間違いだらけのパウロの手紙の解説 | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

クリスチャンの中で教えられている、モーセの五書が廃れたという

教えは、聖書の理に全く叶わない、意味不明な議論です。

 

この議論の問題点は 2 つあります。

第一に、罪の結果死に至らないために、クリスチャンの議論では、

神の戒め、神の教えを捨てて、神の教えに従う必要性をなくすことで、罪が増大する機会が取り除かれたという主張をしていることです。変だろうそれ!です。なぜなら、神の教えを取り除くことは、

神が、イエシュアが警告している、「無法」そのものだからです。

パウロを誤解するだけではなく、神ご自身さえも、分裂症の

精神疾患、言うこと、やることが定まらない、人間以下の存在に

見ているのです。

神が神の言葉を、捨てる、変えよ!という意味は、神が神でなくなるということ、神が不真実となり、嘘つきとなり、不安定な神であり

もしかして、人間以下の存在と言っているのと、全く同じことを

人間の宗教は主張しています。でもそれは、嘘であり、神が言った

ことではありません!

 

トラー=ノモス=神の教え、律法の下にいないと、パウロが語る言葉を、完全に勘違いして神の教えの下にはもういないのだ〜!などと言っていますが、では一体クリスチャンは、神の教えの下ではなく別の霊の教えの下にいるのですか?

聖霊=言葉=トラーなのに、神の言葉に対する基本的な正しい理解が

ないまま、人の思想のスローガンを主張しているのです。

神の言葉は分解できません!取り外し、削除、訂正もできません!

神を人間と同じように、考えるのは、異教徒、異教神の文化に育った神の教え〜トラーを知らない異邦人だからです。

神が単に神の教え=ノモス=トラー、戒めを与えたとしても、肉の

まま生きる人の中には、罪の性質は、種のようにまだ生きているので、再び罪を増大させる機会が与えられます。

したがって、神が戒めを与えたとしても、私たちを罪と死の法則から解放するという目的を達成することはできません。

それが、文字は殺し、霊は生かすという意味です。

 

神のトラーが廃れた、破棄された、終了したという議論では、神は

私たちを「罪と死の法則」から解放しながら、同時に戒めを与えることはできません。

これでは、神は戒めや指示を、人に与えることができなくなってしまうことになります。神のトラーが廃れたとはそういう意味だからです。

そして神は権威ある神ではなくなります。神が人間の側に屈服し、

神が伝えた永遠の真実、神の言葉の方を、神が曲げたと言うクリスチャンが主張すること自体、神が神でなくなるという意味なのです。

人間のレベルに、神を引き下げても、違和感ないのは、人間の思想を

神の教えだと勘違いしているからです。

神と人間の違いさえ、分かっていないからです。

 

第二に (しかし、最初の点と非常に関連していますが)、ほとんどの

イエシュア信者は、少なくとも一般的な意味では、前述の心のレベルでは、私たちが神の法則=ノモス=トラー、教えの全てから解放されているとは実際には考えていません。

ほとんどのクリスチャンは、神が道徳的な指示を与えており、

その最も基本的なレベルは、神を愛し、隣人を愛することであると

考えているでしょう。

 

神を愛し、隣人を愛するとは、それは、神のノモス=トラーに記された神の戒め、仰せででしょう。

愛するとは、人が考える愛ではないのです。神の愛は、トラーに記された人間の生きる全てを網羅する生き方が、愛の生き方であると

教えているのです。だから、これは無用、あれは不要、これも関係ない教えなどと主張しているのは、神の愛の定義、生き方を捨てる

無法行為であり、罪を犯しても良いという、神が定義する愛とは程遠い教え生き方なのです。

神の教え〜ノモス〜トラーを、人間が分解できると考えている時点で、神の言葉=教え=ノモス=トラー=婚姻契約の性質を正しく理解していません。そして、神がシャローム、エハッドである性質と、

神の言葉の性質はぴったり同一なのです。

そして、言葉で全ての創造物が造られ、聖霊が神の言葉を書き、

神=聖霊=イエシュア=トラーと聖書に記されている事実を、正しく理解していないから、人間の思想発想で、神の言葉は廃れたなどと、聖書に書いてもないことを、罪、ズレそのものを主張し、本気で信じてしまっているのです。

