ローマ9:7 また、アブラハムの子孫だからといって、その全部が子
であるのではないからである。かえって「イサクから出る者が、
あなたの子孫と呼ばれるであろう」。
9:8 すなわち、肉の子がそのまま神の子なのではなく、むしろ約束の子が子孫として認められるのである。
<約束の子孫とは何ですか?どの人種も同じですが、ここにイスラエルに関して書かれていますが、信仰により神の贖い、救いを受け取り、神のみ旨〜トラーに記されたイエシュアの性質通りを生きる事を
切望し、選択して、実際に生きる人、それが残りの民〜契約の民〜
約束の民であるとずっと語っているのです。
だから、イエシュアも、「主よ主よと、主の名を使いながら、無法〜
トラーに反した生き方を人に教え、そして生きる人は、契約の中に
ある関係ではない〜知らない!」と言っているでしょう。
それと同様生物学的に遺伝子がイスラエルであっても、イエシュアの贖いの代価で与えられた命を信仰で受け取り、神の教えを生きない人は、約束の子孫とは認めませんと言っているのです。>
ローマの群れは、ユダヤ人と異邦人の混合です。
パウロはこの言葉をユダヤ人に向けて言っています。
エレミヤ31章にあった、その背景は、人々はバビロンの捕囚の民になり、もう神はイスラエルに対しての契約を無効にして、捨てられてしまったのか?と失望した人たちへ、決してそうではないということを、言ったことと同じです。
この言葉は、船が路線から外れて別の場所へ行ってしまうという
言葉で書かれています。
神の契約を違反したから、神から拒絶されてしまうということを
心配している人に対して、神のノモス=トラー=契約は無効になったのではないということを、パウロが最初に言っているのです。
イスラエルの不信仰は、契約〜神の教えー約束に対する信頼性に
ついて多くの人々を悩ませました。パウロは、神の言葉は、失敗、
不完全ではなく、聖書〜神の教えの基本的な原則を述べることによって、彼らの問題に答えているのです。
パウロは、肉的な子孫〜アヴラハム、イサク、ヤコブの子孫が、
神の契約、約束を受け継ぐのではない。肉の生まれが自動的に、
神の約束を受け取ることには、ならないことを伝えているのです。
この箇所を、正しく理解して、深掘りして読むと見えることがあります。
ユダヤ人には2種類あります。肉の生まれ、生物学的な遺伝のユダヤ人と、霊的に生まれ変わり聖霊を内側に受けているという意味の
ユダヤ人の2種類があるのです。
そして、ユダヤ人でありながら、切り離されて異邦人と同じように
同化して行った人たちのことです。失われたイスラエルの羊がそれです。これは、2章で、パウロが既に説明していることです。
これは考えれば分かるでしょう。人間は同じです。
人間の成り立ち、DNAは人種により変わりません。
同じ人間です。イエシュアが言われた通り、福音、贖い、救いの方法は歴史の全ての時を通して同じ、人種により違いなどない!と
教えているのです。デイスペンセーション神学〜人間の教えは、
神の性質、神の言葉、救いの方法、福音は時代ごとに、人種ごとに
別などと、聖書とは全く関係のない肉の思想を語りますが、それらは
間違った思想であり、聖書ではありません。
神の言葉がそれを証明しているからです。
ローマ2:29 かえって、隠れたユダヤ人がユダヤ人であり、また、
文字によらず霊による心の割礼こそ割礼であって、そのほまれは人からではなく、神から来るのである。
イサクに関して考えてみると分かります。
アヴラハムは、神の約束により、契約を受け継ぐ子が与えられると
神に告げられました。
でも、その後何が起きましたか?どんなに待っても、子が与えられない。不妊の胎で、しかも子供ができる年齢をとっくに過ぎてしまったと考えてました。人間的には、不可能という状況で、その約束は、
没、しくじり、失敗に終わったと思ったのです。
だから、神なんか頼りにしてたら年とるばかりだと、神の約束ではなく、人間の意思、努力、考えにより、神の計画ではない、約束の子ではない、イシュマエルを側女を通して、得たことが記されています。
これは、神の計画とは異なる、肉の行いです。
そして、イサクがやがて神が伝えた通り約束の子として、生まれました。これは全て、神の計画です。
そして、イサクの子であるヤコブとエサウの双子が生まれて来ました。
ここで、長子が普通、相続を2倍受け取る、家族全部を守る役割を
与えられる人なのですが、ヤコブは次男です。エサウが長男です。
本来ならば、エサウが家族の長としての権利と、役割を与えられる
はずだったのですが、エサウはどんな人物でしたか?
