、諸書のみを指して語っていますから、タナックのある
箇所を取り出して、その箇所は特定の群、人々に対して、そして
特定の意味で語られ、記されている内容を、クリスチャンの学者や
教師が自分の考えを、聖書に語らせたい意味に操作し、手を加え、
聖書に書いてある意味とは、異なる解釈を施し続けているのです。
聖書を利用して、自分の考えを聖書に語らせるやり方です。
このような読み方は、聖書だけではなく、他の書でも同様ですが、
著者の意図とはまるで違うズレた解説になってしまっていて、聖書〜神の言葉が語ろうとしている意味が曲がり、真実が人に伝わらないままになっているのです。
ローマ人への手紙の9章では、パウロはトラー学者であるので、
パウロのようにトラーを読者は正しく学んでいない、理解していない、トラーを知らない、ヘブライ思索で書かれた聖書を理解しないまま、そしてパウロが語る情報に欠如して読んだら、誤解して読んでしまう箇所なのです。
その箇所には、創世記のイサク、リベカ、ヤコブ、エサウに関する事出エジプトにあるファラオとモーセの間にやり取りされた一連の出来事、そして、イザヤやホセアなど、パウロは様々な事を根拠に9章に
書かれた意味、内容を解説しているからです。
パウロは9章の冒頭で、神の契約はイスラエルに対して与えらた事を話しています。
聖書は、最初から最後迄、一貫して同じ事を語っています。
聖書、神の教えに変化、進化はありません。
神から異邦人に与えられた契約はありません。
厳密に言うと、ノアは異邦人でしたが、ノアの契約は、トラーの中に
入っていて、神の契約の全ては、イスラエルのみを代表として
与えられているのです。
エレミヤ31章に記されている「新しい契約」とは、モーセの五書とは別の内容の婚姻契約ではなく、中身は同じトラー〜婚姻契約が
再更新される未来預言をしている箇所です。
置換神学は、イエシュアが来られた後、異邦人が契約を受け取る代表となった、中身はモーセの五書を終了させた新しいキリストの律法だと、真実らしく聞こえても、それらは全く聖書に記されていない思想を語っているのです。
エレミヤ31章を読んでも分かる通り、神がシナイ山で与えた婚姻契約を再更新する相手は、誰であると書かれていますか?
ユダヤの家と、イスラエルの家だけです!
そして、神との関係にある事実、証拠、保証は、神が提示した婚姻契約に基づいていることを、クリスチャンは正しく理解しないとなりません。
それでは、イスラエルでもユダヤ人でもない異邦人はどうなるの?と思うでしょう。
最初からずっと神は1つの福音、1つの贖いの代価、1つの救いの
方法を教えているのです。
それは、どの時代の、どの人種にも同じです。同じイスラエルの大家族に異邦人も加えられ、同じ婚姻契約を生きることに招き入れられたのです。
出エジプトした時も、ヤコブの子孫、12部族に異邦人も加えられ、
同じイスラエルの民として数えられていたのです。
そして、シナイ山で与えられた同じ婚姻契約書に対して、神の花嫁とされた人たちとして、異邦人も同じトラー=神の伝える婚姻契約を
生きます!と同意して、宣言しているでしょう。
神は、中身が違う2つ別の契約書も、そして人種により別の教えも
人に与えていません。これこそが、異邦人の編み出した空想話なのです。ユダヤ人でも、トラーを正しく理解しない人は、異邦人は契約の民ではないから、部外者と考えていた、いるのです。
ローマ人の群れも同じです。ユダヤ人は自分たちは、選びの民、
そして異邦人は、ユダヤ人になる改宗儀式をしなければ、正式な
神の国の一員ではないと、人間の教えを信じてそう考えていことが
ずっと書かれています。
ヤコブの12人の子供たちは、南と北に分裂し、そして、北の10
部族は契約に違反して散って行き、そしてパウロが引用するように
ホセアには、北の10部族は切り離されて行った事が書かれているのです。
だから、イエシュアは「失われたイスラエルの羊のところだけに
遣わされた」と言ったのです。
これは少し遠回りに深掘りになりますが、トラーでは離縁された妻は
再び夫の元に戻る事が出来ません。
だから、イエシュアが来られて、イエシュアの死を通して、再び
切り離された人々が、神の元に戻る事ができる事実を、地上で証明されたのです。
パウロが書いている手紙の内容を、パウロが語っているトラー、預言書の内容に照らし合わせて考えれば、パウロの言っている意味が
はっきり見えて来ます。
9章には、ユダヤ人としての民族的選びと、そしてその中に書かれているのは、モーセの五書に記されたことを、預言書に記されている
事を例に挙げてパウロがその事実を解説しています。
これは、本当に1つ1つゆっくりゆっくり紐解きながら、考えて行くと何をパウロが言おうとしているのか、理解できます。
ローマ9:4 彼らはイスラエル人であって、子たる身分を授けられることも、栄光も、もろもろの契約も、ノモス=トラー=契約=神の教えを授けられることも、礼拝も、数々の約束も彼らのもの、
9:5 また父祖たちも彼らのものであり、肉によればキリストもまた彼らから出られたのである。万物の上にいます神は、永遠にほむべきかな、アァメン。
神は世界の中で複数の民族と、複数の国=土地を選び出しませんでした。1つだけ!一人に人〜元々異邦人であったアヴラハムを、契約を
受け取る代表としたのです。アヴラハムを神が選んだ理由は、書いてありませんが、神の選びは完全であり、神の計画、意図通りなのです。
そして、アヴラハムが何も他の人より優れていたからではないのです。でも、神は、確実にアヴラハムに、同じ契約〜トラー、全世界に
同じ救い、贖い、祝福を渡す役割を担うことを、アヴラハムも責任を
持って遂行するということを、神は知っていたからです。
ローマ9:6 しかし、神の言が無効になったというわけではない。
なぜなら、イスラエルから出た者が全部イスラエルなのではなく、
<パウロが一貫して語っている事は、肉の生まれが、自動的にその人を神のもとに引き寄せるものではない、贖い救いが自動的に与えられているのではない事を、話しています。だから、生物学的な肉の
生まれが全部イコール、イスラエルではないと言っているのです。
残りの民は、全て信仰により新しくされた人を受け取り、そして
神の与えた婚姻契約に記された生き方を選び生きる人のことなのです。新生体験した後、無法〜神の教えを捨てて、自由に生きる人
それは無法を働く人〜トラーなしであり、残りの民の生き方、聖なる民〜神の花嫁とされた人の生き方ではありません。>
9:7 また、アブラハムの子孫だからといって、その全部が子であるのではないからである。かえって「イサクから出る者が、あなたの子孫と呼ばれるであろう」。
9:8 すなわち、肉の子がそのまま神の子なのではなく、むしろ約束の子が子孫として認められるのである。
<約束の子孫とは何ですか?どの人種も同じですが、ここにイスラエルに関して書かれていますが、信仰により神の贖い、救いを受け取り、神のみ旨〜トラーに記されたイエシュアの性質通りを生きる事を
切望し、選択して、実際に生きる人、それが残りの民〜契約の民〜
約束の民であるとずっと語っているのです。
だから、イエシュアも、「主よ主よと、主の名を使いながら、無法〜
トラーに反した生き方を人に教え、そして生きる人は、契約の中にある関係ではない〜知らない!」と言っているでしょう。
だから、それと同様生物学的に遺伝子がイスラエルであっても、
イエシュアの贖いの代価で与えられた命を信仰で受け取り、神の教えを生きない人は、約束の子孫とは認めませんと言っているのです。>
続く