クリスチャンは、聖書ではなくて、信仰の土台を、ローマ帝国、皇帝

ギリシャ帝国が出した、¥勅令〜モーセの五書を生きることを禁じる!という人間の思想の人造宗教を信仰の土台にしてしまったのです。

そして確かに、人は神の教えから離れて自由に解放されていません。

しかも、イスラエルの神との関係にあるという事は、神の提示した

ノモス=トラー=婚姻契約に基づいて関係が存在していること

全く理解してないのです。

トラーは祝福であり、恵であり、永遠の確固たる保証であり、神が

人と関係を結んでいる保証、証拠であり、イエシュアそのものの

性質を人に教えているものなのです。

クリスチャンの教え〜神の教えは廃れたという聖書とは真逆の思想を土台に、こんな意味不明な議論で、ずっと堂々めぐりを生み出しているのです。

この2番目の議論によれば、私たちは出発点に戻ってしまうのです。

私たちの肉体は、神と隣人を愛せよという神の道徳的命令に遭遇し、私たちの肉体は反応します。罪は増大し、罪が支配するのです。

 

むしろ、私たちに必要なのは、神の教え、仰せから自由になる事ではなく、罪深い性質、罪の体、罪への奴隷状態、罪と死の法則、邪悪な傾向、それらをなんと呼ぼうともかまわないのですが、その性質

法則、支配から解放、脱皮自由になることをパウロは話しているのです。

肉の記憶〜頭脳の中に、以前の生き方、思考回路、行動パターン

それがまだ生きているなら、私たちは奴隷です。私たちに必要なのは、この「罪の支配の法則」からの自由になる事であり、キリストにおいて私たちが持っている自由とパウロが解説しているのは、まさにそれなのです。

聖書を、激しく逸脱した読み込みをしている事に気がついて下さい。

クリスチャンは、神の古い教えから解放された!と正義の如く主張しますが、聖書が語るのは、神の教えから解放される事ではなく、

私達の古い性質の法則〜罪と死に支配されて生きる事からの解放を

話しているのです。

私たちは「罪と死の法則の支配」から解放されたので、神の教え、

仰せ、命令に、喜んで聞き、生きる事ができるのです。

だから、神を愛する人は、神のトラーを愛して生きる!と教えているでしょう。神を憎む人は、神の言葉、仰せも憎みます。

夫を愛する人は、夫が妻のため、妻を守るために伝える事を憎みますか?神の教えに反する教え、主張こそが、聖書ではない!おかしいと気がついて下さい。

以前罪、ズレを学習した頭脳は、もはや神の法則に否定的に反応しないのです。罪を喜ぶ以前の自分、罪の体は死んでいるからです。

そして、神の教え、ノモス、トラーも神の婚姻契約も、神が伝える

通り永遠に硬く立ち、絶対に滅んでいない、死んでいません。

 

人が「罪の法則の支配」から解放されるために、2つの選択があります。

1つはクリスチャンが主張するように罪を犯しても罪にならないため

罪の定義=神の教えを、神が破棄する事。

もう1つは、罪の傾向に生きる肉の人が、死にふされること、

その2つ以外いないのです。

 

ローマ8:2 なぜなら、キリスト・イエスにあるいのちの御霊の法則は、罪と死との法則からあなたを解放したからである。

 

パウロが数章前に述べたように、私たちは今や「イエシュアの与えた性質〜命に生きる」ことができます。(6:4)

言い換えれば、私たちはもはや、生まれ変わらない以前の自分、頭脳の中で、行動で罪を増やす、神のノモスが示す、「罪と死の法則」

の側面の下にいるのではなく、むしろ、神の仰せに応答して祝福と命を受け取ることを可能にする神の教え=トラー、命の側面の下にいるのです。

古い以前の自分がイエシュアと共に死んでいるので、私たちは神が

本来意図したように、神のノモス=トラーによって祝福を受けることができると言っているのです。

パウロの言い方を見てみましょう。

ローマ8:4 これは律法=トラー=神の教えの要求が、肉によらず霊によって歩くわたしたちにおいて、満たされるためである。

ここでパウロが言っていることは、非常に重要な意味を持っています。イエシュアが罪を負ったので、今私たちは罪と死の法則から解放されたのです。私たちは神のすばらしい戒め〜神のノモス=トラー=教えの正しい要求に常に反抗するのではなく、聞いて、理解し、神の意図通りを生きることができると、パウロは言っています。

なぜでしょうか?それは、私たちがもはや肉(罪と死の法則)に

従って歩むのではなく、御霊〜命の御霊の法則〜神の性質通り、

教え通りに従って歩んでいるからです。

 

これはなんと驚くべき真実でしょう!神は、私たちの恐ろしい問題の解決策は、神の正しく公正な教え=トラー=ノモス=モーセの五書を取り除くことではなく、それらをガードして生きれなかった古い