長子の権利を、スープ一杯で売ってしまうような、浅はかな思考回路と、行動をする長男。自分の食欲、腹を満たすために大事な長子の
権利を明け渡す、これはイエシュアを銀貨で売った裏切り者のユダと同じ行為なのです。
だから、長男であるというその特権を持つ、イコール、神の契約を
担う人物とはならないということが、書かれているのです。
ヨセフも同じでした。10人兄弟の弟なのに、長子の役割を与えられ、ヤコブとその11人兄弟の家族、全部を飢饉の時に、エジプトで
養い、救い出す役割を与えられたのです。
だから、肉の生まれ〜長子、イコール、神の計画を執行する器であるとはならないということを、パウロはずっと話しているのです。
問題は、肉的な事ではなく、霊的なイスラエルが、神の国を相続するに相応しい人たちである事を、ずっと話しているのです。
これ、2という数字でも、ずっと表されいます。
本物のイスラエルと、そして残りの民である異邦人、この2つの枝が最後には1つになると、書かれています。
霊的なイスラエルとは、神のトラー、神の契約、神の教えを忠実に
生きて、イエシュアの性質通りを生きて、自分と家族とコミュニテイを治め守る人、それが霊的イスラエルなのです。
9:13には、ヤコブを愛して、エサウを憎んだとあります。
これは、神がヤコブを契約を受け継ぐ代表として、選んだという意味なのです。エサウには、そのような力量と、判断力や、神に仕える器ではなかったからです。
これは、人の側に選択にも重要な役割があるのです。
人は、神の教えに応答して生きるか、それとも、神の教えに反した
生き方をするか、その選択が与えられているのです。
これを、母親のリベカは見抜いていたのです。兄エサウのいい加減さ軽薄さ、長子の権利を食べ物で引き換えるような、そんな生き方をする長男に、この家の全ての権限、責任は任せられないと、母親の直感力が働いていたのです。
騙しは、間違ったやり方でしたが、その裏には、神の選びがあったのです。その選びは、エサウの浅はかな生き方により、長子である権利を、神が却下されたということです。人の側の責任と、その責任に
応答しないならば、神は他の人を選ぶということなのです。
その意味は同時に、人は、神の教えを生きるのか、生きないのか、
その態度により、人生が変わってしまうという側面がある事を、
教えているのです。
そして、ここにある「騙し」は、エデンの園の騙しに、さかのぼり
繋がっているものなのです。人は、騙されます。偽の教えに騙され、偽の自己像に騙され信じ込み、神が見えなくなり、本来の自分を生きれなくなる。それがずっと最初から書かれています。
聖書は複雑な事が、書かれているように思います。そうです。
人間の成り立ちの全てを、ヘブライ聖書が教えるからです。
でも、その問題の中核はシンプルです。
神の言葉を疑う。神の言葉を退ける。神の言葉を信じないで、別の
教え〜人間が編み出した教えを信じる。そして騙される。自分が誰か分からなくなる。相手も本来の姿も見れなくなり、偏見と歪みで相手を、空想で、こうだろう〜と思い込みする。関係が壊れる。
そして、自己像が、壊れ、夫婦間に亀裂が入り、家族は破壊される。
これ、ずっとやっているでしょう。
大きなものは、群れ、そして国単位。皆破壊されているのです。
これは14節でパウロが解説している意味に繋がるのです。
14節以降、多大にクリスチャンが誤解している箇所でもあります。
9:14 では、わたしたちはなんと言おうか。神の側に不正があるのか。断じてそうではない。
<神の側に、不正もえこひいきもありません。>
9:15 神はモーセに言われた、「わたしは自分のあわれもうとする者をあわれみ、いつくしもうとする者を、いつくしむ」。
これは出エジプト33:19の引用です。
9:16 ゆえに、それは人間の意志や努力によるのではなく、ただ神のあわれみによるのである。
9:17 聖書はパロにこう言っている、「わたしがあなたを立てたのは、この事のためである。すなわち、あなたによってわたしの力をあらわし、また、わたしの名が全世界に言いひろめられるためである」。
16−17は、何を言っていると思いますか?