以前の自分、イエシュアと共に葬られたから、私たちを「罪の支配」から解放することであることを知っています。

ここで、はっきり復習、考えて下さい。

人は、神の教え=トラーから解放されたのではなく、「罪と死の

法則」から解放されたから、神の教え=本来の人間の性質通りを

喜んで生きれる!と言っているのです。

神の教えから解放されたら、それは無法地帯であり、悪霊を呼びこむ

生き方です。罪を罪とも分からないまま、聖別を汚し、破壊を生きる事でもあるのです。それは、罪が増し加わるから、世の中の法律

全部撤廃して、無法地帯を自由に生きる事にしますと、クリスチャンは意味不明なことを、神の教えだと誤解して勘違いしているのです。神の言葉は、誤りがない、100%正しく、神が創造された人の性質

生き方を教えているものであることを、はっきりと理解してください。

神の教えが厳しく感じるのは、それはその人が、神の教えの意味を

正しく教えられていないから、理解できていないからなのです。

神の教えは、蜜より甘くとある通り、神の教えを神の意図通りに

知ることができることは、本当に祝福であり幸いであり、神に最も

近く引き寄せられる臍帯でもあるのです。

ラブレターがどうして、憎むべき廃れた律法に変身するのですか?

神の教えを憎め!というのは、サタンでしょう。サタンは神の言葉を退け、蔑ろにし、憎むよう、毛嫌いするよう人に教え、神の創造の

デザインと逆をさせ続けていることに気がついて下さい。

安全帯、鎧兜を捨てる、安全な囲いに穴を開けることは、危険です。

 

パウロがこれらすべての考えを1つの要約にまとめている様子を見てください。

ローマ 8:5 なぜなら、肉に従う者は肉のことを思い、霊に従う者は

霊のことを思うからである。

8:6 肉の思いは死であるが、霊の思いは、いのちと平安とである。

8:7 なぜなら、肉の思いは神に敵するからである。すなわち、それは神の律法に従わず、否、従い得ないのである。

8:8 また、肉にある者は、神を喜ばせることができない。

 8:9 しかし、神の御霊があなたがたの内に宿っているなら、あなたがたは肉におるのではなく、霊におるのである。もし、キリストの霊を持たない人がいるなら、その人はキリストのものではない。

 

肉にの性質、欲求に沿って生きる人々(「罪と死の法則」に従って生きる人々)は神に敵対し、神の教え=ノモス=トラーを蔑ろにし、神の教えを知ってそれを生きようとも思わないのです。神のノモスに聞いて、理解することもせず、神の教えを理解することもできず、神の前にずれた生き方を続けます。

対照的に、聖霊=神の教えにぴったり沿って生きる人々

(命の聖霊のノモス=聖霊が書いた神の教え=トラーにぴったりと沿って生きる人々)は、これらの神の仰せを、人の性質ぴったりに

行うことができます。私たちは神のノモス=法則=トラーに、ぴったりと神の意図通りに沿って生きる事ができます。

私たちの生き方は、神の意図通り=トオヴの生き方ができます。

 

そして最終的に、ある日、私たちはキリストにおける私たちのアイデンティティ、つまり私たちの死すべき体に与えられた命を完全に実現するのです。

 

ローマ8:10 もし、キリストがあなたがたの内におられるなら、からだは罪のゆえに死んでいても、霊は義のゆえに生きているのである。

8:11 もし、イエスを死人の中からよみがえらせたかたの御霊が、

あなたがたの内に宿っているなら、キリスト・イエスを死人の中からよみがえらせたかたは、あなたがたの内に宿っている御霊によって、あなたがたの死ぬべきからだをも、生かしてくださるであろう。

 

パウロが第 7 章の終わりで非常にはっきりと、そして痛みを持って

表現しているように、今、私たちの現実は新しい人となっていますが、肉体は依然として存続して、朽ちるものであり、記憶が頭脳の中に実際に残ったままと言っています。

だから、私たちは神のノモスと、死んだ自分の性質に引っ張られてしまう事との闘いを続けているのです。

だから、地上〜仮庵=仮の体にイエシュアが住まわれ、そしてこの地上での旅路を、新しくされた人、本当の自己像を学習し続けて、

ずれた生き方を、リセットし続ける過程が残っていることが、

聖書にずっと記されているのです。

それが、荒野〜神の声、教えだけを聞いて、神が言われることを

受け取り、その事実を日々生きる、40年の旅路がイスラエルを

通して、教えられているのです。

 

続く