神は、神のきまぐれで、憐れむ、いつくしむ、又はその逆をするとでも言っているのでしょうか?そうではありません。
神が慈しむ、憐れむ人は、神の言葉に立ち帰り、神の教えを生きる事を決意し、実際に生きる人に対して、神は憐れみ、恵、いつくしみを
千代に渡り施すと言っているのです。
そうです。神の教えに忠実に、神に対して忠誠である人、神を愛する人は、神の教えを生きる、そのような生き方をする人、そのような
実質を内側、頭脳に持って、神との関わりを真実に求めてやまない人その人に、神の全ての祝福、憐れみ、慈しみを与えると言っているのです。
そして、17節で、エジプトのパロに関して、書いてあるでしょう。パロは何をしましたか?イスラエルの神から遣わされたモーセのいう事を聞き入れず、頭脳を頑なにしたとあります。
この頑なという意味、誤解してはならない言葉です。
出エジプト4:21主はモーセに言われた、「あなたがエジプトに帰ったとき、わたしがあなたの手に授けた不思議を、みなパロの前で行いなさい。しかし、わたしが彼の心をかたくなにするので、彼は民を去らせないであろう。
ヘブライ語では、ハザックという言葉であり、強めるという意味です。神はパロの心中、考えをお見通しでした。パロの中にある、
根強い意志、願望、イスラエルを去らせまいとする気持ち、考えは、
揺るがない〜だから、そのパロの願望通り、神はそれをさせたのです。誰にも、パロの考え、決意は変えられないからです。
でも、神は何をしましたか?パロがシュヴァ=悔い改め、神の言う
通りのことをすることに、軌道修正する機会を、ずっと与えたのです。これ、一週間2週間の出来事ではありません。
10ヶ月近くに渡り、10の災、これは最初はゆるやか、次第に経済に影響を及ぼす災いに移行し、最後は命に対する裁きになってしまったのです。これは、ペサフ〜過越の祭りの時に、又復習し、考え
福音の中核を知ることをすべき箇所でもあるのです。
だから、神は平等に人に戻る!神の言うこと、教えに戻り生きることをするチャンスを与えていることが、はっきりと記されているでしょう。
そして、神の言葉に戻り生きる人に、神は憐れみ、慈しみを施す。
そうではない人は、その人の決意通り、裁かれるという結末が待っているのです。その人の中にある意思は、固く、その通りに強められて
行くこと、神はそれ以上、介入しないからです。ここで終わり!というところがあるのです。
自分の意思、計画ではない〜神の慈しみ、憐れみ、許し、贖いは、
私達の計画を超えたものであり、私達が、神の意図とピッタリになり
神のもとに戻り、神の言われることを信じて受け取り生きる時に
神は憐れみ、許し、慈しみを、神を信じて、神の言うことを生きる人に対して与えると書いてあるのです。
17節では、例え神に反することをする人を通しても、神は神の栄光を世界へ伝える、示すことができるのです。
それらは歴史の史実でも証明されているでしょう。
神に反することをする人の結末〜全て崩壊し続けて来ました。
神の民に反することをする、苦しめることをしても、その中で、神は
神の栄光を世界へ表して来ました。
同時に、神のみ旨=教えを生きる人を通して、神は地上に神の実態
栄光をその人の生きるトラー=イエシュアの性質を通して、人々に
見えない神を見せる、そのような栄光を示しているのです。
どのみち、全ての人を通して、神は神の栄光を表すことができるのです。
続く